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【短編小説】煙突の見える街

こんにちは、深見です。煙突の見える街に移り住んで早数年、煙突が愛おしくなってきました。

煙突の見える街

 赤と白の煙突があるでしょう。ほら、あっちにもこっちにも、あれらが何のために建っているか知っていますか。煙を吐き出すため。ええ、そうです。それ以外にありませんよね。

 昔はね、そりゃもうひどくって、黒やら黄色やら赤の煙がもくもくと、空に立ち上っていたそうです。いえ、私はそんな時代のことは知りません。聞いた話です。他人の健康なんざ、誰も気にとめなかった時代のことですよ。
 今の私たちからすればとんでもないことですが、もしかしたら、色とりどりの煙が健康を害するだなんて、そんな発想自体がなかったのかも知れませんね。ほら、遠い遠い昔だと、不死の薬として水銀が飲まれていたりだとか、そういう話もあるじゃないですか。何の話だって? もちろん、煙突の話です。

 それでね、赤と白の煙突があるうちの、あっちとあっちの煙突は、ほら、あの工場の煙突です。昨今は、他人の健康にも地球の環境にも注意が払われる時代ですから、煙突から吐き出される煙は出来るだけ綺麗に、ほとんど水蒸気ばかりになっているとか、いないとか。そうなってしまえば、もう雲とかわりありませんね。空へのぼって、ハイおしまい。それでいいんですけれどもね。

 でも、見てください。向こうの煙突。赤と白のしましまの、向こうに建っている煙突です。

 私はね、あの煙突から煙が出ているところを、見たことがないんです。そりゃあ私だって一日中一年中見張っているわけじゃありませんから、私の見ていないところでもくもく吐き出しているのかも知れませんけれど、でも、気になって気になって。


 それで私、見に行くことにしたんです。あの煙突は、どんな建物から伸びているのか。建物の正体が分かれば、煙突から何が吐き出されるのかも想像がつきますからね。工場かしら、製鉄所かしら。もしかして、火葬場だったり? 煙を出さない理由も分かるかも知れません。たとえば、夜しか稼働しないとか。もうとっくに廃業しているとか。

 それで日曜日、自宅で軽くお昼を済ませてから、私は出掛けたんです。向こうの方に見える、赤と白の煙突の根元を目指して。この街に住むようになってずいぶん経ちますけれど、自宅と職場を往復するばかりで、私は自宅の付近すらろくに道を知りません。あんまり細い道が多いので、地図アプリもあてになりません。私はくだんの煙突から目を離さないようにしながら、細い道を進んでいきました。

 道は本当に入り組んでいて、どうにかしたら、迷子になってしまいそうでした。いえ、実のところ、私はとっくに迷子だったのです。ただ、低い民家の屋根の向こうに、よく使う業務スーパーの大きな看板が見えましたので、それほど心配はしていませんでした。いざとなれば、あの看板を目指して進めば、見覚えのある道へ出られるのです。それで私は、煙突へ向かってずんずんと、ずんずんと進んでいきました。

 おかしい、と気が付くのに、それほど時間はかかりませんでした。
 私の自宅から煙突まで、それほど距離はないはずです。少なくとも、二十分も歩いていれば到着してもおかしくない、それくらいの距離なのです。いくら細道をうろうろ遠回りをしているといっても、これほど歩いてまだ着かないということが、あるでしょうか。それも、少しでも近付いている実感が、まるでないのです。ふうと息がもれるほどに歩いたにもかかわらず、煙突はいつもの距離感を保ったまま、民家の向こうに建っているのでした。

 なんだかおかしなことになった。「こういうこと」は、時々起こります。以前、自宅の裏の水路を辿って山へ向かった時もそうだったのですが、どうやら私が好奇心に突き動かされるときは、得てして「こういうこと」絡みのことが多いようです。

 私は諦めて、というか焦って、早々に自宅に帰ることにしました。「こういうこと」には、不用意に近付かない方が良いのです。不用意に近付くとどうなってしまうのか、不用意に近付いたことがないので分からないのですが、きっとろくなことにはならないでしょう。私はつま先の向きを業務スーパーの看板へ向けて、そちらへ向かって歩き始めました。

 このとき私が恐れていたのは、どれだけ歩いても煙突に辿り着けなかったように、このまま業務スーパーにも辿り着けないのではないか、ということでした。そうすると私は永遠に(あるいは私の肉体が朽ちるまで)この住宅地をさまようことになるのですが、幸いにしてそうはなりませんでした。
 業務スーパーがある大通りに出ると、そこにはいつもの日常の顔があり、私はスーパーでペットボトルのお茶と菓子パン(ランチパックのピーナッツバター)を買って、自宅へと帰りました。

 いやあ、疲れた疲れた。大変な目に遭った。家に帰ると、いつものように同居者(人間ではない)が出迎えてくれました。
「おかえり、早かったね」
 そうです。本当は煙突まで行って、煙突の生えている建物をじっくり調べて来ようと思っていたので、予定よりかなり早めの帰宅です。ちょっと色々あってね。煙突までは行けなかったよ。と言って、靴を脱いで部屋へ上がると、同居者が不思議そうな顔をしました。
「でも、煙の匂いがするよ」

 え、そうかしら。くんくん。自分では分かりません。自宅の窓からは、相変わらず赤と白の煙突が見えます。あっちとあっちの煙突は、工場の煙突です。向こうに建っている煙突は……おや。なんだか、今朝までより、通り一本くらい、近くに建っているような。
 気のせいかも知れません。というか、きっと気のせいなのでしょう。気のせいに違いない。気のせい気のせい。

 というか、この窓から見える煙突って、三本だったかしら。もっと多くなかったっけ。五本くらい建っていたような。

「そういうことを考えてたら、本当に増えちゃうからやめときな。ただでさえこの街は、煙突が多いんだから」
 同居者にたしなめられて、私は素直に忠告に従うことにしました。この部屋の窓から見える煙突は四本。あっちとあっちの煙突は工場の煙突で、あとの二本は正体不明だけれど、もう余計な詮索はしない方が良いでしょう。

 煙突の見える街に移り住んで早数年。煙突がある風景は日常のものとなり、どの煙突がどういった建物のものなのか、いちいち気になることもなくなりました。部屋の窓から見える煙突が何本なのか、どれくらいの距離に建っているのかも、もうすっかり気にしていません。

「煙突が多いねえ」
 時々、同居人が窓の外を眺めながら、しみじみと呟いています。そうだねえ、と返事をして、私も窓の外に目をやります。

 ここは、煙突の見える街。赤と白の煙突が、いたるところに建っています。


おわり

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