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【小説】霧の夜を歩く

こんにちは、深見です。
今夜は濃霧だそうです。


霧の夜を歩く

 霧の中を、ぞろぞろと群れをなして歩く人の影がある。
 誰もがこうべを垂れ、じっと地面を睨みながら歩く。
 これが夢遊病者の行進ではないことを、僕は知っている。ここにいる者は皆、強い意思を持ってここにいる。固い信念を持って歩いている。じっと。黙って。耐えるように。祈るように。

 濃霧注意報の出た夜、人々は示し合わせたようにここに集まって、何も話さないまま国道を歩く。海へ向かう片側二車線の国道は、普段は車の通りも多い。けれど濃霧の夜は、この道を通ろうという車は一台もない。時々、県外ナンバーの車が迷い込むこともあるけれど、うつむき歩く人々の群れを見ると、どの車もUターンして帰っていく。

 人々は歩く。濃霧の夜、日付が変わってから一時間か二時間。海へ向かって歩いて、橋を渡ったところで行進は瓦解して、人々は無言のまま家路へつく。どこか失望したような顔で。それでいて、どこか安心したような表情で。


 霧の予報が出た夜にだけ、僕は外に出ることにしている。霧が出ていない日は、出ない。霧が出ていても、日中であれば、やっぱり出ない。

 お母さんは僕の行動パターンを何となく察して、霧の夜には食卓に料理を並べておいてくれる。お父さんも僕の行動パターンを察しているらしく、霧の夜は残業があるからと言って遅くまで帰って来ない。
 霧が長いこと出ないときは、僕はさすがに飢え死にしそうになる。幸いにも部屋に水道が引いてあるから、水に困ることだけはない。晴れた夜には水だけを口にして、僕の体は水と塩素に満たされる。

 それで、今夜は久々の濃霧だった。いっそ霧がずっと出なければ、水ばかりになった僕は、有機生命体としての機能を失うことが出来るのに。なぜか霧は定期的に発生し、僕はお母さんの手料理を食べる。
 今日はパンとコーンスープ、白身魚のソテーだった。久しぶりに固形物を口にする僕のために、柔らかくて消化に良いものを作ってくれたのだろう。
 パンを半分、ソテーを半分食べてから、コーンスープは全部飲み干した。早く食べ終わって、霧の中を歩くことの方が、僕にとっては遥かに重要だった。

 靴を履いて、外へ出る。霧の夜に特有の湿っぽい匂いが、鼻をくすぐって肩口に抜け、僕の体を包み込んだ。
 住宅地の編み目のような通りを抜ければ、やがて国道へと出る。ちらほらと集まった人影が、すでに行列らしきものを形作り始めている。そこへ加わったあとは、ただ黙って、うつむいて、歩くだけだ。

 何も考えなくていい。何も考えない方が良いのだと、いつか出会ったおばあさんが言っていた。「無」になるんだよと。その方が、霧になりやすいのだからと。

 だって、人体の六割は水分なんだから。自分が人間であることさえ忘れられれば、霧に溶けていけるはず。
 それでね、残った四割はいなくなった人にあげるんだ。私はもういらないからねって。それで、本当に帰ってきた人がいるんだよ。いるんだから。嘘じゃないんだからね。だから、ヨシちゃんも帰ってくるの。母ちゃんの四割を、あげるんだからね。

 あのおばあさんの姿を、もうずいぶん見ていない。足腰が痛いと言っていたから、もう霧の夜を歩くのはやめたんだろうか。ずいぶん歳のように見えたから、もしかしたら、死んじゃったのかもしれない。それとも、霧に溶けたんだろうか。おばあさんの六割は霧に溶けて、残った四割をヨシちゃんにあげて、おばあさんのヨシちゃんは、帰ってきたんだろうか。

 霧の中を、ひたすらに歩く。誰かが霧に溶けて、その代わりに誰かが帰ってくる。都市伝説にしても設定が薄いこの噂に、どうしてか真実味を感じてしまう人は多いらしい。それとも、真実味なんて感じていなくても、そうせざるを得ないのだろうか。ほんの少しでも、可能性があるのなら。ただ霧の夜を歩くだけで、自分が霧に溶けるだけで、帰ってきてほしい人が帰ってくるなら。

 今夜の霧はとりわけ濃くて、国道を照らす橙色の光が淡く膨らんで、視界はうすぼんやりと明るかった。霧の向こうに、国道を歩く足だけが透けて見える。もうすぐ橋を越える頃だろう。
 橋を渡ってしまったら、そこはもう噂の範疇外だ。人々は霧の中に肉体を持って立っている自分に気付き、今夜も駄目だったと失望して、失望しながらもほんの少しだけ安心して、そして安心してしまった自分に絶望して、とぼとぼと家路につく。

 僕もそうだ。今、橋を渡り切った。僕はまだ、僕としてここに立っている。僕の六割は霧に溶けることを拒み、今夜もお姉ちゃんは帰ってこない。
 虚しくて、泣きたくて、僕は霧の向こうを透かし見る。そこに立っている人影は、お姉ちゃんよりもずっと背が高い。
「帰ろうか」
 お父さんの言葉に、僕は力なくうなずいた。霧の夜、残業があるからと言って遅くまで帰って来ないお父さんは、本当は残業なんかしていなくて、橋の向こうでずっと、僕が歩いて来るのを待っている。


 家へ向かって、国道を歩く。久しぶりに見るお父さんは、酷く疲れているようにも見えるし、何も変わっていないようにも見える。霧越しに見るから、こんなにぼんやりと感じられるんだろうか。だけど、晴れた視界でお父さんを見る勇気は、僕にはない。

 霧の夜は何もかも、声とか光とか涙とか感情とか本音とか、そういうものを何もかも包み込んで隠してしまう。とにかく静かで、じっとりと柔らかくて、鮮明さを許さない。だからこそ、誰かが霧に溶けて、その代わりに誰かが帰ってくるなんて、あやふやな話だって成り立ってしまうのかもしれない。

 「お父さんは、お前がいればそれで良いんだからな」
 霧の夜を並んで歩きながら、お父さんがぽつりと言った。それはたぶん、僕に言ったわけではなくて、お父さんが自分に言い聞かせたんだと思う。
 ごめんね、お父さん。
 僕でごめんね。
 あの夜、お姉ちゃんは僕を求めて霧の夜を歩いて、お姉ちゃんの六割は霧に溶けてしまった。いなくなったはずの僕は、お姉ちゃんの代わりに橋を渡り切ってしまった。

 お父さんは橋の手前までは迎えに来てくれない。
 橋を渡った向こうで僕を待ち、霧の中から歩いて来たのが僕で、お父さんは失望するんだろうか。それとも、安心するんだろうか。

 お父さんは、僕がいればそれで良いんだ。それだって、きっと嘘じゃないんだろう。
 だけど、だけどごめんね、お父さん。

 濃い霧が、僕の謝罪も、涙も、包んで隠して見えなくする。今夜の霧はとりわけ濃いから、きっとたくさんの人の泣き声が、包んで隠されているんだろう。
 行かないで。帰ってきて。あなたがいればそれで良いのに。あの人がいなきゃ駄目なのに。たくさんの本音が、霧に溶けている。
 おばあさんのヨシちゃんは、帰ってきただろうか。帰って来たヨシちゃんも、霧に溶けてしまったおばあさんを求めて、この霧の夜を歩くんだろうか。

 霧が濃い。明日もたぶん、霧が出るだろう。


おわり。

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