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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 6

 ――夕暮れの風が吹いてくると、街は途端にそのおもむきを変えた。
 砂漠を渡ってくる風が、日中街にたゆとうているむせ返るような熱気を愛撫するようになだめて落ち着かせ、まるで異次元へ移行したかのように街は違う表情になる。日の沈むころには、人の心の隙間に吹き込んで本音を試すような涼風が街を支配し、おのずと静かな内省に誘われるような時間帯が訪れるのだった。
 日没の祈りを呼びかける声が、厳粛な尾を引きながら街の路地という路地を通り抜けていく。この唄うような声が、人々が日に五回行う祈りの時刻を知らせるものだと知ったのは、しばらく前のことだった。この声によって午睡のまどろみから醒めた人々は、慣れた仕草で礼拝マットを床に降ろす。彼らが聖なる方角に向けて一斉に祈りを捧げているあいだ、祈り方を知らない私はひとり、あらぬ方向を向いて物思いにふけるのだった。
 私は窓枠に肘をつき、両の手で頬杖をついて、黄昏の気配に身を委ねた。
 不意に夕闇のように、それは訪れた。……それは黒カビのような、明らかによくないとわかっているもので、いつもは胸の奥深くにとても小さくなって隠れているのだが、何かの拍子に、増殖しながらそのねぐらから出てきた。それは耐え難い腐臭を醸しながら、記憶の彼方へ私を引っ張り寄せようとする。そこには胆汁のように苦い、思い出したくないものが拭い去りようもなくこびりついているのを知っている私は、必死に抵抗する。するとそれは、しばらくそこに止まりとぐろを巻いて、私の周りに真っ黒な暗幕を下ろす。そのとき私は完全にフリーズして、すべてのことを諦めなければならないような気持ちになる。暗幕に囲まれて身動きもできないまま、少しずつ力を奪われていくのを感じる。行き場のない感情が、同じところをいつまでも徘徊して、陰鬱な色のよどみができていく。
 ――私は窓枠から滑り落ちて、そのまま床の上にぺたんと座り込んだ。こめかみと頬に、冷んやりとした日干し煉瓦の壁の感触を感じた。
 壁に手を当てて、その表面を撫でてみた。ざらざらした感触かと思っていたが、それは意外にきめ細かく滑らかな、密度の高い泥土の凝集体だった。時の流れを経てますます堅固になったそれは、冷たさと同時に、奥のほうから馥郁ふくいくと湧き出てくるような不思議な暖かみを持っていた。手でじかに触れてみたその感触は、どこかとても深いところから、大切なものを運んできてくれるように感じられた。私は気づいた。一見いかにも無味乾燥に見える泥壁が、実は限りなく頼もしい大地の恵みを包含しているのだということに。太陽の光によって錬成されたそれは、音や想念といったものをただ素っ気なく吸収しているのではなく、むしろその媒体として調和を取ってくれている。そしてそれはいつでもそこにあって、どんなときも変わらぬ働きを成すたぐいのものなのだ。
 私は目を閉じ、日干し煉瓦の壁に、すがるように全身を押し当てた。
 

 ――”あなたは“闖入者ちんにゅうしゃ”、あなたは私たちに、溶け込もうとしているのか、いないのか?”
 ベールの奥からの、または玄関扉の向こう側や、高層階の窓辺から発信される女たちの“想念”は、止むどころかこのごろではますます大音量となって私の耳に届くようになっていた。私はそれをエスメラルダの女将には黙っていた。このようなことを女将が理解してくれるかどうかわからなかったし、もし、理解してくれたとしても、この上彼女をわずかでもわずらわせたくないという遠慮もあった。それに、季節が移って繁忙期となり、宿に泊まるお客も少しずつ増えていて、女将は毎日忙しそうだった。
 いまでは、女たちの“想念”は大きく三つに分けられた。まずひとつ目は、私の身なりや行動を“監視”しているものたち。これらは単に“このコミュニティに混乱や騒動を巻き起こさないで欲しい”と願っているだけといった集団で、私がおかしな態度を取ればすぐに介入するつもりだが、おとなしくしている限りは静観する、といったような態度だった。ふたつ目は“傍観者”たち。私という見慣れない奇妙な異分子を、幾分好奇心の混じった眼差しで見ているが、とはいえ進んで関わり合いにはなりたくない、といった消極的な集団だ。三つ目が厄介で、私をまるで“教育”しようとでもいうかのように、あれこれと詮索してくる連中だった。彼女たちとは路上で擦れ違うときに目が合ったし、“想念”のみならず、まるで邪眼・・のようなむき出しの敵意を投げつけられることもあった。彼女らのゾッとするような悪意に満ちた吸い込まれそうな眼差しに見据えられると、私は自分をまるで蛇に睨まれた蛙のように感じたものだった。そしてそんなときは決まって、肩や鳩尾みぞおちに痛みまで覚えた。彼ら民族のあいだに伝わる、人をうらやんだりさげすんだり、とにかく負の感情と言われるものを抱いたとき、その念の強さによって生じる“呪い”の宿る眼のことを、私は身をもって知らされたのだ。私でさえこのような状況なのだから、もし“闇夜”が昼日中ひなか、公道を歩くようなことがあれば、いったいどのようなことになるのだろう? 彼女が真夜中を選んで街を散歩していた理由がわかる気がした。そして、彼女のこの街での処遇を決めるとき、穏健派の長老たちが昼間の外出を禁じたのは、まず彼女の身を守るためだったのかもしれなかった。
 
 
 邪眼・・を持つ女たちの想念が一貫して表明していることは、祈ることをしない私への不満だった。口々に彼女らの声は言う、“私はあなたが私たちのように尊ぶべきものを尊ばないことが許せない”、“あなたがそれをしないことによって私たちが侮辱されたように感じていることに、なぜあなたは気づかないのか?” ……“祈りに行きなさい。イマームの言葉を聞きに”……。
 イマーム。
 想念としてではあるが、またもこの言葉が私の前に現れた。いまでは私は、人々の尋常ならざる尊敬を集めているらしいこの人物に興味を持っていた。「イマームのご意向」と言ったときのあのハシムさんの敬愛に満ち満ちた眼差し、それはもう、私には理解することの難しいレベルの感情で、彼の内に秘めた情熱すら伝わってくるほどだった。ナディルですらイマームの名を口にするときは、うやうやしく謙虚な表情になっていたし、何よりもこの街の住人が遠巻きながらにしても一丸となって“闇夜”のことを今日まで守っているのは、誰もがイマームを愛し、イマームの発言や決定にはもろ手を挙げて従うという基盤があるからだというのは、驚きだった。
 
 そんなわけで、「イマームを見たい」と言いに行った私の言葉を認めたとき、ハシムさんはビックリ仰天した。文字通り、天を仰いだのだ。理由のひとつは、他所者の私がイマームに興味を持ち、その御姿を拝みたいと言い出したことが嬉しかったからだった。けれどもうひとつの理由は、公の場でイマームの御姿を拝めるのは男性に限られており、何も知らずに放った私の言葉が少々不躾ぶしつけに響いたからだった。
「実は女性のイマームもいるのだが……」
 ハシムさんは真面目な口調で言った、
「君は礼拝所のなかには入れないから……」
 突然、弾かれたように何かを思いついた彼は、その足で休憩所のテントの奥へと走っていった。そして、しばらくしたあと、“闇夜”を連れて私のところへ戻ってきた。ハシムさんの言うことは、こうだった。
 週に一度、イマームは礼拝所にて説教をされるが、ちょうど来週、一年に一度の大説法がこの広場で行われる。その様子を、この“闇夜”の部屋からこっそり見るというのはどうだい? いま掛け合ったら、彼女は快く承諾してくれたよ、と。
 “闇夜”の住む部屋はこの広場のすぐ近くにあり、上層階にある彼女の部屋からなら、おそらく誰にも知られずにイマームの姿を垣間見ることができるだろう、というのだ。
「平生は我々のあいだで暮らし、我々を導いて下さる深い智慧ちえを備えたお方だ。高見の位置から眺めるなどということは、本来ならあまり勧められたことではないのだが、君がそこまで熱心に言うのなら、神様もきっとお許しになるだろう……。……イマームがどんなお方か、存分に見てくるといい」
 と、ハシムさんは言った。イマームを知らない私にその偉大さを教えられることがよほど嬉しいのだろう、自分のアイデアに有頂天になっているようだった。熱心なのは私よりもむしろハシムさんのほうではないか? と、私は苦笑した。
 “闇夜”はというと、割に淡々と、いつものような調子でいた。彼女にとっては特に迷惑というほどのことでもないようだった。もっとも、真っ黒な装束の内側で彼女が何を考えているのか、相変わらず知るすべもなかったのだけれど……。

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