見出し画像

第七回阿賀北ロマン賞受賞作③小説部門 『猫とあやめ』 伊瀬 祥記

 この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は伊瀬 祥記さんが執筆された第7回阿賀北ロマン賞小説部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

 小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html」

 『猫とあやめ』伊瀬 祥記

 行き詰まった。レポート課題とはどうしてこう面倒なのか。
 僕が大学生になって実感したことは、講義形式の受け身で良かった高校までの勉強とは逆に、大学では自ら進んで調べ、まとめ、時にはそれを発表しなければならないことだ。もちろん講義形式の科目もあるが、そちらでもときどき発表がある。
 なにができないというわけではない。ただ、勉強の方法に戸惑っているのだと自分で思う。今まで自分の勉強の成果を発表する場なんてものは、定期テストくらいしかなかったし、それだって答えの定まっている問題に答えていただけだ。自分の考えを読み手に伝えるレポートとは、あまりに違う。
「……あの、何の用ですかね」
 紫陽花がそろそろと咲き始めた六月の中旬。家の玄関の前で気怠げにそう言ったのは、隣の家に住む幼なじみの成海あやめ。僕より一つ年下の高校三年生である。
 我が梨本家と成海家は、現代の世間的にはあり得ないほどに仲がいい。家が隣同士というのと、子供の年齢が近いということ、それと、どちらも共働きであるという理由から、両家は子育てを協力して行っていた。協力体制の始まりは成海家の両親が、初めて授かった子どもであるあやめの子育てに苦戦し、僕と、僕よりも四つ年上の姉を持つ子育ての先輩である我が家に助けを求めたところから始まったという。聞けば、僕が生まれる前から近所付き合いは良かったらしい。成海家の両親は共に、裏表のない朗らかな性格をしていて、誰とでも仲良くなれそうな人たちだとは、僕自身お世話になっていて思うところだった。この人たちに頼まれたら、我が家の両親でなくても無碍にはできなかっただろう。
 そんな成海家の一人娘であるあやめと僕との関係は、一言で言えば『仲の良い兄妹』だった。
「頼む、課題を手伝ってくれ。お前にしか頼めない」
 大学の授業を終えた僕は、あやめが帰ってくるのを待っていた。時刻は午後七時半を少し過ぎたくらい。引退前最後の大会を控えた運動部のハードな部活を終えて、ゆっくりしたいはずの時間を奪うあたり、我ながら遠慮がない。
「はぁ、まあ夕食までの時間でよければいいですけど……とりあえずシャワーを浴びてきていいですか? 汗臭いのは秀樹さんも嫌でしょう」
「え、汗なんて臭わないぞ。制汗スプレーの匂いはするけど」
「嗅ぐな」
 無表情のまま怒られてしまったため、終わったら部屋に来てくれとお願いし、自室で漫画を読みつつ、あやめのシャワーが済むのを待つ。
 三十分ほどすると、コンコンコン、とノックの音。僕の返事を待たずに扉が開き、手にドライヤーを持ったあやめが現れる。ノックの意味がない、などと窘めはしない。いつものことだ。
「よう、おかえり」
「お待たせしました」
 ようやくの挨拶を交わしながら、Tシャツに短パンというラフな部屋着姿のあやめは、床に座り込むとストレッチを始めた。
「なんだ、汗を流しただけじゃなかったのか」
「ええ、せっかくなので全部済ませちゃいました。すみません、ドライヤー使わせてください」
 了承すると、あやめはコンセントにプラグを差し込み、足を広げて体を傾けながら髪の毛をドライヤーで乾かした。ストレッチをしながらなんて器用なものだと感心するが、ドライヤーの音がうるさくて話が切り出せない。シャワーを終えてすぐに来てくれたあやめには悪いが、結局待たされてしまう僕としては少し微妙な気持ちになってしまう。
 五分ほどして、セミロングの髪を乾かす音が止む。あやめは手に持っていたドライヤーを側に置くと、上半身を前屈させて股関節を伸ばし、ふぅーっと大きく息を吐き、リラックスした様子であぐらをかいた。話を聞く準備が整ったらしい。僕がお願いしている立場とはいえ、マイペースというかなんというか、お互いに遠慮のない関係だと改めて思った。
「それで秀樹さん、どんな課題なんですか?」
 あやめの問いには、大した力にはなれませんよという謙遜が含まれていたが、僕は気にせずに説明をした。
 レポート課題の内容は、新発田市周辺の名所をどこか選び、調べてこいというもの。大学一年生の前期も二ヶ月が過ぎた今、レポートの書き方は一通り教えられている。次はフィールドワークをやってみろとの教授からのお達しだった。
「フィールドワーク?」
「ああ、実際に外に出て調べてこいってことだな」
 なるほど。とあやめは頷いた。ふむ、確かに僕もフィールドワークなんて単語は、大学に入ってから初めて聞いた。高校生のあやめにとっては聞き慣れない言葉だろう。
「なんていうか、ざっくりした課題ですね」
「そうだな。なにをするかを決めるのは、あくまで学生だ」
「楽しそうですね、大学生」
「まあ、自由ではあるな。多分」
 学生生活が始まってからまだ二ヶ月しか経っていない僕が答えられるのは、今僕が実感出来ていることだけだった。この先面倒が増えるのか楽になるのかはまったく想像がつかない。
「うーん……新発田の名所というと、新発田駅近くのどこかがいいのでは? 新発田城、清水園なんかは有名ですけど」
「市街の方か。さすが、ぽんぽん案が出てくるな」
「もう少し時期が早ければ、桜が綺麗に咲いてたんですけどね」
 僕があやめに協力を求めたのは、彼女の地元愛が理由だ。あやめは外を歩くことが大好きで、大きな服屋に行っても一時間と掛からずに店から出てくるくせに、散策に出かけるとそのまま何時間も帰ってこない。昼間一人で歩くときはイヤホンもせず、自然と耳に入ってくる風の音、車の走行音、自分の足音さえも楽しんで歩いているらしい。地図も見ずに歩きたい道を歩きたいだけ、気が済むまでどこまでも。かなり若者離れした感性をしている女子高生である。
「というか、どうして地元を離れずに大学まで行った人間がこの程度の候補さえ出せないのか疑問ですよ」
 呆れたようにそう言われてしまうと言葉もない。しかしだ、地元の名所と言われても、高校までの歴史の教科書に載るくらいの知名度でないと、なかなか関心を向けられないというのは、僕だけの言い分ではないように思う。その程度の勉強意欲でよく大学まで進んだなと言われたら、本当になにも言えなってしまうので、こんな反論は心の中に留めておき、こう言う。
「その疑問はもっともだが、お前のことは純粋に凄いなって思ってるぞ」
「……まあ、少し探しておきます。今日のところは、夕食が出来たようなのでここまでです」
 見ると、あやめは短パンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を弄っていた。親からメールが来たのだろう。
「ありがとな。また連絡する」
 それでは、と軽く会釈したあやめが部屋を出て行き、今日のところは解散となった。

 すぐ翌日のことだ。家族四人でテーブルを囲い、夕食を食べているところで僕のスマートフォンが振動した。点灯した画面を見ると、あやめからのメールだ。食事中であることを見越して配慮してくれたのだろう。できた高校生である。食事のマナーに関して寛容な家族に甘える形で、僕はすぐに内容をチェックする。
 てっきり僕が頼んだ課題の件に進展があったのかと思ったのだが、それは全然違っていた。
 内容は以下の通り。先日あやめの友人宅で飼っていた猫が子供を作ってしまい、知り合いを当たって猫の里親になってくれる人を探している。が、どうしても後一匹を飼ってくれる人が見つからないと、あやめのところに連絡が回ってきたらしい。あやめの父親が猫アレルギーのため、成海家では猫を飼うことができない。そこで、お隣である我が梨本家で飼うことはできないかという相談だった。
「…………」
 うーむ。悩む。我が家は今までペットを飼ったことがないし、外には野良猫もいるため外にも出せない。確かに僕は犬か猫かで問われれば猫が好きだし、飼ってみたいとも思う。しかし、もしかしたら、明日にはお金持ちの家の子から「その子猫をぜひ飼わせてください」と申し出があるかもしれないのに、僕が飼ってしまってもいいのだろうか。
 という思いをたっぷり十分ほどかけて、余さず書いて返信した。夕食を食べながら。
 夕食を食べ終わる頃、再びあやめからのメール。件名に【Re:】が増えただけの返信の本文は、さっきまでの長文と打って変わっての、たった一文。
『私も面倒見るの、手伝うから、お願い』
「…………」
 こう言われてしまっては、先に『貸し』を作ってしまっている身としては力にならざるをえない。最後に一口だけ残していた好物の豚の生薑焼きを食べきって、一息つく。
「ごちそうさまでした。……父さん母さん、姉ちゃんも。ちょっと相談があるんだけど」
 家族内での序列最下位である僕は、まずこの三人の了承を得なければならない。
 食器を片付けながら、僕は頭の中で少し練習をして、交渉に入った。

 家族との交渉は、割とあっけなく終わった。父が子どもの頃に一度猫を飼っていた経験があるとのことで、ペットを飼うことについての理解があった。むしろ、今まで僕も姉もペットを飼いたいと言い出したことがなかったのに、大学生になって今更か。と言われた。まあ今回だって、自分から言い出したことではないのだが。
 母はどちらかと言えば犬が好きだと言っていたが、了承。姉は世話をする気はないが可愛い猫なら構ってあげなくもないと、よくわからないことを言っていたので放っておく。
 これで障害はなくなり、晴れてあやめの友人宅で生まれたという子猫を引き取れることが決まったわけだが、あやめと猫と聞いて、僕にはある記憶が蘇っていた。

 あれは確か、僕が小学二年生のときだ。
当時、散歩という娯楽を見つけたばかりだったあやめは、暇さえあれば散歩に行きたがった。しかし悲しいことに、小学生が一人であちこち出歩くには、現代日本という社会は些か物騒らしく。そんな実感は、これまでこの街で生きてきて一度たりとも感じたことはないのだが、世間の感覚で言えば、僕やあやめは危機感が足りないらしい。夏のある日、事は起こった。両親から「あやめが学校から帰ってくる時間にはまだ家に誰もいないんだから、勝手に寄り道してはいけません」と戒めを作られたあやめは、家に人がいる時間――共働きである両親が帰っている夜――に散歩に出かけたのだ。断っておくが、あやめは素直な子で、こんなとんちで言いつけを破るような子どもでは断じてなかった。本当に天然で、「家に人がいるときならば出歩いても良い」と解釈し、夜の散歩に出かけたのだった。あやめの両親は最初、僕の家に遊びに行っているのだと思ったらしく、夕食ができたことを知らせにあやめのお母さんがやってきた。僕と姉からあやめの不在を知らされたときのあの顔は、今でも思い出せる。顔面蒼白とはあのことだろう。あやめの母はすぐさま身を翻すと自宅に戻った。あやめがいないこと、そしてそれがいかに大変なことであるかを子どもながらに感じ取った僕と姉は、外へと駆けだした。今にして考えれば、この行動は考えなしの馬鹿だった。子どもが夜道へ探しに出たところで、危険な目に遭う可能性の数が増えるだけだ。姉でさえ、当時まだ小学生である。極めつけに、僕と姉は二手に分かれて捜索をはじめた。文字通り阿呆の極み。車に轢かれたりしなくて本当に良かった。
そんな愚行の中、あやめを見つけたのは僕だった。あやめがいたのは、僕らがよく遊ぶ公園だった。夜の公園はオレンジ色の外灯に照らされてはいたものの、昼間とはまるで違う空間であるように、よく使う遊具もまったく別物のように見える。ブランコ、滑り台、砂場、ジャングルジム、鉄棒、撤去されてしまってから名前を知った遊動円木もあったが、そんなに大きな公園ではない。砂場の近くにベンチがあるのだが、その砂場とベンチのちょうど間にあやめは後ろ向きにしゃがみ込んでいた。声をかけながら近づくと、あやめがなにかを見つめていたのがわかった。
 なにかとは、猫だった。しかし、ただの猫ではない。
 尻尾が二つある猫だった。
 もちろん、暗い夜のことであるし、子どもの頃の話だ。「本当にそれは尻尾だったのか?」と問われたら自信はない。ある程度の知識を蓄えた今ならば、もう一本の尻尾のように細長く伸びたそれを、肛門から飛び出た腸かもしれない、あるいは回虫の類いかもしれないと疑っただろう。当時の僕には、ただただ不気味だった。
 僕はしゃがんだままのあやめの腕を引っ張って強引に立たせた。あやめは、そのとき初めて僕の存在に気付いたような驚き方をした。怖かった。子供じみた考えだが、僕はなんだかあやめがそのまま、この異様な猫に連れて行かれて、どこかへ消えてしまうような気がしていたのだ。
 猫は動かない。オレンジの外灯と月明かりだけなので自信はないが、黄色と白の縞模様、茶トラと呼ばれる種類の毛色に見える。姿勢を低くして、瞬きもせずにじっとこちらを見つめているのは、僕を警戒しているのだろうと思った。僕は猫から目を切って、そのままの勢いであやめの手を掴んだまま走った。公園の場所は僕らの家からそんなに距離はなく、子どもの体力でも走りきれる。もっともそのときは無我夢中で、右手に握ったあやめの手首を離さないことと、足を止めないことしか頭になかった。あやめになんの相談もせずに、僕は猫を置き去りにして逃げたのだ。
 息を切らせて帰ってきた僕とあやめを、大人たちはこっぴどく叱った。姉は家を出てすぐに父によって捕まっていて、既に家の中にいた。先に叱られていたのか、涙目だったのを覚えている。
僕が叱られていると、あやめのお父さんがお礼を言いにとやってきた。探してくれて、見つけてくれてありがとうと言われたが、同時にああいうときは自分一人で動かずに大人を呼びなさいと教えられた。「あやめから、尻尾が二本ある猫に遭ったって聞いたけど、本当かい?」という問いに頷くと、大人同士でなにやら相談を始め、あやめのお父さんは自宅へと戻り、僕の母は台所へなにかを取りに行った。少しして、風呂に入るように言われて素直に従うと、浴室の雰囲気がいつもと違う。匂いだ。海のような匂いがするのだ。たっぷりと浴槽に張られたお湯の中に、塩が溶かしてあることに気が付いた。いいか、ゆっくり浸かってよく温まれよと言われて入ってみると、ぬるいお湯なのにいつもより汗が出て驚いた。長湯を言いつけられてさえいなければ、すぐに上がってしまっていただろう。結局、指がふやけるまで浸かっていた。
 翌日、あやめにそのことを話すと、あやめも塩の入った風呂に入れられたらしい。聞けば、あやめのお父さんの提案で、悪いものに遭ったときは、塩で体を清めるのだと説明されたのだそうだ。あやめも、猫に触ってはいなかったらしい。無表情に見つめられ、どうしたものかと固まっているときに僕が現れたのだと言う。
僕はあやめに、あの猫はなにかよくないモノで、普通の猫じゃなかったと思うかと質問をした。
「よくないモノかどうかはわからないけど、あの猫、飼ってあげたかったな」
 あやめが力ない擦れ声でそう答えたのは、既に両親との交渉が決裂していたからだった。
 あの猫のいた公園で、その後も数え切れないほど遊んだものだが、黄色い体毛の猫と再び遭うことはなかった。

 梨本家で猫を飼うことに問題がないことをあやめにメールで教えた二日後である土曜日の朝に、あやめは友人宅で生まれたという子猫をケージに入れて持ってきた。
 その猫は、黄色と白のトラ猫だった。十年前、夜の公園で出遭ったあの猫と同じ茶トラである。それだけならまだ、よくある偶然に思えただろう。そんなに珍しい模様でもない。もちろん尻尾も一本しかない普通の子猫だ。しかし決定的なのが、あやめの表情だった。あやめはケージの中にいる子猫を見せるとき、あからさまにニッコリと笑った。口を閉じたまま口角を上げ、一見上品なように。けれどこれは、あやめがなにかを誤魔化したいときにする顔なのだ。普段あまり感情豊かに表情を変えない所為か、表情筋が鍛えられていないために、心からの笑顔かどうかは判別しやすい。ずっと一緒にいる僕にとっては特に。
「あやめ。この子、友達の家で生まれた猫じゃないだろ」
「…………」
 黙秘かよ。しかもぎこちない笑顔のまま固まりやがった。
 仕方がないので、僕の部屋に来るように言うと、無言ながら大人しく付いてきた。
「説明してもらおうか」
「おかしい……どうしてこんな一目でわかるの……」
 ケージを僕の部屋の床に置くと、あやめは頭を抱えて呻きだした。
 まあ、まずわかったのはあやめが嘘をついていることだ。普段から誰よりも誠実なあやめが、嘘をついてまで猫の面倒を見たいと言い出したと言うことは、相当後ろめたいことがあるに違いない。そこに、夜の公園で出遭ったあの猫と同じ体毛の猫の登場だ。間接証拠しかないが、たまたまで片付けるにはお粗末な話である。
「そもそも友達の家で生まれたってところからして嘘っぽいんだよ。お前友達いないじゃん」
「いますよ! 少ないだけです……」
 長年お隣さんやっていて、あやめが友達の話をしているところを見たことがないから言った軽口だったのだが、あやめは思案顔でなにかを指折り数え始めた。これはよろしくない。僕はあやめの頭に軽く手刀を打つことで暗い思考を止めさせて、仕方なしに本音を言う羽目になった。
「お前は素直すぎるから、嘘をつくのに向いてないんだよ。それでその猫はその……昔、夜の公園で遭ったあの猫となにか関係があるのか?」
「……わかりません」
「あん?」
「私にだって、わかりません。だって、この子を見つけたのは本当に偶然だったんだから」
 あやめの話はこうだ。先々週末の休日の昼間に、何の気なしにいつも通りの散歩に出かけて、いつも通りの近所を回るコースを進んでいくと、道路を横切る子猫の姿が見えた。その子猫は十余年前に夜の公園で見た以来の、黄色と白のトラ猫だった。あやめはまず首輪の有無を確認し、気持ちを落ち着けた。あの頃とは違い、高校三年生になったあやめには知識がある。野良猫の寿命は長くても五年程度。あのときに出遭った猫の子どもにしては幼すぎて計算が合わない。このあたりでは見かけないが、よくいる毛色だ。たまたまと言うのなら、僕とあやめがあれ以来この毛色の猫に出遭わなかったことこそがたまたま、偶然と言えるだろう。
「それで、あのときの猫を飼ってあげられなかった後悔が蘇って、拾って来ちゃったわけか」
「いや、まとめればその通りですけど、まだ私、散歩してたらあの子と似た猫に出くわしたとしか言ってないじゃないですか。私だって一応十七年間生きてきた中での常識がありますから、野良猫を拾うことへの葛藤とか、色々あったんですよ? そのあたりを――」
「あ、十七年といえばお前もうすぐ誕生日で十八じゃんよ。おめでとー」
「…………」
「ごめん……」
 拗ねだしたあやめを宥めて話を聞くと。親猫とはぐれた可能性を考えて、辺りを捜してみたが見つからず、翌日あやめがその場所を訪れると子猫は変わらずそこにいて、まるであやめを待っていたかのように柔らかく鳴いたと言う。それによって完全に籠絡されてしまったあやめは、近くの動物病院にその子猫を連れて行き、飼い猫でないかを確認した。動物病院には迷子のペット情報がたくさん入ってくるらしい。一週間待っても飼い主が見つからず、猫の状態から、この猫は野良猫だろうと一応の結論が出た時点で、あやめはこの猫を飼い猫にする準備を進めた。野良猫を飼うにはやることがたくさんあるのだ。体調はどうか、病気を持ってはいないかの診察に、予防接種に虫下しやノミ除去薬の投与等々。これだけでも数万円はかかる。その費用を、あやめは自分で貯めたお年玉とお小遣いの中から全て自分で支払った。高校生にとって数万円がどれだけの価値があるかはよく知っている。並の思い入れでは無理だ。
「昔、夜の公園で遭った猫とこの子と関係は、もう私の中では重要じゃないです。でもこの子、可愛くて、危なっかしくて、見てられなかったんです。嘘をついたのは謝ります。けど、この子を飼うために必要な負担はできるかぎり私が背負います。だから」
 だから、お願いします。この子をここで飼わせてください。協力してください。そう言って、あやめはゆっくりと、気持ちを込めるようにして僕に頭を下げた。
 ――あやめが僕に頭を下げるのは、いったいいつ以来だろう。レポート課題の件でわかるように、僕は一つ年下であるあやめに対して、頼ることが多かった。人の善い親を持ったおかげか、真面目で、そして『良い奴』であるあやめは、基本的に断ると言うことをしないため、そこにいつも僕が甘えるのだ。逆にあやめは、大抵のことは自分でできてしまい、あまり苦手というものがない。飛び抜けて得意ななにかがあるというわけではないが、人の手を借りなければならないほど不得手なものはない。そんな彼女から、今は僕が頼られているのだった。なんというか、とても気分が良い。
「メールで、飼ってもいいってちゃんと書いただろ。今更、取り消したりしねえよ。男に二言はない」
 なんだかぶっきらぼうな言い方になってしまったが、あやめは顔を上げて、安心したように相好を崩した。……つくづく思った。この笑顔を見たことがあれば、最初にこの子猫を持ってきたときの笑顔の胡散臭さが、わからないはずがない。なんだか照れくさくなって、僕は「レポートの課題の手伝い、しっかり頼むぞ」なんて言うのが精一杯だった。あやめは頷いて、床に置いたケージをのぞき込むと、子猫に向かって話しかけた。
「よかったね、狭いところに入れたままでごめんね。これからは、ここがあなたのお家だよ……ねえ、出してあげてもいい?」
 僕は頷いた。今日猫が来ることはわかっていたから、既に部屋の掃除は済ませてある。小物や壊れやすいものはちゃんと片づけたし、千切られそうな細いコードやケーブルもしっかりと対策済みだ。なにせ初めてのペットであるから心配は尽きないが、問題はない、はず。
 あやめがケージを開け、子猫の前に道が拓かれる。これからの猫を買う苦労のことを考えていると、ようやく子猫はおそるおそるケージから頭だけ出した。しかし、そこから五分は待ったが、なかなか出てきてくれない。
「野良出身だけあって、凄まじい警戒心だな……」
 僕の呟きに、あやめがケージを覗き込むようにして頭を下げると、子猫はあやめの顔に飛びかかった。いや、あやめが頭を下げたのと同じタイミングで、勢いよく飛び出したのだ。警戒心、いまだ解けず。僕らと充分な距離を保つため、一気に部屋の最奥まで移動した子猫は、そのまま落ち着かないように尻尾を振って、低い姿勢でこちらを睨みつけた。
「前途多難だな」
「最初なんて、これで普通ですよ。病院に連れて行くとき、私がどれだけの苦労をしてそのケージの中にこの子を入れたのか教えてあげたいです」
 言いつつ、あやめは腰を落として子猫と目線を合わせると不意に、コン、と鳴いた。コン、コンと、何度も続けて。どうして狐の鳴き真似なんかして猫の気を引こうとしているのかと思ったら、違った。あやめは咳をしていた。嫌な予感がした。あやめのお父さんは猫アレルギーだ。それで成海家では猫が飼えないという話になったのだ。遺伝的には、あやめも猫アレルギーを発症する可能性は決して低くない。
「いや、違う、これは違いますよ秀樹さん。風邪です。風邪で、喉が悪くて、今この子が前を通ったときに毛が舞って、それを吸い込んだ所為で、咳が、こう、ね?」
「風邪の所為なのか気管に毛が入った所為なのかどっちなんだ」
 訳のわからない弁明をしている間も、あやめは咳を繰り返しているが、さすがにこう咳き込まれていては嘘を判別することはできない。できないので、実力行使に出る。
「とりあえず部屋を出ろ。医者に行くぞ」
 部屋から出るとき、ある意味元凶とも言える子猫が去って行く僕らを見て満足そうに、フンと鼻を鳴らした気がしたのは、さすがに考えすぎか。

 結果から言って、あやめは猫アレルギーではなかった。ついでに言うと、風邪を引いていたのも本当だった。扁桃腺が腫れていて、熱もあった。喉の痛みは、コンビニに売っている市販ののど飴を舐めて耐えていたらしい。疑いようのない阿呆である。しかも理由が、少しでも早くあの子猫を僕の部屋に置いてやりたかったからだと言うのだから、阿呆の上に『ド』をつけてやりたい。あやめの無茶の代償は、あの子猫と初めて過ごすはずだったこの日曜日を、自分のベッドの上で過ごす羽目になるという軽い禁固刑。
「まあ、寝てるだけで食事は出て来るし、こうして面会……じゃなくてお見舞いにも来てもらえるんだ。病人もそんなに悪いもんじゃないだろ。良い休日の過ごし方なんじゃないか」
「……それ、慰めてるつもりなんだとしたら完全に逆効果ですよ。煽られてる気しかしません」
 お気に召さなかったらしい。こうして貴重な日曜日を使って看病してやっているというのに、仕方のない奴である。ベッドで上体だけを起こして僕の方を向くあやめの表情は、心なし赤く見える。マスクの所為で蒸れているだけだと良いのだが。
「私なんかに構ってないで、あの子を構ってあげてくださいよ。いきなり部屋に放置して、変なところでおしっこしてても知りませんよ」
 今度は追い出そうとまでしてきやがった。
「まあ、それはこれから教えていくとして、その前に飼い主としてやるべきことがあるだろう」
「あー、名前ですか」
 察しがいい。そうなのだ。あの子にまずは名前をあげなくてはいけない。夏目漱石の小説のように、「ねこ、ねこ」と呼ぶわけにもいくまい。
「そうですねぇ、名前を付けるのは飼い主の、親の役目ですからね……どうしましょう」
 思うに、子というものは親から名前を付けられて、初めて家族の一員となる。一生ものの、この先ずっとその存在を証明する言葉だ。如何にペット相手とは言え、安直には決めたくない。
「呼びやすい方がいいよな。それと、あんまり日常会話で使われない名前がいい」
「となると、和名は避けますか?」
「うーむ」
 熟考。二人して、しばらく沈黙の中で思案を巡らせてみたが、お互いにこれだというものは浮かばなかった。
「参考までに聞きたいんだが、あやめ、自分の名前の由来って知ってるか?」
「……ええ、まあ」
「なんだ、その煮え切らない反応は。さてはなにか面白いエピソードがあるな?」
「ないですよ……そういう秀樹さんはどうなんです? 某野球選手と名前が同じことを気にして、絶対に野球にだけは関わらなかった秀樹さん?」
「よく覚えてるなそんなこと……。けど、人名から取ったんじゃなくて、普通に、『秀でた樹のように大きく育ってほしい』とか、そんな感じの由来だったぞ。それで、お前はどうなんだ」
「……長くて面倒なので言いたくありません」
「いいから言え」
 僕からの圧力を受け、観念したようにあやめはぼそぼそと話した。
「……近くに、あやめ園があるのを知ってますか? 私の両親は毎年の結婚記念日に、必ずそこへ訪れて、数十万本のあやめの花を見に行ったそうです。けれど、私が生まれた日が、ちょうど結婚記念日と重なった所為で、毎年の恒例行事が途絶えてしまったんです。それでお父さんが、お母さんに言ったんですよ。『この子はあやめだ。今年もこの日に、あやめに会えたね』って……」
「…………」
「お父さんがお酒で酔ってるときに、得意げに聞かされました」
 声に抑揚がなくなっているところを見ると、あまり気に入っていないのかもしれない。名前自体ではなく、由来の方を。僕としては面白い話が聞けて良かったと純粋に思ったのだが、まあ名付けられた本人には特別思うところがあるのだろう。こういう話が不意に出てくるから、人との会話は面白い。
「良い名前だと思うぞ。あいつにも負けないくらい良い名前付けてやろうな」
「はい……」
 閑話休題して、子猫に話の焦点を当て直す。
「そう言えば、あいつオスメスどっちだっけか」
 思えば、そんな前提から僕はわかっていなかった。男の名前を付けるか女の名前を付けるか、これでは決めようがない。僕は今までなにを考えていたのだろう。
「多分、メスですよ。その、あれがなかったので」
 あやめは直接その名詞を使うことを避けた。今どきの女子高生は、品のない言葉を平然と大声で言ったりするものであるが、こんな女子高生が未だに現存しているのはひとえに、あやめのご両親の努力の賜物だ。本当に尊敬する。
「メス猫……猫娘か」
「成長して、本当に二本目の尻尾が生えてきたり人間に化けたりしたらどうするんですか」
「責任は取れん」
あやめはふぅ、と一つ息を吐くと、疲れましたと言って、起こしていた上体をそのままベッドに倒した。しまった。病人相手に喋らせすぎてしまった。
「そういえば喉も悪くしてたのに、ごめんな」
「いえ、来てくれてありがとうございました。着替えてから寝るので、その……」
「そうか、体拭いてやろうか?」
「今すぐ出てけ」
 追い出されて、自分の部屋に帰るまでの間、少し考える。あやめが僕に敬語を使い始めたのは、あやめが僕と同じ中学校に上がったときのことだ。一応先輩後輩という概念が埋め込まれたのか、僕は気にしなかったのだが、あやめは周囲の目を気にして使い出した。僕は学校の外では今まで通りでいいぞと提案し、あやめもそれを受け入れた。高校で同じ進学先になったときも、それは変わらなかった。僕らが高校一年生と中学三年生になる年、つまり三年前になるが、そのときは一年を通して敬語をやめていた。だから大学一年生と高校三年生になった今年も、自然と敬語をやめるんだろうとぼんやりと思っていたら、あやめは家の中でも常に敬語を使うようになった。別にあやめから敬語を使われたからと言って、僕になにか不都合があるわけではないのだが、この春から僕はこのことでときどき引っかかりを覚えていた。
 部屋に到着すると、子猫は僕のベッドの上で横になっていた。さも自分のテリトリーだと言わんばかりである。メスだと聞いた途端、女王様に見えてくるから不思議なものだ。しかし、その場所をくれてやるわけにはいかない。僕は子猫を踏んでしまわないよう気をつけながら、ベッドに腰掛けた。子猫は僕が座る直前にベッドから飛び降り、部屋を掃除したときに設置しておいた小さめのダンボールの中に逃げ込んだ。そこが気に入ったらしい。
「お前の名前、まだ決まってないんだよ」
 あやめに倣って、話しかけてみるも反応はない。迷信でさえ、猫が人語を解するには十年必要だと言うのに、生後半年も経っていないこの猫が反応しようものなら人間の赤ん坊の立場がない。
「お、餌がなくなってる」
 あやめの部屋に行く前に入れていった餌がもう空になっていた。この辺りも野良出身故と言えるのだろうか。すぐに追加してやると、僕が餌箱から離れた途端にダンボールから飛び出て餌にがっついた。凄まじい食い意地である。飲むように子猫用のドライフードをかき込む猫を見て、あやめもこうして餌をあげたがっただろうな、そういえばこの春になるまで学校以外では秀樹さんなんて呼ばずに普通に呼び捨てしていたな、あの姉は結局面倒見るのを手伝ってくれるのかな、などと、ぼんやり猫を眺めながらあれこれ考えていると、
「あ」
 飲むように食べるなと思っていたら、本当にほとんど噛んでいなかったようで。子猫は食べていたドライフードを、ほとんど吐き出してしまっていた。吐き出した当人、いや当猫はケロリとしていて、今吐いた分もう一度飯を寄越せと言わんばかりに餌入れの器を手で弄っていた。小憎たらしい。人間の都合など、知ったことかと言われているようだった。

 その日の夜、昼寝をした所為で眠れないとあやめからメールが来たため、夕食と入浴を終えた午後十時過ぎに、あやめの部屋へお邪魔した。あやめは冬用のパジャマを羽織り、マスクを装着していて、いかにも風邪引きの恰好だった。夏至が近いとは言え、新潟の夜はまだ寒い。
「病原菌まみれの部屋に、何度も来てもらってすみませんね」
「いいさ。早くうつして早く治せ。明日は月曜日で、学校があるんだから」
 部屋が少しばかり寒いのは、僕が来るからとあやめが窓を開けて換気してくれていたからだろう。病人の癖に他人ばかり気遣う奴である。僕は促されるままに大きなビーズクッションに腰を下ろす。
「今日一日、あの子とじゃれてみてどうでしたか?」
「ん? ああ、猫か。まだ相手にされてねえよ。近くによると逃げるし」
「そのへんは、あの子にこれから慣れてもらうしかないですね」
「そうだな。行動範囲は広くなったかな。とりあえず部屋の中はどこでも行くようになったし。あいつ、紙袋が気に入ったみたいでさ、頭突っ込んだままずっとガサガサやってた」
 それからも、あの子猫についてしてくるあやめからの質問に、僕は答えていった。話は尽きず、気づけば午前零時を過ぎていた。楽しい会話だったが、僕は昼間に考えてしまったあやめの敬語について若干の引っかかりを感じてしまっていた。
「そうそう、忘れるところでした」
 あやめは突然ベッドから這い出ると、今までしていた話をぶつ切りして、部屋の隅にあるパソコンの横に置いてあったプリントを数枚、僕に手渡した。
「一眠りした後暇だったので、新発田にある名所をいくつかまとめておきました。使ってやってください」
「…………」
 絶句した。新発田の名所とシンプルに銘打たれたプリントにざっと目を通すと、相談を持ちかけたときに言っていた新発田城と清水園の場所と概要に加え、大峰山橡平サクラ樹林、諏訪神社、加治川治水記念公園、等々それぞれに解説と写真が付いたプリントを合計六枚に渡って作ってくれていた。クオリティ的には、もはや大学生がよく使うレジュメと呼んで相違ないものだった。完成度で言えば、僕が授業で初めて作ったものよりも遥かに高い。
「暇だったって、お前、これ何時間かけて作ってくれたんだよ」
「ほんの二時間くらいですよ。サイトからの引用も多いので、そんなに大変じゃありませんでしたし」
 簡単に言ってくれる……。けれど、あやめはできることをしてくれただけなのだろう。僕のお願いに応えるために――ああ、それで僕を呼んだのか。
「ありがとな……本当に」
 ここまで頑張ってくれたあやめになんとか報いたいと思い、ある提案をすることにした。
「お礼に、なにかお願いきいてやるよ。なにがいい?」
「いえいえ、あの猫の件を聞き入れてもらっただけで十分すぎるほど助かっていますから」
「じゃあほら、あれだ。あやめ園連れてってやるよ。今ちょうど見頃らしいじゃないか」
「いや、私とあやめ見に行くって、どんなギャグですか。嫌ですよ」
「なんなら来週のお前の誕生日に連れてってやるぞ?」
「平日は部活があるので夜遅いです。花なんて見えませんよ」
「期間中はライトアップしてるから、夜でも見えるらしいけどな」
「なんで課題のほうは調べないのに、そっちは調べてあるんですか……」
 呆れたように言われてしまう。楽しい会話だった。
「そういえばさ、なんでお前って家でも敬語使うようになったんだっけ」
 予定ではもっと、いつもの軽口のような口調で言うつもりだったのに、失敗した。声も低くなってしまったし不自然な流れだし、これでは僕が思いっきり気にしていたのがバレてしまう。
「そうですね……」
 あやめは顎に手を当てると思案顔で沈黙を作った。この無言の間がいたたまれなくて、すぐにでも部屋に戻りたくなった。
「最初は、大学生になる秀樹さんに距離を感じて、ああ、子どもの頃に一緒に遊んでたあの男の子は、いなくなっちゃったんだなぁ、なんて思って使い始めました。実際は、大学生になった今もこうして遊んでくれて、全然変わらないなぁなんて思い直したんですけどね、一度使い始めたら、戻すタイミングを失ってしまって、なんとなく敬語を使い続けてたんです。けどその内、敬語を使っていてたまに、秀樹さんがちょっと嫌な顔をするのが楽しくて」
 気づかれていた。かなり恥ずかしい。
「私が秀樹さんを困らせられることなんて滅多にありませんから、そのまま使ってたんです。でも正直、そう言ってもらえるのを待ってたところがあります」
「……そうかよ。じゃあせっかくの機会だ。昔みたいに、敬語はやめて普通に話そうぜ」
 あやめは一瞬考えた後、「嫌です」と、珍しく悪戯っ子みたいな目をして言った。
「せっかくなので、もう少しこのまま使い続けたいと思います。人の嫌がることをするのって、楽しいですね。男の子ならわかるでしょう?」
 色々反論しかけたが、こうなったあやめは厄介で頑なだ。僕は諦めて、時計を見て腰を上げた。
「まあいいや。そろそろ寝ろよ? だいぶ具合は良さそうだけど、治りかけが肝心だからな」
「はい、ありがとうございます。秀樹さん」
 マスク越しでもわかるくらいにやにやしやがって。くそう。
「課題手伝ってくれてありがとな。このプリント良くできてるから、進学しろよ。良い大学にさ」
 言い捨てて部屋を出ようとすると、背中から、
「大学に行くなら、秀樹さんと同じところに――」
 声が聞こえたような気がしたが、僕は構わず扉を閉めると、足早に部屋に戻った。
 部屋では、僕のベッドの上で子猫がまた横になっていた。よほどその場所が気に入ったらしい。
「そこで寝るには、お前が僕と添い寝できるくらい仲良くならないと無理だぞ」
 血の繋がった家族とだって添い寝なんてできないが。僕がベッドに潜り込むと、まだ名前も与えられない子猫は追い出されるようにして飛び起きて、またしてもダンボールに逃げ込んだ。
 ふと、僕とあやめが添い寝している絵が頭の中で浮かんできてしまい、あやめの風邪をうつされたように僕は頬を熱くしたのだった。

了 

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!