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リスクと安全の備忘録(2) 安全という地平の先のダブルチェック


医療安全の話を続ける。

ダブルチェックというものについての話である。ダブルチェックとは文字通り2回チェックすることによって間違いを減らすことだ。医療現場では主に看護師の間で浸透している。もう少し詳しく言うと、単に2回ではなく、人を変えるなり時間を置くなりしてチェックすることで「2つの脳でチェックすること」などという説明のされかたもある。


ダブルチェックがエラーを減らすという充分な根拠がないのは複数の論文で指摘されている(Alain K Koyamaら(2020)のレビューがある)。

ましてやトリプルチェックなど論外で、多重チェックについては島倉大輔・田中健次(2003)の研究がよく引用されているようだ。


根拠がないのに信じられているものを迷信という。ダブルチェックはまじない程度の意味しかないと、みんな知らないのだろうか?いや、知っていても手放せないのかもしれない。

厚労省のセミナーで京都大学医学部附属病院医療安全管理部部長、松村由美先生は


「ダブルチェックは “sacred cow”(神聖な牛) ではないだろうか?」(*1)


とバッサリ言っていた。ダブルチェックが批判してはならない聖域のように扱われているというのだ。


不合理さを自覚していながら何度も確認をするという行為は、精神科で「強迫」と呼ばれる症状である。症状と呼ばれるだけあって健全なものとはみなされておらず、不合理なものである。事故を起こして白い目で見られるのは明日の我が身と思うからか、それでも確認強迫は蔓延している。



そもそも看護師は、ミスをしやすい状況と、ミスをすることを許されない立場に追い込まれている。患者さんに直に接する機会が多い実行部隊だからである。

看護師に実行すべき指令を出す司令塔は別にいる。医者と呼ばれるその司令塔は、どれだけどんな指令を出すか読めないときがあり、なぜそんな指令を出すかも判りかねるときがあり、どこにいるかもよく判らないときがある。とにかくわんさか指示を出して、本人だけがその意図を了解しており、白いコートを翻して院内のどこかへ颯爽と消えてしまうのである。


現場には看護師と、従うべき指令と責任とが残される。外から責められやすい身分にされている上に、看護師自らが作り出した独自の文化のせいで内からもあれこれ言われやすい。だからミスへの恐れも強くなって当然だろう。ダブルチェックという藁にしがみつくのは無理もない。


「プロは失敗をしない」

「間違えないよう注意深くあることを肝に銘じます」


これらの根性論が、看護師文化の中では平気でまかり通っている。美学さえ感じている人がいるかもしれない。


だが、リスク管理の上では上記のセリフは禁句に近い。リスクの軽減にはなんら貢献しないからだ。



薬を渡し間違えて患者が死んだというような、うっかりミスが大きな事故を招いた場合を考えよう。現場ではだれもが「二度と間違いを起さないように」と、以前よりも注意深くなるだろう。ていねいな確認作業をすることで、失敗の恐怖を一時的に振り払える。

また、とくに間違えた当人は「反省」する。周りからも、「ミスをしたやつ」「そそっかしい人」という視線を浴びる。ダブルチェックや指差呼称は自らを罰する儀式として、罪滅ぼしのためにも役に立っているのかもしれない。



さて、薬の投与間違いである「誤薬」を始めとする事故の頻度については統計が取られている。毎年の報告によれば誤薬率は約0.2%という一定の頻度から大きく変わらない。各病院はこの割合を全国水準と勝負することになる。

0.2%を大きく下回れば立派なものである。だが患者はそうは思わない。1件はとてつもなく大きな1件である。


「この病院は1000回に1回、薬を間違えますよ」


などと言われようものなら「こんな病院怖い」「なにいい加減なことをやっているんだ」などと思うに決まっている。それは自然で正当なことではある。


医療者も当然ながら事態を重く受け止める。「本質的な安全の追及」のためには、リスクを減らすことが必要なのであるが、「事故ゼロ」という非現実的な理想論が平気で謳われるために、それはかえって遠ざかる。


どうしても病院というのは、マスコミに報道されるようなことがあったときのイメージばかりで評価される。できれば事故が起こる前にリスクが判ると良い。患者がもう少し強気に病院を選べるエラい立場になれるとよいのであろう。より安全な医療を提供する病院がどこかを調べられ、アクセスも整っていて選び放題であれば。医療機関は選ばれる側になる。


そこで架空の制度、『医療ユーザー団による病院視察』を考えてみよう。今ある病院評価機構ではなく、一般人が立ち上げた自分たちが安心して医療を受けるための団体による病院視察である。また、病院も足の届くところに豊富にあるものとする。


さて医療ユーザー団はあくまで一般人の代表である。医療の知識も一般人と同じ程度である。現場で病院を評価をしようとした場合、何を見て判定すれば良いのだろう?清潔さ?病院の慌ただしさ?最新機器をどれだけ導入しているか?

そのとき、ダブルチェックをしている看護師の姿が目に入った。ときに看護師の時間を奪い、仕事を中断させられるろくでもない、あのダブルチェックをしているのだ。だが視察団には、看護師が安全のためにひたむきな努力をしているように見える。実際、看護師もそのつもりである。「ああ、患者のために、日夜働いてくれている・・」


団長は言う。


「ありがとう。これからも事故を起こさないように、その調子で頑張っておくれ」

「はい、頑張りますね」


両者が手を取り合って涙を流す。


ある日、団長が、いつかどこかの病院が医療ミスを起こしたというニュースを見たとき


「ああ、この病院は、あそこと違ってちゃんとダブルチェックをしなかったんだな」


と思う……



まったく自然で、普通にそう思えてしまうというのが困ったものだ。

ダブルチェックをしている看護師がミスをする確率は、シングルチェックの看護師と大して違わないというのに。


ただ、以上の話を、何か茶化したようには捉えないでもらいたい。合理的にだけ考えるとダブルチェックにはさほど意味はないかもしれないが、これがまかり通ってしまうということには、無視できない「何か」があると考えたほうがいいのかもしれないではないか。

ただ「失敗の確率を下げる」という点からだけではダブルチェックの価値はあやしくなるが、「誠意」という観点からはどうだろう?心は見えないかもしれない。だが私たちが失敗を責め立てるとき、失敗そのもの以上に、相手の態度を問う。態度とは、その裏にあると想定される「心」の現れである。見えるものを通して、見えないものを大きく評価している


医療者もそこには無配慮ではない。むしろ患者にもっとも近い場所にいた看護師は、誠意こそが問われつづけ、それに応えてきたのではないか。その結果が、今の看護師のカルチャーを作っているのではないか。合理主義は迷信行動を排除するかもしれないが、広い視点で考えたとき、儀式には少なからぬ意義があるはずだ。


こうなるとリスクを巡る問題は、単に工業から発した安全学から学ぶにとどめるのではなく、社会学などの観点からも考える必要があるのではないだろうか。リスク学では安全を第一に考える「安全文化」を安易に重視するが、それがいかなる意義・効果を持つかをきちんと示せたものに私はお目にかかったことがない。

そろそろ稿を閉じたいので、安全文化の話に深入りするのはやめるが、「文化」を論じるならもっと幅広い視点からも考える必要があると思われる。



案外我々は医療に安全を求めていないかもしれない。たとえば安全とは違う「安心」などを求めているのかもしれない。患者が、医療者のなすことをどう受け入れ、納得するのか。それを踏まえて、医療者はどう振る舞えば良いか。


そこまで考えたとき、ダブルチェックという文化はどうすればよいのだろう?


Ver 1.0 2021/ 6/12



(*1)ダブルチェックの有用性を再考する



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