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ディオニュソス 後編

ここは、古都にある一軒のBAR。
武士が歩いていた時代に作られた人工の川にかかる小さな橋を渡り、細い路地に面した目立たない建物の階段を上がったところ、名刺大の表札の横にある頭を下 げないと入れないような小さな扉を開けると、そこにカウンターだけの隠れ家的なBARがひっそりと明かりを灯しているのである。


その酒場で畑という中年の男とミワという若い女性が、
およそ酒場の男女の会話としては似つかわしくない話題に興じていた。
これまでの話 の続きにそれとなくマスターも耳を傾けていた。

ミワは続ける。
「話を遡って、崇神天皇の10代前、すなわち初代天皇の神武の時代の話をするわね。
神武天皇が大和を制圧した後、皇后を娶るのだけど、この皇后は天孫族の姫ではなく大和の姫なのね。

彼女の名は、媛蹈鞴五十鈴媛命といってその父は、
古事記では大物主神、
日本書紀では事代主命となっているの。

わかる?
もし、媛蹈鞴五十鈴媛命の父が大物主神ならば、
崇神天皇には、大物主神の血が流れており、
大田田根子を探す意味がないわけね。

先程、畑さんが天皇家に大物主の血筋がいないと言っていたけど、矛盾が生じるの。

そう考えると媛蹈鞴五十鈴媛命の父は、事代主命でなくてはならず、
大物主神と事代主命は、同神ではないという理屈になるのよ。

もしくは、大物主神と事代主命は、同神であるが、
崇神天皇には、神武天皇の血が流れていないという可能性が出てくるわね。
崇神天皇以前の天皇が架空の存在を疑われている限り、それも否定できないけど、
天皇家を支えるものが万世一系の途切れること無い血筋を誇っているから、
そうなると別の問題が生じるわね。」

ミワは、ここまで話し終えるとまた、グラスに口を付けた。
畑は、再びこの間合いに助けられた。
彼は、いささか混乱していた。
神武天皇の皇后の父が二人いること。
そして、その一人が理屈的にはありえない大物主であること。
ミワは、大物主と事代主は、別神だと言った。

その思考の混乱を救ったのが、ミワの間合いだった。
そして、一つの話を彼は思い出した。

「でも、ミワさん、
大物主とか事代主て役職だと言ってましたよね。
個人名でない以上、血の繋がる大物主と血の繋がらない大物主がいてもおかしくないですか?」

畑の意外な言葉にミワの目が再び鋭くなった。

「畑さん・・・あなた、意外とするどいのね?」

思わぬミワの反応に、畑の表情はほころんだ。

「実は、そこが鍵なのよ。」
ミワは続ける。

「その前に、大物主と事代主の名前を明かしておきましょう。
勿論、私の考えだから最初に言ったように妄想だと思っておいてね。


大物主を祀った三輪山の麓、このあたりを磯城と呼んだの。
崇神天皇は、ここに磯城瑞籬宮を築いています。
今は、その後に志貴御県坐神社が祀られているわ。

神武天皇は、その少し南西の橿原に初めて宮を築いたのだけど、
当時の大和の中心は三輪山付近の今で言う桜井辺りだと思うわ。
そして、この三輪山が祭祀の中心であり政の中心だったと思うわ。
だから、神武後、崇神の時代になって大和の征服が完成されたのだと思う。

で、それまで磯城を治めていたのが、
磯城彦と言われる、兄磯城、弟磯城という兄弟がいたの。
神武天皇に攻め込まれた時に兄磯城は戦ったけど殺されたわ。
反対に弟磯城は恭順し磯城県主となるの。
そして彼の娘や孫娘などが第2代天皇から8代まで皇后や后を出し続けるの。
ここまで磯城家の血を天皇家に入れるって異常だと思わない?
そして、それならば初代天皇の后も・・・」

「ちょっと・・・まって、じゃあ・・・
神武天皇の皇后の父は、弟磯城だと言うんですか?」

「そう考えるのが自然じゃない?」
こともなげにミワは返した。

「ということは、弟磯城が事代主命になるわけか・・・」

「大物主でないなら、そういうことになるわね。
そして、思い出してね。
私は大物主とは大将軍だと言ったわよね。
将軍なら戦って戦死するのは敗戦国によく見られることだわね。」

「ということは、戦って死んだ兄磯城が大物主ということか・・・」
もはや、畑の言葉が独り言のように小さくなっていた。
決して歴史や神社に詳しいわけではなかったが、畑は、ミワの話に飲み込まれていた。

ミワは少し目を細め、静かに続けた。
「当時の磯城国は巨大でした。
しかし、彼らは好戦的な民ではなく、天孫族との戦いに敗れてしまいました。
天孫族は勝利したものの、偉大な王であり大将軍であった磯城彦への従属心を押さえ込むには、
司祭長であった事代主命こと弟磯城を取り込む必要があったのでした。
軍事力を持たない事代主命は、磯城国を守るために天皇家に恭順し娘を神武に差し出すしか生き残るすべはありませんでした。
これは、神武にとっても有益なことであり、神武は事代主命に大物主の名を兼任させ磯城国の民を押さえ込みました。
それほど大物主の名の力は偉大だったのです。
ただし、大物主の権力を奪い名誉職とし、実際の軍事力は倭大国魂に委ねました。
そして、神武は磯城から少し離れた橿原に道臣命を従え宮を築いたのでした。」

また新しい名前が出てきたと畑は思ったのであるが、
ミワの口調と声色が微妙に変わっていたことに気付かなかった。

「そっか!」
急に畑が声を上げたので、ミワの目が開いた。
「畑さん、どうしたの?」

「いや、大物主が祟ったのは天孫族に滅ぼされたからなんですね。
だから、大物主の・・・いや兄磯城の血を引いた大田さんを探して、魂を鎮める必要があったのですね。」

「そうね。面白いのは、それを進言した倭迹迹日百襲姫命の母は、倭国香姫といって弟磯城の血を引く女性だったの。
彼女は、又の名を蠅伊呂泥(はえいろね)と言ってね。
ハエという名は、弟磯城が黒速(くろはや)といい、その子らしきのに磯城県主葉江(しきあがたぬしはえ)というのもいることから、
弟磯城一族に関係深い名だと言えるわね。
そして、奈良の事代主命が八重事代主命というのも、八重がハエだからだと言う人もいるようね。」

「なるほど、大物主は自分の血を引くものが残っていないので、弟の血を引く倭迹迹日百襲姫命に憑依して、
敗戦後逃げていた自分の子である大田田根子に自分を祀らせようとしたわけですね。
血というのは、濃いものなんですね?」

「少なくとも古代の人はそう考えたのよね。
もしくは、弟磯城一族も兄磯城の復権を目論んでいたのかもしれないわね。
宮が磯城に築かれたのだから、昔からの磯城の民の反発もあったのかもしれないわね。
そして、今まで祀られていなかった大物主こと兄磯城を古代からの信仰の中心に置き戻すことに成功したのかもしれないわね。」
ミワは、少し疲れた表情でそう話を結んだ。

畑は、ミワの表情を見ながら、
彼女の話が本当でも嘘でも、また話が聞きたいなと思った。
酒の神も彼女の話を歓迎しているように感じたのだ。


          おわり

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