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第十回阿賀北ロマン賞受賞作②小説部門 大賞『三日月ラグーン』朝平祐

この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は朝平祐さんが執筆された第10回阿賀北ロマン賞小説部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『三日月ラグーン』朝平祐

「キザくんじゃない? そのホクロ、やっぱりキザくんだ」
 ホテルの前の土産物屋でポストカードを選んでいると、いきなり日本人の中年女性に声をかけられは面食らった。中学時代の同級生に、こんな外国で再会するなんて思いもよらなかった。
「いいや、おれは観光じゃないんだよ、仕事でね、ずっとヨーロッパをまわってる。そこのダニエリに泊ってるんだ」
 だった。
 すっかりオバサンにはなっていたが、おかっぱ頭と、クリクリした上目使いの目は当時と変わらない。
「さっすがキザくん、やっぱりエリートになったんだね。もう新潟のことなんて覚えてないでしょ?」
 突然の出来事に、渉の額からは汗が噴き出していた。その汗をぬぐった指で、右の頬を掻いた。小さなホクロが斜めに三つ、オリオン座のように並んだ彼のトレードマークだ。
 銀髪を刈りあげた店のオヤジが屋台の奥で、手に取ったものを買うのか買わないのか睨んでいるが、亜湖はおかましなしに渉に聞いてくる。
「ずっと東京? え、まだ独身なの?」
 彼は、背中で質問の矢を受けながら、コートの胸ポケットから小銭入れを取り出すと五ユーロ札を引き抜いて店主に渡し、あわてて切手もくれと英語で頼み、つり銭はチップに渡した。
 ヴェネツィアの、カナル・グランデと呼ばれる大運河に面したひろい通りだった。有名店や老舗ホテルの建ち並ぶ華やかな岸辺だ。
 運河の上空にはまだ昼間の青さが残っているが、水上バスの船着場やゴンドラの係留場の集まる水辺には、飴色の冬の日差しがゆっくりと西から伸びてきていた。
 木崎渉がこの街に着いたのは四日前のことだ。
 国の沿岸技術研究センターのメンバーとしてドイツに入り、バーデンバーデンでの視察を終えると、帰国班と別れて一日早くバスでフランクフルトへもどり、そこから一時間強の飛行機でヴェネツィアの北にあるマルコ・ポーロ空港に着いた。ここでの視察はあと一日。海洋保全研究部主任という肩書だが、団長らメンバー三人の世話係が下っ端役人の彼の主な仕事だった。
 杉原亜湖は、昨日ミラノからここに来て、明日はもうフィレンツェに移動という典型的なイタリア観光旅行の真っ最中らしい。彼女の話はどんどん勢いづいてくる。店の灯りが石畳に漏れ出した、人通りの多い道で、渉は数分つかまっていた。小鳥のるような甲高いその早口は、次々と話題を持ち出しては止まることを知らない。
 銀行員と結婚して、今は新潟市の中心部で暮らしていること、二人目の子供を産んで十キロ太ってしまったこと、それから同級生たちの近況や噂話など、聞きもしないのに次々と名前があがるのだが、ああ、アイツね、あの大食いヤセだよな、などと、渉は自分でも感心するほどいちいち顔と名前を覚えていた。中学二年から一年しかいなかったのに、新潟での生活は昨日のことのように鮮明だった。
 ただなぜか、亜湖の口からは一つの名前が出てこない。と彼女とは親友だったはずだ。
 夕食前の短い自由時間に、とりとめのない話に彼が付き合っているのは、水涼のことを知りたい一心だったのだ。
 たまりかねて渉は口を差し入れた。
「なあ、水涼はどうしてる? 結婚して茅ヶ崎に住んでることは知ってるんだ。サーフィンのインストラクターになったんだよね」
 水涼、という名を口にした瞬間、渉は耳の奥が弾けるような熱を感じた。同時に、亜湖の開きっぱなしの口がスローモーションのように動きを止めた。その濡れた赤い口紅がゆっくりと開いた。
「キザくん、聞いてないの? 水涼のこと」
「え? アイツどうかしたの」 
 亜湖は、渉の肩越しに視線を飛ばし、短い腕を大きく振って向う側の誰かに合図した。振り向くと、船着き場の前に亜湖と同じ年恰好の女性たちが数人、大きな声で彼女を手招きして呼んでいる。
「ごめん、もう行かなきゃだわ。これからゴンゴラに乗るの」渉の視線を逃れるように、亜湖はからだを捩ると、別れ際にオマケのように付け加えた、「水涼、旦那さんが亡くなったのよ」
「いつ?」
「一年前……、びっくりだよね。四十出たばっかりだよ」
「どういうこと?」
「病気だったらしい、たぶん癌ね。水涼、ハッキリ言わなかったけど……。彼女、実家に戻ってきてるよ平林の、子供連れて」
「たまには会うのか? 元気なのかな、彼女。変わってない? その、
今でも……」
「今でもカワイイかって?」
 耳の先まで熱くなるのを感じながら、渉は無言で頷いた。
「全然変わってないよ、見た目はね。ただ、もう昔の水涼とは別人みたいでさ」
「別人……」
「その絵ハガキ、出してみたら。水涼に約束してたことあるでしょ?」
「約束?」
「あの約束よ。覚えてないの? 水涼、怒ってたよ。キザキに裏切られたって。やっぱり、いい加減なヤツだってさ」
 意外な言葉に、渉は細い目を丸くした。額からまた汗が噴き出した。
 友人たちの呼ぶ声に、亜湖は大きく合図しながら、
「ごめん、会えてよかった、じゃあね、キザくんも元気でね」
 彼女はもう走り出していた。
「ねえ、約束ってなんだよ? おい、待ってよ」
たすき掛けにしたショルダーバッグの蓋をパタパタさせて勢いよく桟橋にかけていくダウンの丸っこい背中を、渉の足は五、六歩先まで追いかけてみたが、引き留めるまでにはいかなかった。
 渉は、息をついて、走りかけた流れのままに運河の岸辺を歩き出していた。
 朝方、散歩をしたときにはホテルの前のこの道は濡れていて靴底がひんやりとしたが、昼前にはすっかり渇き、午後の光をたっぷり浴びた後の石畳はほのかに温もりを放っている。アクア・アルタという現象だ。盛り上がった海面が運河を満たし、陸地は水で一時的に侵蝕される。春先のヴェネツィアの風物詩だが、この数日、島から島へ歩きまわっていた彼のウォーキングシューズは、その感触にすっかり馴染んでいた。
 夕暮れの海風も汗ばんだ彼の首筋には快かった。
 運河に張り出した古い桟橋の先から、亜湖たちを乗せたゴンドラが三角の波を描いて藍色の川面を割って滑り出ていくと、キャっという短い歓声が岸辺にまで響いてきた。リアルト橋をくぐって大運河を一まわりするクルージングは観光の定番だ。賑わう時間は過ぎたのか、渡る船の影はもう数えるほどしかない。
 海のような運河の、数十メートル先の対岸には小島が浮かび、要塞のように堅固な教会が低く横たわっている。建物の下のほうはすでに片側半分が影に染まって、色の高い鐘楼だけが燦々と夕日に輝いていた。
 ヴェネツィアに来たならば、誰もが訪れる場所だった。それは、今さっき彼が買ったポストカードの、写真そのままのパノラマでもあった。
 目の前の景観にこころを奪われながらも、渉の目には別の物が映っていた。
 新潟にいた中二の夏、『十二潟』の桟橋にいた水涼の姿だった。竹内水涼とあの湖畔を歩いた日から、もう二十五年も経っているのだ。
「約束? 約束ってなんだよ」
 渉は思い出そうと躍起になったが、当時、水涼と交わした会話や細かい出来事までよく覚えているのに、その記憶だけがすっぽりと抜け落ちていた。
 しかも水涼は裏切られたと怒っているという。まして、自分のことをいい加減なヤツだと言っている。
 いい加減なヤツ――。真面目実直が身上の木崎渉にとって、これ以上の屈辱的な言葉はなかった。頑固だの、変人だの、他人に欠点を指摘されることはあるが、いい加減な男、とだけは言わせない。彼にはそんな自負があった。
 周囲のざわめきはもはや彼の耳には届かず、波の音だけが胸に迫ってくる。
 それは、運河の流れが舟寄の木杭にぶつかる波音だった。岸辺から見下ろすと、太い杭が三本ずつロープでひと塊に結えられて、岸に寄せるアドリア海の荒波を全身で受けていた。垢黒く日焼けした右の頬を西日に晒し、一日の労働を終えた船乗りのようにどっしりと運河の波に洗われている。
 木杭に弾けた白波はそのまま岸辺の煉瓦に当たり、さざ波となって、一列に繋がれたゴンドラをちゃぽちゃぽと揺らす。反り返った船の舳先が岸に擦れると、引きつったような鈍い音に変わった。千年も昔から、ヴェネツィアの運河に響く生活の音だった。
 こうして岸辺に立っていると、身体ごと時間の穴に引きずり込まれそうになる。
 寄せては返す、波の音が、水涼を見つけて川べりを急いだあの夏の記憶を連れて来る。波音に重なって聴こえてくる懐かしい声に、渉は、一心に耳を澄ませた。
「杭はどうして腐らないの? ずっと水の中につかっているんでしょ」
「空気に触れている木は腐るよ。腐らないのは、水中にもぐっている杭のことさ。ヴェネツィアの街の土台には、無数の木杭が打ち込んであるんだ。カシやカラマツなんかの杭が星の数ほどあって、その上に石や煉瓦で土台を築いて、何世紀もかけて造った人工の浮島なんだよ」
 渉が、得意気に、ヴェネツィアのことを話すと、中学生の水涼は目を輝かせたものだ。
「ヴェネツィアは、アドリア海に連なるラグーナの街なんだ」
「ラグーナって?」
「潟のこと、英語ではラグーン」
「じゃあ、十二潟もラグーンね」
「まあ、カッコよく言えば、この三日月湖もラグーンかな」
 夏休みの朝、あの湖畔で、彼女とそんな話をしたのだった。
 朝日を浴びた湖面の光が、ヴェネツィアのラグーナに佇む彼の眼の奥にキラリと蘇った。

 昭和の終わる前年のことだ。
 木崎渉はその年のはじめに大宮の進学校から母の実家のある新潟に引っ越してきた。現在の北区平林、阿賀野川流域の、田んぼのひろがる田舎町だった。
 高校受験を前に、こんな田舎に越してくることを離婚した父親は猛反対したが、渉は父との暮らしを拒み、母親のそばにいることを選んだ。離婚は母にとって大きな痛手だった。実家に戻りまずは落ち着くことが、心身とも病んだ母の何よりの治療になると思われたからだ。
 都会育ちの渉が、新潟に来ることを嫌がらなかった理由はもう一つあった。
 彼は幼いころから、水辺の生活に憧れていたのだ。
「埼玉は海もないし、川もない、あるのは猛暑と空っ風だけ。新潟はよかったね」
 母は、酔った父を尻目にこんなふうにこぼしていたものだ。そんなDNAもあったのか、夏休みになると母が連れて帰ってくれる新潟の海が楽しみだった。家のそばには細長い三日月形のがあって、そこに棲む植物や川魚にも自然に親しんでいた。将来は、海の研究の仕事に就きたいと思うようになったのも、母の影響だろう。
 「渉」という名前も、母がつけた。渉という漢字そのものに「水をわたる」という意味があるのだ。生まれながらの舟人のようで、彼は自分の持ち物のなかでもこの名前をいちばん気に入っていたのだ。
 渉の母であるの実家はこの地で何代も続く専業農家だ。
 七十代の祖父母はまだ現役だったが、満千代の弟が跡継ぎとして仕切っていた。四十になる叔父には農家の跡取りの例外にもれず嫁がいない。渉家族が同居できる環境があったのも幸いだった。
 帰ってきた寒い冬には、暗い新潟の空に負けて気もふさぎ、世間体を気にしてか引きこもりがちの母だったが、田んぼが青々とする季節になると、見違えるほど表情が明るくなっていた。
 水を得た魚というよりも、湖面を侵蝕するごりごりしたオニバスのように、日に日にたくましさを取り戻していく母が、渉にはうれしかった。
 初夏になっていた。
 早朝勉強をしている渉に母が呑気な声をかけた。いい天気だから、前の川までアサザを見に行こうと言う。
 満千代は、三日月湖のことを「前の川」と言う。正式名は『十二潟』だが、地元では「前の川」とか「古阿賀」とも呼ばれている。
 その昔、蛇行した阿賀野川の一部が残って三日月形の「潟」になった。いろんな呼称があるのは、それだけこの川が地元に根付いているからだと、家の年寄りたちは孫に話して聞かせた。川魚や水鳥は、貴重な食糧源だったし、水草は屋根草や壁の下地などにも利用された。川の恵は、それに感謝する潟端に暮らす住人たちよって大切に守られてきたのだと力を込めて祖父母は語った。
 小学生のころ、地図で見るとそれは、三日月形というより、猫のしっぽに見えた。スッーと、一筆で刷いたような、美人猫の優雅なしっぽだ。その根元にあたる北側の太い部分は「下池」と呼ばれていて、渉の家からは歩いて二十分とかからなかった。
 母と川べりの道を歩いたのは何年ぶりのことだろう。ヨシやマコモの生い茂る岸辺に踏み込むと、道がじわりと沈み、渉のスニーカーの跡に小さな水たまりができたが、母は、靴が汚れるのも平気で岸辺にズンズン進んでいく。
 辺りはまだ静かなのに、もうアブラゼミがそこかしこに鳴き出している。今日も暑くなりそうだ。
「ここは子供の遊び場だったんよ、いろんな遊びしたね」
 朝風に顔をそよがせながら、母は懐かしそうな声で言った。潟の端に添えられているちっぽけな桟橋を、渉は、母の後ろにぴったりとついて歩いた。
橋の先まで来ると、川音がつま先に響いて、湖の上に直に立っているようだった。下から川の冷気が吹き上げてきて、短パンのひょろりとした足がスース―する。
「よく泳いだもんだわ。今みたいに誰もうるさいこと言わないから、危ないこともしたんだよ。ほれ、そこに小舟があるでしょ。あれに乗って真ん中までいって、船底ひっくり返してさ、飛び込み台にしたんだよ」
「アサザのなかにダイブしたの? すげーな」
 湖面にはアサザの群生がひろがっていた。ところどころに、黄緑色の浮島をつくり、もっこりと重なった葉のテーブルから、黄色い花がひょいと顔を出し、まっすぐに立っている。三日月湖に夏が来たのだ。これから九月までは、一面に黄色い花が咲き続ける。
「昔はもっと川が深くてひろかったんだよ。水ももっと澄んでいて、魚もいっぱい釣れた。イトヨとか、鯉も釣れたし、網でライギョをとっては食べてたね。釣り客がバスでわんさか来たもんだわ、ヘラブナの釣り場だったんだよ」 
「わあ、蛇がいるよ」
 すぐそこに、大きな蛇が、アサザのギザギザした丸い葉っぱの上下を縫うように泳いでいる。カエルやトカゲは平気だが、蛇だけは彼の苦手だった。
母は笑いながら膝を折って、湖面に腕を伸ばし、水の中に手を入れてアサザの島を引き寄せると、その上から花を一つ摘みとった。その濡れた花びらを、渉の掌に滑り落とした。
 ヒヤッとして、くすぐったい。それは小さくて、可憐な花だった。少しでも指に力を入れると、くしゃっと潰れそうなほど柔らかい。星型の花びらは黄色いレースのように透き通っていた。
「持っているかどうもわからないよ。弱い花だね、アサザは」
「弱い? 一つ一つの花は弱いかもね。だから群生してるんじゃないの。今日一つ散っても、また明日咲いて、夏中咲き続けるんだもん、強い花かもしれないよ」
 欄干から身を乗り出して、母は今にも落ちそうな恰好になっている。はあ、と大きく息を吐き出す母の顔は子供のように幼く見える。
今日は、一日いいお天気だ。アサザはそんな朝にしか咲かないことを渉は知っている。
 腕を振りあげて、スッーと息をのみ込んだ。彼の若いからだの隅々にまで水の粒子が行きわたるようなすがすがしい気分がした。

 昭和三、四十年代、母の若いころまでは、十二潟の水の量は今とは比較にならないほど並々としていたという。
 春になると毎年、雪解け水で水量の増した川の水が逆流して潟からあふれ、まわりの田んぼや畑を水浸しにした。
 それは水害を及ぼすと同時に、稲作に適した肥沃な土壌をつくった。潟には湧き水もあり、ここは水の宝庫だった。
 そんな知識を教室で披露する渉だったから、都会から転校してきたガリ勉にしてはずいぶん変わったヤツに思われていた。
 学者みたいな口ぶりと、前髪を掻き上げる仕草と、木崎という苗字から「キザくん」と呼ばれるようになったが、竹内水涼だけはなぜか最初から転校生を無視し、皆と同じようには呼ばなかった。
 見た目は可愛いのに、何が気に入らないのか、いつも眉根を寄せて不機嫌そうな顔をしている。
 渉には、最初から気になる少女だった。長い髪を無造作なポニーテールにして、その髪を揺らしながら大股で歩く。その脚がまた長くてカッコイイ。何よりも、水涼「みすず」という名前に引かれた。こんな田舎で、こんな綺麗な名前の女の子に出会えるとは思ってもいなかったからだ。
 夏休みに入った。
 渉は勉強にむと、この湖畔まで自転車をこいでくることがあった。
 ある日の夕方、向こう岸から何やらおかしな音がする。蝉や水鳥の鳴き声に混じって、ジンジンと響く、聞いたことのない音だった。
 ヨシが高く生い茂っていて、対岸のようすはわからない。潟添いに歩いていくと、あの桟橋の先に、竹内水涼がラッパを吹いていた。
「女でもトランペット吹くのか?」
 足音を忍ばせて橋の先までいくと、渉は思い切って声をかけたが、水涼は大して驚きもせず、いつものしかめっ面で振り返って言った。
「あんた、どこの田舎もん。今どきそんな女性蔑視ってある? 時代はジェンダーでしょ、ジェンダー」
 水涼は、家で吹くと怒られるので仕方なくここで練習をしているのだと言う。寝たきりのおばあさんがいるらしい。秋に吹奏楽の地区大会があり、その課題曲なのだと、聞かれたことを面倒くさそうな声で説明した。
「それに、これトランペットじゃないよ。コルネットっていうの。ほら、全然ちがうでしょ」
 渉の鼻先にいきなり突き出された銀色のラッパは、言われてみればトランペットよりは小ぶりで全体が丸っこい。金属と、磨き粉の薬臭い匂いが鼻腔を突いた。マウスピースが濡れていて、その穴から滴が垂れている。それが渉をドキドキさせた。
「……そばで見ると、けっこうボロいな」
「まあね。本当はピカピカのトランペット狙ってたんだけど、女はダメだってさ、ったく、だから田舎だっつーの。ロクな男いないし、みんなガキで、あんたみたいな弱っちいのばっかりだしさ」
「まさか王子様が守ってくれるとでも?」
「プリンスよりナイトかな。騎士だよ、騎士、身を捧げるちゃんとした男」
水涼は、コルネットを高らかに差し上げてファンファーレの真似をした。
「しかしさ、へんな音だな。カエルのイビキかと思ったよ。こんな音を聴かせてると、湖の生態系に異常をきたす恐れがあるぜ」
「失礼ね」
 そう言いながら、水涼はラッパの先から銀色の玉を取りだして渉にパッと投げた。橋の上で、渉は一瞬よろけそうになった。
「なにこれ?」
「ミュート」
 ジンジンとおかしな音をだしているのは、こいつのせいだったのだ。持ってみるとずいぶん軽い。アルミでできている。アサガオのような形だ。これをラッパの先に仕込んで吹くと、ちょうどサイレンサーみたいに音が小さくなるらしい。
「これ取ると、ほら」
 水涼がいきなり、渉の耳元で大きな音を鳴らした。渉が悲鳴をあげると、水涼は声を立てて笑った。しかめっ面の眉が開いて、長いまつ毛が簾のように目の下に影をつくった。
 カワイイ! やっぱり水涼は美人なんだ。渉ははじめて同級生の顔を正面からまともに見たのだ。
「キザキこそ、何してんのよ、こんなとこで」
「研究だよ、夏休みの自由研究。アサザの生態研究とか」
「ふーん、面白い? そんなもん。アサザなんて珍しくもないし」
「なに言ってんだよ、絶滅危惧種だぜ、おれたち青少年が自然の浅瀬を守らないといけないんだ」
「あんたこそ絶滅危惧種じゃない? 変態種かな。いつもポロシャツ着てるし、へんなホクロが三つもあるし」
 渉は思わず、ホクロのある右頬を掻いた。顔中が汗で痒かった。わざとイジけた顔をすると、水涼が、からかうように歌い出した。
「イジけることにいつからなれたのさ~」
 渉はムッとして、反撃に出た。
「だいたいさ、おまえら土地の人間は全然わかってないよな、阿賀野川の水系とか、新潟の成り立ちとか、潟だろ、そもそも新潟ってさ。元々は大砂丘なんだぜ、この辺一帯、何万年もかかって、巨大な砂丘列に阻まれた川の水が行き場をなくして水浸しの大地をつくったんだ。その一部が潟になって、あっちこっちに残った。三日月湖は源流の跡だぞ、ダイナミックな原始阿賀野川の」
「じゃあ、ここは行き場のない水の溜まり場ってことね。あんたとわたしにはピッタリの場所かも」
「どういう意味?」
「……そうだ、亜湖がさ、キザキのこと好きらしいよ。やるじゃん!ガリ勉」
 と、水涼がいきなり渉の背中を叩いた。
 その勢いで、渉は手にもてあそんでいたミュートを離してしまった。それは、マンガみたいに放物線を描いて、湖面の上に着地した。
池に浮かんだ銀のアサガオを、折からの夕風が、さっとさらっていった。二人が口を開けて見ているうちに、ミュートはもう湖面の中央へ、手の届かないところまで流されていった。
 そして、アサザの群生に待ってましたとばかり、ぱっくりとキャッチされてしまった。
「取ってきてよ、ほら、アサザの研究してるんでしょ」
「観察は無事終了しました」渉は、へらへらした顔で付け加えた。
「先週の金曜、天気予報は快晴だったろ。朝五時に来てみたんだが、まだ蕾だった。それから六時に来たら、もう開いてた。アサザは天気の日にしか開かないし、午後二時前には花びらを閉じてしまう、一日花て言われてるけど、半日花だな」
「それだけ? じゃあ、花が開く瞬間は見た?」
「瞬間?」
「土地っ子ナメんじゃないわよ、何年ここに自生してると思ってんのよ。そんなの常識だからさ。あんたでも知らないことあるんだね」
 高速カメラじゃあるまいし、開花の瞬間なんて捉えられるはずはない。きっと水涼の出まかせだろうと思ったが、知らない、と言われたことに彼はカチンときていた。
「五時、五時二十三分三十秒だったな……、一、二秒の誤差はあるがね」
 水涼は、わざとらしく渉の顔を覗き込んで、勝ち誇ったように言った。
「いい加減なこと言うんじゃないわよ」
「いい加減? おれが?」
「そう、いい加減なヤツ」
「……」
「わかんないなら諦めないで、自分で確かめなさいよ」
「よし、じゃ、確かめてやろうじゃないの。おまえも来いよな。次の晴れた朝、五時キッカリに、ここで待ってるから」
 渉の突然の申し出に、水涼はちょっと難しそうな顔をしたが、いいよと、軽く返事をくれた。
 いい加減なヤツ。二十五年前に、あの三日月湖の桟橋の上で、竹内水涼から言われたひと言を彼は忘れることはなかった。

 その年は珍しく雨の多い夏だった。
 次の日も、その次の日も、朝起きて空を見上げると、天気予報通りのどんよりとした雲が垂れている。今日もだめだな、渉はがっかりするのと同時に心の別の場所ではほっとしたものだ。曇りの日なら水涼は来ない。それがうれしいことなのか、残念なのか、自分でもよくわからなくなっていた。
 もしかしてき来ているかもしれないと、眠い目で思い立ち、小雨の降るなか自転車を飛ばしたこともあった。
 雨の朝は、三日月湖の水は濁っていて、生臭い空気が辺りを覆っている。その陰気な重さに押しつぶされるように、アサザの蕾はじっとかたまって開くことはない。小さな雨に打たれていると、渉はなんだか寂しくなった。水涼はどうしているのだろうと思うと、会えないことに苛立ちさえ覚えた。結局、渉の一日は、そんなふうに水涼という湖の畔をウロウロして過ぎていくのだった。
 五日目の朝だった。砂を撒いたような夏雲に透けて、空は高く晴れていた。
 渉は自転車をすっ飛ばして、三日月湖に来た。四時半ころ、もうあたりは朝の柔らかい光に包まれている。
 水涼が姿を現わしたのは、五時ちょうど。時計で計ったように松林の中からひょっこり顔を出した。
 なぜか、今朝はスカートをはいている。いつもはジーンズなのに。近くでみると、夏のビーチに似合いそうな肩を露出した白いワンピースだった。それが日焼けした肌にやけに似合う。渉は、この時点でもう負けていたのだ。 
 五時。まだアサザの花は開いていない。黄色い蕾になって閉じているのが、岸辺からでもわかる。
 目の前で観察するには桟橋の先へ渡らなくてはいけないのだが、
「おはよう」の挨拶もなく、水涼のサンダルが木橋を高らかに鳴らしていく。母親の後についていく子供のように渉も黙って歩いた。
 橋の先端まで来ると、水涼は欄干から身を乗り出して池を覗いている。
 渉が、その隣に並ぶと、水涼は顔を湖面に向けたまま命令するように言った。
「いい? 死んでも瞬きするんじゃないよ」
「あいあいさー」
 狭い橋は、二人で並ぶと、肩が触れそうなほど距離が近くなる。目の前の水涼の日焼けした肩は、丸く、ツルツルしている。その位置は、渉より2センチは高い。サンダルのせいだ、と足元を見るが、踵はペチャンコだ。足の長さでは勝てないが、自分のほうが身長は勝ると思っていたのに、いつのまにか成長しやがった。渉は水涼の後ろ頭を睨みつけた。
 あと数分、あと数秒で、アサザの花びらが開くかもしれない。こうしてじっと見ていればいいのだ。それが、渉には途方もなく長い時間に思えた。息を潜めようとすると、余計に息づかいが荒くなってくる。
「あ、あんなところにいる」
 水涼がふいに指を差した。湖面に張り出した松の老木の枝に、一匹のトンボがとまっている。羽が白い。
「たぶん、セスジイトトンボだな」
「やっぱりわたし、生態系乱しちゃったのかな?」
「なんで」
「だってあれ、カワセミの止まり木だもん」
 水涼の声はいつもより、一段トーンが高い。
 なんだかいい匂いもさせている。いい匂いは、髪から香ってくるようだった。すがすがしい花のような香りだ。水涼のやや高めに束ねた髪は、その結び目から先がゆるやかな波に美しくそろっていた。いつもはもっと無造作に結んでいるのに、今日は白い耳をくっきりと出している。髪に隠れていた長い首筋も、柔肌ネギのように真っ白だった。
 渉はもう、観察どころじゃなくなってきて、苦し紛れに得意分野の話をはじめた。
「アサザの根茎って、何メートルあるか知ってるかい」
「どれくらい?」
 水涼の声もなぜか真剣になっている。
「二メートルはあるかな。髭状の根をいっぱい出しながら泥の中を水平方向に伸びていって、川底にしっかり根を張るんだよ。自分は首まで泥水に浸かって、葉や花を咲かせるために必死で支えているんだ」
「カッコイイじゃん。犠牲的騎士道精神って感じ。男だよね」
「騎士道精神? 難しいこと言うな。おれにはヴェネツィアの杭に思えるけどね」
「ヴェネツィア? イタリアの?」
 話はいきなり飛躍して、論理に無理と矛盾を感じたが、水涼の顔が目の前に迫っていた興奮に、渉の話はもう止まらない。
「知ってるかい。ヴェネツィアの街を逆さまにすると森になるんだぜ。巨大な森になるんだ。地中には大量の木杭が五メートルも打ち込まれていて、木杭の上に木の厚板を何層も重ねて、またその上にイストリア石や煉瓦で何層も土台をつくって街にしたんだ。もとは、じめじめした潟でしかなかった」
「新潟と、ちょっと似てるね。なぜ杭は腐らないの?」
 水涼が面白がって聞いてくれるので、渉はますます調子に乗って話し出した。
「海に連なるラグーナには大小の島が点在しててさ、その中間の潟湖を次々に埋め立てて繋げていったのがヴェネツィアさ」
「海を無理やり島にするなんて、イタリア人、やること強引だわ」
「何世紀もかけてつくり続けたんだよ、理想の土地をね。それは未来にも受け継がれるんだ、ずっと。スゴイよ、人間って」
「古阿賀だってそうだよ。この土地だって元は潟だもん、それを苦労して苦労して立派な田んぼにしたんだって、おばあちゃんが言ってた。川に苦しめられてきたけど、川があるからこの土地はこんなに豊かなんだって。おばあちゃん……もう死にそうなんだ。なんで人間って死んじゃうんだろ」
「おれ、絶対行くんだ、ヴェネツィアに。地中の杭をこの目で見たい。人間ってスゴイものつくっちゃうよな。本当にスゴイのは自然じゃなくて、人間のつくったものだと思わない? 万里の長城とか、マチュピチュとか、おれさ、世界に出て、人類の遺産を守るような仕事したいんだ」渉は、はっと気づいて水涼の顔を見た。眉根を寄せて、唇をかみしめている。「ごめん、おばあちゃん死にそうなんだね……」
水涼が顎を突き上げた。もう強気な顔に戻っている。
「あんたさ」
「ごめん、なに?」
「子供みたいな顔になってるよ。変わったね、転校してきたころと」
「変わった? おれが」
「すげー暗かったよ、目がね。なんか、死んでた。フナの腐った目より死んでたよ」
 意外な言葉だった。田舎もんにバカにされてたまるかと、元気な都会っ子オーラを撒き散らしていたと自分では思っていたのに。
と同時に、母の悲しげな顔が浮かんだ。自分も同じだったのかと思うと、渉は、涙が出そうになった。
 渉の暗い気持ちを慰めるような明るい声で、水涼が言った。
「わたし、ずっと水のあるところに住みたいな。海の近くか、湖でもいい。とにかく水のそばにいたいな、それだけでなんか救われるよね。生きてるって感じがするから」
「いっそヴェネツィアで暮らそうぜ」 
「暮らそうぜ? あほか!」
 と言いながら、水涼は思わせぶりな態度で言った。
「いいよ、ちゃんとした男になったらね」
「ちゃんとした男?」
「支えてよ、わたしが辛いときに。ヴェネツィアの杭みたいに」
「どういう意味?」
 渉と水涼はお互いの目をまっすぐに見た。
「あ」
 水涼が思わず声をもらした。
「ああ」
 渉も、その声に合わせた。
 二人が目を離したほんの一瞬に、湖面のアサザはすでに開きはじめていたのだ。
 まるで音の鳴るような勢いで、鮮やかな黄色い花が次々と開いていく。密生した浮葉は朝の光に応えるようにところどころ立ち上がり、その黄緑色の濃い重なりがつやつやと輝いている。夏の終わりの澄み切った風が湖面を揺らしていた。

 新潟で過ごした夏のことは、渉には昨日のことのように思える。
 たった一年しかいなかったのに、後は勉強づけの毎日だったから、彼にとっては中学時代の思い出のすべてと言ってもいい。
 水涼とは、それ以上のことはなかった。
 夏休みが終わると、学校でおかしな噂になっていたのだ。こんな狭い土地だから、誰かに見られていたのだろう。
 水涼は、親友の亜湖の気持ちを考えたのかもしれない。
 しばらくは顔を合わせるたびに気まずさを感じたが、水涼はいつのまにか渉のことを「キザくん」と呼び、教室の離れた席から見ていても、また背が伸びて、ちょっと大人びたようだ。女の子はどんどん成長する。おばあさんが亡くなって、少し泣いて、ひと夏過ぎると、別な生き物みたいになるんだと、渉は思った。
 二学期の終わるころには、おかしな噂も自然に消えていた。
 結局、渉は母と一緒に次の春には大宮に帰っていた。母の仕事復帰と、自分の高校受験のためには本来の生活に戻るしかなかったのだ。
 

 亜湖たちを乗せたゴンドラが係留場に戻ってきた。ドレスの裾を引きずるような逆三角形の波を従えて、優雅に川面を滑ってくる。運河はすっかり黄昏色に染まり、小船は逆光に細く輝いている。
 遠くから、渉を見つけたのか、亜湖がまた手を振っている。
 それが何かの合図のように、渉は、コートのポケットにしまい込んだポストカードを取り出した。
 これを、水涼宛てに送るのだ。亜湖の言った通り、とりあえず連絡を取ってみようと渉は決めていた。汐で赤錆びたポストが、すぐ後ろにある。亜湖のスマホには彼女の住所がきっと入っているはずだ。
 ある日突然、ヴェネツィアから絵ハガキが届いて、差出人の名前を見たら、彼女はどんな顔をするのだろう。文面は? なんて書いたらいいのか。「約束」のことを聞いてみようか。
「だめだ」、思わず声が出た。そんな安易なことをしたらまた水涼に言われてしまう、「いい加減なヤツ」だと。
 渉は両手でカードを二つに折りこみ、くしゃりと潰した。そして、その紙を丸く固めて小さな球をつくると、勢いよく金色の海に投げた。夕風に煽られて斜めに飛んだ紙の球は、あっという間に波間にさらわれ、桟橋の杭の端まで流されていった。その先に、渉は、懐かしい湖の光を見たのだった。アサザの葉の重なりに朝日が反射する夏の光だ。
 渉は、その光を頼りに桟橋を渡りはじめた。ヴェネツィアの、運河を走る細い橋は二十五年前のあの夏に繋がっていく。
 波音とともに、三日月湖の畔にいる水涼の呼ぶ声が聴こえた。

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