巡禮セレクション 53
2014年10月2日
【大妄想】シワ人
先に言っときますけど、とてつもない妄想をぶちまけます。
話、半分以下で読んでください。
事の発端は、昨日、
録画しておいた神社百景のビデオで盛岡八幡神社を見ていたときです。
盛岡の紹介で、最初に志波城が映し出されました。
坂上田村麻呂が志波城を築き、これにより律令国家の北限が広がったという話でした。
ご存知のとうり、陸奥一宮は、鹽竈神社ですが、ここの社名は現在、志波彦神社・鹽竈神社です。
志波彦神社は、鹽竈神社の境内社になっていますが、どうやら志波彦神社のほうが格が高いようです。
その志波を冠する城があるということは、盛岡に志波という地名があり、その地神が志波彦だと考えるのが自然です。
おそらく、宮城も岩手も同じ神によって治められていたのではないでしょうか。
この志波彦は、○○○さんによると阿須波神だということです。
そして、少し前に、○○○さんは、「諏訪大明神=阿須波神」説。と言う記事を書かれました。
すなわち、
志波彦=阿須波神=諏訪神
ということです。
盛岡八幡宮のチャグチャグ馬コというお祭は、馬を連れた行列が、鬼越蒼前神社を出発して八幡さんまで練り歩きます。
この鬼越蒼前神社は、元は蒼前神社といいました。
それが明治時代に駒方神社とかえられ、その後、地名の鬼越と以前の名前、蒼前をつけて鬼越蒼前神社に戻されたそうです。
ということで、鬼越という地名があったのです。
これは、志波城の少し北に位置していると思います。
おそらく、先住民である鬼がその峠を越して大和の支配地に渡ってきたのではないでしょうか?
もしかすると、鬼渡とも通じるのではないか・・・と考えました。
そこで、地名に着目し鬼越を調べると、
千葉県市川市に鬼越がありました。
「かつて、このあたりに恐しい鬼が住んでいたといわれ「鬼子居」と呼ばれた。その後、鬼子居が「鬼越」となった。」
とのこと、この鬼はおそらく先住民でしょうね。
次に志波ですが、これが九州にあったのです。
福岡県朝倉市杷木志波
佐賀の徐福の上陸地に近いと感じました。
名の由来はわかりませんが、九州と東北に同じ志波があるのは興味深いです。
それから、余談ですが、この志波は、
「黒田家の筆頭家老であった栗山備後守利安(大膳の父)は、杷木志波の左右良城主として志波以東の領地を与えられ、30年ほど栗山利安・大膳親子の治世が続きました。」
と黒田官兵衛の黒田家の領地でして、〇ちゃんの黒田郷とシンクロしています。
さらに調べると、
「東北地方においては、諏訪(すわ)と志波(しわ)は同じ発音になるのです。東北人の私から言わせれば、どちらの発音も「すわ」なのです。」
と書かれたブログがヒットしました。
なんと、諏訪と志波は同じだったとは・・・
これなら、諏訪神と志波神は同じだということになります。
福岡に志波があり、鹿児島に諏訪之瀬島という火山島があるのです。
もしかして、諏訪/志波は、全国区なのでは・・・
とそんな気がしてきました。
そして、スワとは、スワスチカのスワと同じなのでは・・・という直感が働きました。
スワスチカとは、卍のことです。
どうでも良い話ですが、僕の新婚旅行はバリ島へ行ったのですが、その時のガイドがスワスチカという名の男性でした。
「どうぞ、スワちゃんと呼んでください。」と流暢な日本語で出迎えてくれた思い出があります。
少しスワスチカについてウィキからコピペすると、
「サンスクリット語: स्वस्तिक(svastika スヴァスティカ)または श्रीवत्स(śrīvatsa シュリーヴァトサ)と呼ばれる。英語の swastika やフランス語の svastika もこのサンスクリット語に由来する。現在の日本語では「まんじ」は漢字「卍」の訓読みとされているが、由来は漢語「卍字」または「万字」の音読みである。」
「卍(まんじ)とは、ヒンドゥー教や仏教で用いられる、吉祥の印である。現代の日本では仏教を象徴する記号としてよく知られる。
同様の記号は世界各地にあり、西洋では太陽十字からも発生した。」
「最も古い卍は、新石器時代のインドで見られる。一方、ドイツのハインリッヒ・シュリーマンはトロイの遺跡の中で卍を発見し、卍を古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボルと見なした。
ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の胸の旋毛(つむじ)、仏教では釈迦の胸の瑞相が由来で、左旋回の卍は和の元といわれ、右旋回の卐は、力の元といわれる。」
「日本では、奈良時代の薬師寺本尊である中尊の薬師如来の掌と足の裏に描かれたものが現存最古の例とされる。
卍を組み合わせた、紗綾形(さやがた)は安土桃山時代に明から輸入された織物に見られた文様で、染め物や陶磁器などに使用される。「卍崩し」「卍繋ぎ」「雷紋繋ぎ」ともいい、英語では key fret と呼ばれる。また、法隆寺など飛鳥時代から奈良時代の建築に見られる「卍崩しの組子」の組高欄は、卐を崩したものである。」
「2006年、徳島の阿波踊りがドイツで披露された際、浴衣の卍文様を自粛したこともある(徳島藩主蜂須賀氏の家紋が卍であったため、今でも阿波踊りでは卍をあしらった浴衣がよく見られる)。」
阿波とも関係ありそうです。
日本への伝来は仏教由来だと考えられますが、もしかすると縄文時代よりこのシンボルを神聖化していたのではないか・・・と想像します。
また、もしかすると
サラスヴァティー(サラスヴァティー、サンスクリット:सरस्वती)のスワも同じ意味ではないか・・・と思います。
サラスヴァティーは、芸術、学問などの知を司るヒンドゥー教の女神で。日本では七福神の一柱、弁才天(弁財天)として親しまれています。
また、サラスヴァティーはゾロアスター教のアナーヒターと同起源と推定されます。アナーヒターには、ハラフワティー・アルドウィー・スーラー(Harahvatī Arədvī Sūrā)という別名があり、ハラフワティーは言語学的にはサラスヴァティーのペルシア語読みとされるためです。
これは偶然の一致ではなく、インド・イラン共通時代から信仰されていた女神が民族の分裂とともに2つに分かれたものではないかとされている。
僕は、瀬織津姫の原型にアナーヒターがあると考えています。
おそらく縄文の女神はスワの女神だったのではないでしょうか。。。
そして、縄文人のことを、僕はシワ人と呼ぶのではないか・・・と考えたのです。
倭人とは、支那人が勝手に名付けた古代日本人の呼称です。
その日本人は自分達を何と呼んでいたのか記録はありません。
よって、日本人は支那人が勝手に名付けた呼称を自分達の名だと信じ込み、自分達を倭人だと信じて疑いません。
僕は、シワ人と呼んでいたのを、ワ人と呼び、軽蔑視した倭の字を当てはめられたのではないか・・・と想像しました。
支那系渡来人が来る前に、シワの女神信仰を持った縄文文化が繁栄していたのではないでしょうか?
ところで、志波と聞くともう一つ連想するのが、シバの女神です。
以前、僕は西王母というテーマで記述しました。
その時の関係のある文章を転記します。
「西王母を中国読みするなら、「シーワンムー」と読むようです・
西王がシーワンです。
シーワンの女王とするなら、シバの女王を連想します。
シバの女王の統治期間は、紀元前10世紀と考えられています。
西王母と出会った穆王の在位期間は前985年? - 前940年だそうです。
時期的に一致する可能性があります。
原本を読んでいないのでわかりませんが、
「新約聖書では「地の果て」からやって来た南の女王(Queen of the South)と表現される。」そうです。
シバの女王の国はこのため、イスラエルの南方のイエメンやエチオピアとされていますが、
この地の果てとは、東西に長いユーラシア大陸に置いては、西の果てもしくは、東の果てになるのではないか・・・これは太陽の動きにも対応していると思います。
そして、南の女王とは、イスラエルから見ての南ではなく、「南の女王」という既に別称を持っていたのではないか・・・
これは、中原に対して中国南方の女王、即ち蜀の女王を意味していたのではなか・・・とも考えられます。
といっても、これは少し強引かもしれません。
僕もそう信じているわけではありません。
ただ、シバという名はシヴァ神を連想させ、
シバ神とはヒンズー教の破壊神。
「ヴェーダ神話に登場する暴風雨神ルドラを前身とし、『リグ・ヴェーダ』では、「シヴァ」はルドラの別名として現われている。暴風雨は、破壊的な風水害ももたらすが、同時に土地に水をもたらして植物を育てるという二面性がある。」
「シヴァ神の乗物はナンディンと呼ばれる牛で、ナンディンも神として崇拝されている。通常、シヴァの寺院の前にはナンディンが祭られている。」
「シヴァの妻はパールヴァティーで、その間の子供がガネーシャ(歓喜天)である。」
「頭頂部からは小さな噴水の様に水が吹き出しており、絵画で描かれる場合には頭髪の中ではガンガー女神が口から水を噴出しているものも多い。これはヒマラヤ山脈におけるガンジス川の始まりの水を示す。また、首を持ち上げたコブラとともに描かれる。」
妻のパールヴァティーは、山の女神。
その妹でシヴァの頭髪の中にいるガンガーはガンジス川の川神です。
「片手に先が3つに分かれた「トリシューラ」と呼ばれる鉾を持っている。」のですが、三叉の鉾も意味があると思います。
また、以前から気になっていたのは、
「ナタラージャ(踊りの王)とも呼ばれ、丸い炎の中で片足をあげて踊っている姿の彫像で描かれる。」
この片足を上げて踊る姿は、蔵王権現をそっくりです。
蔵王権現もまた、強力な神です。
そしてこの神を信仰する山岳信仰、修験道は白神信仰だとも言えます。
蔵王権現の聖地、吉野は、桜の名所。
それゆえ滋賀県には、瀬織津姫を祀る吉野神社はサグナダリの訛り桜谷からの連想からその名付けられています。
修験道では瀧神信仰が必須だと思いますから、深いつながりもあると思います。 」
パールヴァティーは、山の女神で、
サラスヴァティーは、水の女神です。
山の神と水の神は、日本では同質です。
というのは、山が水を生むからです。
瀬織津姫は山で信仰される時があります。
そして何より滝は山に存在します。
ヒンズー教でも、山の女神パールヴァティーの妹がガンジス川の女神、ガンガーですから、同じ思想があると思います。
そして、シヴァとパールヴァティーの子がガネーシャですが、像の顔をしたガネーシャは、古代出雲族が信仰した猿田彦大神です。
古代出雲族が渡来した時に、すでに日本には人が住んでいました。
もし彼らがシワ人ならば、インド由来の出雲族とも信仰的にも融合しやすかったように思います。
随分と展開してしまいましたが、諏訪は思っているより深いかもしれません。
今のところ、弥生時代の徐福から日本の歴史を追っていますが、それ以前にも日本人がいたわけで、橿原遺跡を見るように広範囲に交流した高度な文化があったと思われます。
いずれは、その時代へも切り込みたいと思いますが、なんせ文字記録がないので、さまざまな手がかりから感性で受信したものを想像力で展開するしかないと思います。
今回の記事は、今後の手がかりになるかもしれないと思い記録しておきます。
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