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おすすめの舞台

この舞台についてはすでに書いたのだが、2021年もっとも心を動かされた舞台ということでもう一度触れておく。


それにしても、この舞台について寄せられた感想文には驚くものがあった。曰く、「こんなくだらない舞台はない、みんながまんして最後まで席を立たなかっただけだ、猛省しろ」とか。

「つまらなかった」というならまだいい。いや、ほんと言うと良くない。素晴らしいものを素晴らしいと思えない人がいるのには興ざめする。だがそこは押し付けられない。世の中にはものの価値がわからない可哀想な人がいるのです。神様どうぞあなたのお慈悲を彼ら彼女らの目をもう少しばかりお開きください、ダイバーシティ、ダイバーシティ、くわばわらくわばらである。

ところがそんなもんじゃない。「みんながまんして最後まで席を立たなかった」だあ?どの分際で市民を代表しとるんじゃ、おりゃあぁぁーっ。

趣味は人それぞれ、を越えて、この感想を寄せてきた市民は完全に間違っとる。少なくともここには感動して素晴らしいと打ち震えている市民がいるのだから。


・・・とぶちまけたが、このように、評価のきっぱり別れる作品であったということだ。

面白かったのは、普段たいていの作品に辛い評価を出す会員が「この芝居は良かった」と言っていた、という話をちらほら聞いたことだ。一般受けする作品を好む人には嫌われ、一般受けする作品を好まぬ人には受けるということか。「え?あの人がこの作品を押すの?」と言っている人も複数いた。



舞台となる場所は、団地である。近所づきあいのある団地で、近くには工場がある。時代設定はほぼ現代と考えて差し支えなかろう。Amazonで楽器やアンプが買える時代である。


この設定から物言いをつけた人もいる。曰く、今時団地で近所づきあいはない、という。

どうかなー。まず、物語においては人と人が関わる、というのがないと始まらない。人と人が関わらないのは、むしろ物語的にはリアリティーが乏しいのである。それに、本当に世の中には隣や上下に住んでいる人のことを知らない団地しかないだろうか?舞台の団地は同じ工場で働く人が住んでいる。まったくつながりがないというのはむしろ不自然な気がする。


父親がコロリと死んでくれてよかったと電話で「本音」を「友人」に向かって話す主人公。彼女は昔アイドルの事務所に属していた。ふと、バンドをやって再び人前で脚光を浴びたい、という半分冗談のささやかな思いを抱く。それでAmazonでエレキギターの一式を買い揃える。

ここに、団地の仲間、団地を仕切っている嫌われ者、ボケた老人、刑務所を出所した女性、バイト先から無理やり連れてきた楽器に詳しい詩人、人生の進路に悩む少女、といったクセのある面々が関わってくる。だれもが、大部分は男性がらみの抑圧した「本心」を持っていて、それがぷすぷすとくすぶっている。これほど面白く、魅力的で、コワイ場所もない。


だからこれはノスタルジックな長屋・下町物語なんかではないのである。人との関わりが希薄なはずの社会の中の人が希薄でなく関わらざるを得ない社会、というリアルなのだ。当然、摩擦は起きる。それでも表立った摩擦ではなく、かけひきは水面下で起こるのだ。そこが絶妙である。


おそらくだが、理解するのに多少のセンスを要求する作品であったのだろう。世の中にはエヴァンゲリオンのように、解説なくしては大半の人が理解できぬような作品というものさえ存在する。あれは極端な例だとしても、一部の人に理解し得ない作品というものはある。

理解されなくても面白いものはある。判りやすさは親切ではあるが、ときにそれは野暮である。客の方が感性を磨けば済む話だ。

うーん、ここで「理解」というと「頭で考えるもの」と思われてしまうかもしれない。ちょっと違う。やっぱりセンスなのだ。

例えばこの作品はすべて老いも若きも女性のやりとりだけで構成される。だが重要なのは不在の男性なのだ。冒頭とつなぎの部分で、窓から印象的に顔だけが音楽とともに男たちの顔が現れる。こういう演出は、美感に訴える。そこに何らかの意味を直感的に感ずる。おそらく作品を批判する人たちにはその感性を欠き、そんなシーンの存在さえもう覚えていないのではないか。


女性が、生きる上で秘めつつ、ほとばしらせる感情の数々が胸にヒットした。笑いを取るシーンも非常に多かった。だが、客席の全員が笑うのではなく、半数くらいが腹を抱えるほどに笑い、残りがきょとんとしていた。

それこそ名作の証であろう。



#2021年のおすすめ舞台

#脚光を浴びない女

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