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落語の病跡学「おいらのねえさん」

『紺屋高尾(こうやたかお)』結構好きな噺である。

神田染物屋に勤めている職人の久蔵が、吉原で花魁道中をしている高尾太夫を見て恋煩いをする。三年働いて十両以上貯め、ついに吉原で高尾と会う。去り際に久蔵は、次に来るのは三年後だろうと言い、自分がただの奉公人であると正体を明かす。高尾は翌年年季が明けるから、そのとき女房にしてくれという。年が明けて約束の日になると、本当に高尾がカゴに乗って染物屋に現れ、久蔵に身請けされる。高尾は紺屋高尾と呼ばれ、染物屋は繁盛する。


言葉、通じるだろうか。

花魁は吉原の遊女の、いちおう最高位だ。太夫も最高位だが、時代が下るとこの言い方はしなくなる。

吉原は正確には「新吉原」。公に認められた遊郭である。

花魁道中は、高下駄を履き豪華絢爛な衣装を着た花魁が、遊女の見習いで世話役でもある禿(かむろ)たちや男衆を連れて、馴染みの客が待つ店まで八の字歩きをして行く様子を、「道中」=旅の過程 に見立てて呼んだもの。

年季が開けるというのは働く義務の期間が終わることで、27歳くらいのことである。


実際に紺屋高尾と呼ばれた五代目高尾太夫がモデルの噺である。

浪曲か講談がオリジナルであろう。ほとんど同じ内容の落語で『幾代餅』というのもあるが、これは似たような実話があったか、高尾の実名を使うのを避けて作られた可能性もある。

ちなみに談志は、たぶんこういう噺はスキじゃないと思うのだが、講談師に『紺屋高尾』を教えてもらい、演っていた。いっぽう『幾代餅』については、「どんな噺かも知らない。教えてくれなくていい」と言っていた。

プリティー・ウーマンのようなシンデレラストーリーといっていいが、玉の輿に乗るのは久蔵のほうである。プリティー・マンである。




おいらのねえさん、と先輩の遊女を呼んだのが語源である。「花魁」を本日のテーマとする。



さて、たとえばこの「おいらのねえさん」が転じて「花魁」となったという知識は江戸検定の勉強をしていて覚えた。Wikipediaを見ると、定説ではないというようなことが書いてある。

他にも、「花魁と遊ぼうとしても初会(1回目)と、裏を返し(2回目)たときは会うだけで、馴染み(3回目以降)になって花魁に拒否されなければやっと肌を合わせられるようになる」とは杉浦日向子先生が言っていたが、Wikiはそれにも否定的である。

たしかに、遊女と馴染みになるまで一夜を共にできないくだりを述べた落語はほとんどない(紺屋高尾はそのように演じられることがある)。落語のほとんどの登場人物たちは、初会で床に入るまでに至っている。


これは、吉原に遊びに行った層が、時代によって違っていた可能性を踏まえる必要があるかもしれない。

また、遊女にもピンからキリまであるということを考えなくてはいけない。『盃の殿様』と『品川心中』では、出てくる遊女の格が違う。仮に花魁と呼ばれていたとしても、江戸後期だと「花魁」の位が乱発されていたらしいから、ピンの遊女であるとは限らない。

高尾は松の位と呼ばれる、太夫の中の太夫である。俗に『傾城』『傾国』と呼ばれるような美人だ。琴・三味線・華道・茶道といった教養を備えた、高級娼婦というものに当たる。客より格上なので、座るのも上座である。

現代の女優のトップスターよりもまだ人気は上かもしれない。久蔵はそういう人にあこがれて食事も喉を通らなくなるほどになったのであり、コネと偶然のおかげでようやくお目通りが叶ったという背景を理解して噺を聞く必要がある。

立川談春は太夫をアイドルに変え、『ジーンズ屋ようこたん』というパロディーの新作を作っている。




高尾太夫、幾代太夫は誠ある人として描かれるが、遊女と言うのは妬みも買うから、悪口も言われる。


女郎の書く文誠なし 筆に狸の毛が混じる


キャバクラ嬢がバックヤードで足を組んでタバコを吸いながら、店に来るよう客にLINEで催っている姿でもを想像するとよいだろう。

遊女のほうにも客への不満はある。『お見立て』などで描かれるが、しつこい客は遊女には嫌われたという。アフターをしつこく迫る客のようなものか。いつの世も客商売は大変である。


歴史の中に遊女が登場して以後、売る側と買う側それぞれの層、位置付けは時代と共に変遷するようだ。「春は売り買いの対象にしていはいけない」と見なす社会や人もあれば、それを普通のことと捉える社会や人もある。

吉原で遊ぶということも、現代人が風俗店に通うこととはニュアンスが違いそうだ。今なら男性の風俗通いは眉をひそめられる行為である。杉浦日向子先生によると、江戸時代は、大店の主であればお得意様の楼にはむしろ通うことが良しとされていたという。

またセックスワーカーの側に焦点を当てると、格が高い太夫などは一見人権が保証されていたようにも見える。たしかにナンバーワンクラスなら楼主にも一目置かれたかもしれない。(だが実際には多くの人がひどい扱いを受けていたらしいが)


性の売買の是非は難しい問題である。「双方合意であるならば誰にも迷惑はかけていないではないか」という言い分もあるかもしれないが、法律で言えば公序良俗に反する。倫理学的には、美徳の問題がある。進化心理学的には・・・我々の体って、結構乱婚前提で作られているところもあるんだけれどね。まあ、「婚姻という所有を侵すことが、競争のコストを高める」か。


売買春は取締りの対象になるいっぽうで、決してなくならない。もっとも取り締まられるのは、婚姻制度がある社会だからである。売買春は社会秩序を乱すものと見なされるのである。

昨年国立歴史民俗博物館で開かれた『性差(ジェンダー)の日本史』展で言われていたことによると、日本はもともと婚姻制度が緩く、その頃は売買春の概念自体が存在しえなかったのだそうだ。「売春は最古の仕事」は嘘だという。



ところでゴダールは、「すべての仕事は売春である」と言ったらしい。分かりやすいところで、アイドルは、スポーツ選手は、誰のものだろう?肉体ばかりか、立派な人格であることまでもが労働になってしまっている。


そう考えると、性産業ばかりを特殊に考える必要もないように思われる。

性の搾取ならではの悲惨さというものはあるかもしれないが、あえて一度その視点を外してみる。搾取は別の職種にもあった。さて、その視点でもう一度遊女を考えてみる。

仕事に対する蔑視もあった(それも性的搾取の内に入るとも言える)。また経済搾取がひどかったようだ。歴史の文献を紐解くと、江戸時代に入ってから遊女というものが男に雇われる存在に変わって、そうなったらしい。

データまでは出せないが、例くらいは挙げておこう。『春駒〜吉原残酷日記』に出てくる花魁、春駒(森光子)の『吉原花魁日記』によると、売り上げの7割5分をハネられていたという。着物代を捻出するためパトロン探しに苦労する様子は『品川心中』にも描かれている。妹分を従え座敷を維持するにもお金がかかった。借金が重なるというブラックな構造があり、抜け出すのは結構な無理ゲーであったかもしれない。

ここからは、「人の人生は誰のものか」ということをからめた、花魁についての私の考察である。

現代では、自分の人生は自分のものに決まっていると考える人がほとんどだろう。これは当たり前ではない。江戸時代には自由の価値は高くなく、そういう言葉さえなかった。「孝行」だの「忠」だのといった価値が横行していた時代である。だから人はよほどひどい苦痛を感じないと、社会的不自由に抗わなかった。

それでも遊女たちは自由のために闘ってきた歴史がある。たとえば火をつける、という手段で。吉原の火事は23回あり、うち13回が遊女の放火によるものである。この中には、遊女たちが手を組み、長年にわたって議論を重ねた上でなされたものもある。

春駒も、遊女をやめるために、他人の力を借り、法的に戦うまでに至っている。


そこで思った。あれ?闘いかたに、個があるぞ?人の手を借りても、個は個である。家という繋がりの中で考え、動く、というのとは違うように思うのである。自由の価値が高い。


自分の裁量で売り上げを上げる努力をしていたことと、教養の高さと、空間的な閉塞とが、自由に焦がれさせ、またそれを戦略的に手に入れることに繋がったのかな、と。


そう考えると、花魁というはのは、少し江戸人離れしているように思うのだが。


気になるぞ、花魁。


Ver1.0 2021/2/1


花魁の出てくる落語。



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