毎週ネタだし日記/若々しく年を重ねるということ

やっぱ毎日は無理だわ

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超絶無責任な状況だとわかると、年齢を聞かれたときには必ず「29歳」と言うようにしている。何かに影響する嘘でもないので気軽にサバ読んでいるのだが、友人が隣にいると「平然と嘘つくなよ」とツッコミがはいるので、そのときは笑って訂正している。
とはいいながらも、そういう人材が近くにいない場合、「年齢についてツッコミを入れる」行為がそもそもセクハラやモラハラにあたりそうなので、ひとまず受け止められてしまうことがある。笑いになる嘘と冗談は好きだが、基本的には真摯に生きていたいタイプだ。他愛ない虚言を受け止められそうになったときは、「いや本当は35(今度の10月で36)っす」とわりとすぐに訂正をする。

女もアラフォーになると、現実を受け止めきれずに1歳か2歳年齢をサバよみしたくなることは大いにあると思う。昔々の母親たちが「ママのことは20歳っていいなさい!」と冗談めいて我が子に吹き込むきもちもなんとなく理解できるというものだ。20歳はさすがにアレだが。

という話をなんでしているかと言うと、最近トランスエイジという単語を知ったからだ。
トランスエイジ当事者として、アベマで紹介された男性のことをネットで斜め読みしたところによると、「実年齢は33歳だが、バイト先で失敗ばかりしており、『その歳になってこんな仕事もできないの?』と言われることが多いため、自分の年齢に違和感を持つようになった」とのことで、自認年齢は28歳ということなのだそうだ。
この事例だけを見てしまうと、ピーターパンシンドロームに近いものなのではと思うし、単純に能力が低いだけって話じゃないか、と思うわけだ。なので、「配慮すべきマイノリティとは方向が違う問題を抱えた一個人の話」という捉えられ方がSNS上では一般的なように思えた。

話を戻そう。理由はどうあれ、アラフォーくらいになってくると、何かにつけて「自分にかつて存在していた若さ」に縋りつきたくなる瞬間が多くなる。
「若さ」という言葉自体が、美しさや強さを示すものという価値観は、だれしもきっとどこかにあると思う。そんな無敵の武器を持っていた時代にはもう戻れないことはわかっているのだ。だけど、「29歳」とうそをついたり、「心はまだ若いままだけどね~」と言ってみたりして、老いからそっと目を背けるような会話も、冗談の中ではよく出てくる。

でも、老いってそんなに避けたいものだろうか?
老いの恐怖というのは、何らかの能力の衰えを実感した先にある、「死の輪郭が徐々にくっきりと浮かび上がってくること」にあるだろう。
ただ、そういった恐怖に抗うために、我々中年は、体を鍛え、心を癒し、若かりし頃とは異なった思想で新たな知識を取得することで、「老いてこそ輝く若々しさ」を取得することができる。
私はそこに、老いの恐怖を塗りつぶすような、人間らしい美しさを感じたりもする。

老いてなお若々しくあろうと努力する人間は美しい。
60歳でフィジークに出場する女性の肉体美には、「女っていつまでも美しさを追い求めていいんだ」と勇気づけられる。
恐らく70歳以上で、SNSやブログを毎日更新し続ける九星気学士の文章には、「人の心を蝕むような最新の社会問題を、これまでの経験と知識で咀嚼し、癒すよう紡がれた言葉の、新しさと美しさ」に涙を流すこともある。

単に「若作り」ではハリボテ感があるが、「若々しさ」は内面からあふれるその人の強さだ。
そういう人って、結構な確率で何歳だかよくわからない外見をしているので、やっぱり内面から出てくるオーラがその人に「若さ」を宿すのだと思う。願わくば私も、そのようなしなやかに歳を重ねて生きたいと、若々しい諸先輩方の活躍を見て思うのだ。

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ダイエットの機運が高まり、運動と食事管理が完全に習慣づいたこともあってか、飲み会などを経ても体重が51kg台でキープされるようになった。
この歳にして初めて姿を現した腹斜筋を見て、「人間歳とってもチャレンジできることってあるんだなあ」と感じている。
また、仕事面でもやりたいことができるようになってきたこともあり、過去初めて「私はこんな仕事をしている!」と自信をもって他人に話せる程度には、仕事もそれなりに充実している。
なんだかんだ、私は今、人生の中でも一、二を争うくらい楽しい過ごし方ができているんじゃないだろうか。運もタイミングもあっただろうが、それでも自分の努力が作用している部分もきっとあるだろう。それがまた、生活をささやかに彩る要素になっているのだと思っている。

その彩がいつしか20年後に「え、マジで何歳…?」と怪しまれるほどになればいいと思っています。めざせエイジレスババア。

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