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改めて選挙を考える

私が選挙に行くことに意味があるか。

「選挙に行くことは大事だ」という信念のもとに選挙に行ってきた。この「思い込み」が刷り込まれている人は多いのではないかと思う。昔隣に住んでいた年配の方が病気になってしまったとき(たしか不在者投票が一般的でなかった時代だったと思う)、「棄権だ」という言葉に悔しさがにじみ出ていた。


すでに「思い込み」と言ってしまっているのでもうお分かりかと思うが、「思い込みに過ぎないのではないか」と私は疑い始めているということである。


選挙が大事な理由。正論はいくらも言える。だが、ちょっと違う発想をしてはどうだろう?例えば科学的に考えるとしたら?


私が投票に「行く」と「行かない」によって差が生まれるときにそこには私の行動に何らかの影響力、意味が見いだせることになる。この「差」をどう取るかは難しいところだが、「誰が当選するか」ということであれば影響力などほぼないことは誰にも明らかだろう。

いや、分かる。小さな影響力はある、と主張する人たちがいることは。その影響力の寄せ集めが選挙の結果となる。だが現実的なことを考えれば、負け戦というものはある。逆に勝ち戦でもいい。大半はどうせ勝つのである。あるいはどうせ負けるのである。やはり思っていた通りの結果になったとき、私の1票では覆らなかったことが明らかになる。


「1票の意味は、候補者の当否のみだけにはあらず」というのならばまだ分かる。落ちた候補者に投票したのであっても、99票が100票になるのであれば明らかにそれは異なる数字であり、ことによってはその1票分、候補者にとって励みになるかもしれない。これは当選した人についても同じかもしれない。


ここはあえて当否にこだわって考えよう。「みんなが選挙に行けば世の中は変わる」式の意見はいくらも聞く。それはいくらなんでも理想論であることは、現実的に考えれば簡単に分かることである。みんなは選挙に行かない。

みんなが選挙に行くようにする運動をすることになら意味があるかもしれない。だが私は人の行動をどう変えるかということに腐心する仕事に就いている以上、「選挙に行って政治を動かしましょう!」というキャンペーンが虚しく、効果という観点だけからはむしろやめるべきものであると警鐘を鳴らす立場である(それ以外に意味があるというなら止めないが)。


選挙が義務の国もある。そのように法律を改正するほうがまだ見込みがあるだろう。


政治とは現実だ。効果的であることは重要である。なのにプロセスにこだわりすぎると、「選挙には行くべきだ」がただ教条化するのではないか。


選挙には行かない、という選択肢はある(棄権せずに薄氷を投じるべきだという意見もあるが、それも教条かもしれない)。政治活動だけが政治に関わるということでもない。


どう社会を変えるか。真剣に考えたとき、「選挙に行くこと」が効果が薄そうだと思ったら、さっさと別な、もっとうまく行く、願わくば誰もがスムーズに受け入れる手段を取ることが大事だろう。


効果を欠いた「選挙に行け」が、もっとも政治のことを考えていない発言になることさえある、というのが私の政治的意見である。


ちなみに「負けが確定した」と言われても、阪神タイガースの優勝のための応援ならやめない。効果のあるなしの問題ではないのだ。


#私たちの選挙

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