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第六回阿賀北ロマン賞受賞作①小説部門 一般・大学生の部 『命の音』 加藤 千尋

 この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は加藤 千尋さんが執筆された第6回阿賀北ロマン賞小説部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

 小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『命の音』加藤千尋


 ジリジリジリジリ。どこか遠くで古い電話が鳴っている。一郎は眠りから無理やり引き上げられるようにして目覚めた。
葬式が終わって3日経った。その間の記憶がない。いや、葬式の記憶も一郎にはあやふやだった。遠くで電話が鳴っているような気がする。現実感がなかった。
 一郎は立ち上がろうとして、まるで力が入らなかった。まともに食べていないからだろう。なにもかも面倒くさくなって、また布団のうえに仰向けに倒れこんだ。仏壇が目に入る。小さな骨壺が目に入った。
 ――そうだ。母さんが死んだのだ。
 一郎は再び、眠りに引き込まれながら思った。
 俺の人生が変わってしまったのは、地震があってからだ。一郎は夢うつつに思い返す。――そうだ、あの地震があってすべてが変わってしまったのだ――。

 2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源とする地震があった。東京で暮らす一郎は急いで新潟の阿賀北にある実家に連絡を取ろうとした。阿賀北には一郎の母親が一人で古い農家に暮らしている。しかし、電話は当然の如く通じず、テレビのニュースでは甚大な被害が出ていることを伝えていた。一郎はとにかく新潟へ出発することとした。妻の佐紀と息子の颯太は自分たちも行くと言い出した。仕事も学校も休むと言うのだ。一郎は、義母を心配してくれる妻も、祖母を心配してくれる息子の存在も、嬉しく誇らしかった。
3人で新潟へ向かったが、新幹線が止まっているので一日かかってようやく新潟市内へ入ることが出来た。地震はそこかしこに大きな爪跡を残していた。一郎は青ざめながら実家へ向かった。
 実家のあたりは被害は少なかったようで倒壊している家もなかった。恐ろしい風景を想像していた一郎の目に映ったものは、のどかな変わらぬ風景だった。一郎が高校卒業まで育った家が、農家らしくどっしりと構えている。前に広がる畑には母の好きな花が植えられていた。
 それを見た瞬間、一郎は鼻の奥がつんとした。懐かしさが胸にこみ上げて来た。一郎は母が今にも家の中から手を振って出てくるように思えた。    
が、母親は出てこない。被害もなかったようなのに、母親と連絡が取れないのはどういうことなのか。一郎は一気に不安な気持ちでいっぱいになり、玄関へ駆け出した。妻と息子の存在は頭から消えていた。前の畑の間を駆け抜けてたどり着いた玄関には、一枚の張り紙があった。
「酒井春江さんは、県立病院に入院しています」
短く走り書きされていた。一郎はすぐさま踵を返した。何も考えられなかった。家の方へ向かってきていた妻と息子が驚いた顔をしたが、一郎は気づかずに闇雲に走った。
「お父さん!どこへ――」
息子の大声にも一郎は振り返らなかった。母親のことしか頭になかったのだ。
 県立病院に駆けつけると一郎の母は骨折で入院していた。地震のときに驚いて転倒したらしい。近所の人が母を病院に連れて行ってくれたらしかった。
 一郎が病室へ現れると、母は気弱げな微笑みを浮かべた。その優しい顔と痛々しく吊られた足を見ると、一郎は安心してそこに座り込んだ。視界がにじんだ。一郎は母がかわいそうでならなかった。母を一人で放っておけないと心から思った。
 後から病院に来た妻と息子は、ありがちな挨拶をして一時間ほどもいると「そろそろ」と病室を辞そうとした。一郎は拍子抜けして、ますます母がかわいそうで、つい妻と息子に声を荒げた。
「もう、ってことはないだろ。お袋がかわいそうじゃないか」
「私たち、今夜泊まる場所は?ホテル探さなきゃいけないでしょ」
妻の佐紀は母に頭を下げると颯太の手を引いて出て行った。
「なんなんだ、家に泊まればいいのに」
一郎は唖然として呟いた。その間も母は優しく微笑んでいた。一郎は地震にあって怪我をしても、一郎や嫁を気遣う母がいじらしかった。
「すまんな……お袋……」
母親は黙って微笑んだまま顔を横に振るだけだった。そんな母がかわいそうで、一郎は思わず母の手を握った。あっと声が出そうなほど小さく細い手だった。一郎はやりきれない思いがした。
 その晩、一郎は妻にも息子にも連絡を取らずに実家に帰った。家の中は地震で飛び散ったものでめちゃくちゃだった。その惨状を見て、一郎は初めて妻の「泊まるところがない」という言葉の意味が分かった。しかし、大怪我をしているお袋を見捨てていく妻に謝りたくなかった。
 一郎は、比較的被害の少ない田の字型の座敷の一間に布団を引いた。横になると、大きな家に毎日一人で寝起きしていた母のことが哀れでならなかった。そして決心を固めた。
 翌日、妻は息子を連れて東京へ帰って行った。一郎はムカムカしながら病院へ行くと。母は花がほころびるように笑った。童女のような微笑みだった。
 母は、一郎の話を黙って聞き何でもうんうんと頷いてくれた。母はほとんど自分からは言葉を発さなかったが、一郎は疑問にも思わなかった。母はもとから口数の多い方ではなく、いつも一郎の話を聞きたがったのだから。
こんなに自分を頼りにしてくれている年取った母を一人で置いておくことは出来ないと一郎は改めて感じた。
 それから一郎の行動は速かった。数日新潟に滞在して夜遅く東京へ戻ると、翌日、勤め先の自動車保険会社で異動願いを提出した。夜遅くマンションへ帰ると、佐紀と颯太には新潟へ転勤するから準備しておけと告げた。一郎にとっては、弱った母との同居は全く当然のことだった。妻と息子にも喜んでついてくると思っていた。
「な――」
妻は引きつった顔をして椅子から立ち上がった。颯太も驚いた顔をしている。
 一郎は、その二人の様子を見てカチンと来た。俺がこんなに忙しく飛び回っているのに、親が苦労しているのを助けるのは当然なのに、諸手を挙げて賛成でないなんて、と驚いたのだ。その驚きは怒りに変わった。一郎は善いことをしているという自負心に酔っていたし、肉体的にも疲れていたので自分の考えを疑う余裕などなかった。
「なんだ、その顔は。反対なのか」
一郎は腹立ち紛れに言い放った。それが妻に火をつけた。
「反対もなにも――私たちに何の相談も無く!一体何なの?!」
妻はいきなり大声を上げた。それに煽られて、一郎も大声を出した。
「なんなの、っていう質問自体が気に食わないな。するべきことは決まっているだろうが!」
一郎は言葉尻を捉えた怒りに駆られた。しばらく言い争いが続いた後、一郎は低く言った。
「颯太はまだ子供だ。こんな言い争いを聞かせるべきじゃない。颯太、早く寝ろ」
一郎はいつもの通り言ったつもりだった。
「颯太だって関係あることでしょう!誰のせいでこんな言い争いをしてると思うわけ!」
妻の猛反撃を招いた。
「分かった、分かった。そうやってお前は論点をずらしては、人を怒らせることにかけては天才だな……」
一郎は怒りと面倒さに任せて言った。佐紀の顔が怒りで赤くなった瞬間、
「僕は新潟には行かない。お母さんと一緒にいる」
12歳の颯太はゆっくり言った。目に涙を浮かべて顔は恐怖に引きつっているが断言した。
「な――」
今度は一郎が引きつった顔をする番だった。涙ぐんだ息子と覚悟した顔の息子、二人の顔を見比べてうんざりした一郎は、捨て台詞を吐いて席を立った。
「勝手なことを――好きにしろ」
 翌朝から、一郎は家族と口を聞くこともなく新潟と東京を往復して慌ただしく過ごした。引き継ぎに忙しかったのだ。
 佐紀は何度も「ゆっくり時間を取って考えて欲しい」「話し合いましょう」と提案したが、一郎は忙しさを理由に向き合わなかった。一郎は、妻と息子が信頼を裏切ったとしか思えなかった。自分が新潟へ行ってしまえば、二人も反省して折れるという計算もあった。
 一朗の新潟への引っ越しは、地震から1ケ月という速さだった。結局、一郎は妻とも息子とも向き合う間もなく出発し、母との同居へ踏み切ったのだった。
 一郎は意気揚々と母を病院から引き取ったが、同居は順調にはいかなかった。引き取って初めて分かったことがあったのだ。母は認知能力がかなり衰えていたのである。一郎は、最初は母がただニコニコしているのだと思っていたが、殆ど口を聞かないことや、物忘れが激しいことことなどがわかり、病院に連れて行き検査をした。
 検査の結果、軽度の認知症だった。あんなに気丈だった母が、こんなに優しい母がボケているなんて、一郎は衝撃を受けた。ショックのあまり一郎は妻に電話したが、妻の態度はそっけなかった。
「前からおかしいって言ってじゃない。検査しろって」
それしか言わなかったのである。一郎は妻が母を悪く言うだけだと思っていたのである。
 一郎の生活は予想してたものとはまるで違うものとなった。新潟へ移ってまだ十日も経たない内に、一郎は母の世話と家事に追われる身になった。新しい職場は忙しくないが、家事や母の世話全般をしながらのフルタイム勤務は楽ではなかった。一郎は初めて、妻が共働きながら家事全般を引き受けてくれていたことに気付いた。新潟の家でまともな食事をすることすら無理な状況になって初めて、妻の献身に気付いたのだった。
 一郎は妻や息子が気にならないわけではなかったが、世話と介護に追われ、妻の冷たい態度に気後れし、ゆっくり話すことはなかった。思いついて電話をかけてみても留守が多かった。妻の方から掛かってくることもあったが、一郎が疲労で眠っていたりして電話に出れない日が続いた。連絡は間遠になってゆき、そのまま1か月、2か月と経った。
 その間にも母の認知症は緩やかに進み、一郎の負担は重くなった。認知症ゆえの問題が山積みだった。母はいつのまにか様々な物をでたらめに押し入れや作業小屋に詰め込んでいた。生ものも構わず突っ込まれているらしく悪臭を放っているので放置出来なかった。通帳なども散逸していた。徐々に進んだ認知症のせいだった。一年に数度の帰省で一郎が気づかなかっただけだった。
 そして母は今現在も一郎の前で変わり続けている。このまま進むとどうなるのか、と一郎は母に呼びかけた。
「お袋」
「なんだい?」
母は優しい笑顔で返事をする。その表情は一郎にとっては何十年も変わらなかったものだ。この母がボケているなんて一郎には実感が持てなかった。
 しかし、母は一郎が話しかけなければ話をしない。病院を見舞ったときは、極少ないながらも自分から話をしていた。それが同居を始めて三か月経つ間に、母は返事するだけで会話は成り立たなくなっていた。
「お袋…」
「なんだい?」
母は何回繰り返しても、同じ笑顔で優しく息子に微笑みかける。その異様な態度に、一郎が泣いたのは同居し始めて四か月目の夜だった。五十歳にもなる息子が突っ立ったまま泣いている姿に、母は微笑みかけていた。阿賀北の夜は静かに更けていった。
 一郎は、母の世話に明け暮れ家事に明け暮れ、全く自由時間はなかった。妻や息子のことを考える時間もなかった。それでも一郎は東京に戻りたいとは言えなかった。痴呆の進む母を置いていけない。母を老人ホームに入れるにも新潟事務所の給与では到底無理な相談だった。「安いぞ」と、直属の上司は異動を打診した一郎に開口一番言い放ったものだ。その時、一郎は母の救済をする自負心に目がくらんで、示された金額を見ても怯まなかった。しかし、母との生活がいきなり行き詰った時に給与明細を開いて、一郎は追い打ちをかけられた。廉価な老人ホームは、順番が回ってきそうになかった。
 おまけに新しい職場が、やり甲斐や活気などを感じられる場所ではなかったことも気持ちを沈ませた。分かっていたつもりだったが、東京で巨大企業を相手に仕事していたことを思い出すと、のどかな道端を軽自動車で見込みのない営業で回ることが、余りにも悲しかった。
 つまり一郎はすべてに行き詰ったのである。その上で、今の生活を変えられないという事実が一郎を余計に滅入らせた。今の生活を変えることは痴呆の母を棄てることだからである。東京へ戻っても母を連れて暮らせる場所はない。この仕事を辞めて新しく仕事を見つけられる年齢でもなく、辞めると食べていけない。一郎は余りにも考えなしに衝動で母との同居を決めてしまったのだ。
 一郎は八方塞がりの中、ただただ賽の河原の石を積み上げるように生活した。母は症状が進んで表情が消えた。一郎は徐々に、無表情な母の顔を見ると激しい怒りを感じ、怒鳴りつけたい欲望に駆られるようになった。母と同居してわずか半年だった。そしてその欲望に一郎が負けるのに時間はかからなかった。
 一郎は、爆発的に怒鳴った瞬間の解放された気持ちと、脅えて縮こまる母を見て感じる苦い気持ちの間を行ったり来たりした。更には、脅える母が自分を不快にさせるのだとすら感じられてきて、毎日闇を覗き込んでいるような生活になっていった。
 一郎は、半年の間に妻と息子に何度か連絡を取っていたが、愚痴しか言えなかった。しかし妻はいつも辛抱強く「これからのことを話し合いましょう」と言った。が、一郎はそんな気力はまるで無く先延ばしし続けた。
一郎の毎日はただ追われるだけで過ぎた。母が人形のようになっていき、一郎の負担が増え、背中に張り付いている闇はますます濃くなるだけだった。
 3年が経った。12歳だった息子は15歳になり中学3年生になった。一郎は一日も新潟から離れられなかったし、妻と息子は一度も新潟に来なかった。
強引に新潟へ転勤したことに二人はまだわだかまりを持っているのだろうと一郎は考えていた。息子が中学3年生なので、新潟の高校を受験し、妻と二人で引っ越してくるのに丁度良い時期だと思った。そろそろ妻も息子も折れる機会をうかがっているだろうから水を向けてやってもいいと思っていた。
 八月の終わりに一郎は、妻に電話をかけたがなかなかつかまらなかった。ようやく九月に入って妻から電話がかかった。その時点で一郎は腹を立てていた。一郎は母親と同居を始めてから怒り易くなっていた。ずっと疲れがたまっていて誰も認めてくれないという思いが、自身で気付かぬうちに一郎を怒りに駆り立てていた。 
「もしもし」
一郎は、その一言で妻に怒りが伝わるような声音を出した。妻に怒りが伝わればいいと思った。妻から自分をなだめる声を聞きたかった。
「――なにか用ですか?」
硬く強張った声が受話器の向こうからした。若い男の声だった。一郎は予想外の事態に驚いて、声が出なかった。息子の颯太だ、と気づいたのは一瞬後だった。うろたえた手前、一郎は颯太の声が聞けて嬉しい気持ちは表せなかった。一郎はいつも素直に振る舞えない男だった。精一杯の威厳を保った声で言い放つしかなかった。
「母さんに代われ。これは母さんの電話だろう」
「――――」
受話器の向こうで、一瞬苛立った雰囲気が一郎の方にまで伝わってくる。
「もしもし?」
妻の声が受話器の向こうから聞こえてくる。一郎は声を荒げた。
「これはお前の電話だろう!いきなり男の声がして驚いたじゃないか」
「ああ……そう」
一郎が怒っているのに対して、妻はまるで気のない返事をした。そして、いきなり切り出した。
「ちょうどよかった。颯太は関西の私立高校を受けさせるから」
妻は、事務的な口調でそれだけ言った。
「なんだって?」
一郎は全くついていけなかった。
「もう潮時でしょう。離婚しましょう。弁護士に入ってもらうから、次からは連絡はそちらでお願いします」
妻はそう言って一方的に電話を切ろうとした。一郎は必死に食い下がった。
「待って、待ってくれ、突然になんなんだ」
「突然でもないでしょう。話し合おうとあれほど私が言ってもまるで耳を貸さずに、勝手に新潟へ行ってしまったのはそっちじゃないですか」
「いや、それは」
「勝手なことばかり。話し合うべきときには逃げてばかりで。もう、うんざりなんです。私は関西へ戻ります。颯太も私についてくると言っているから」
「こっちへ来ればいいじゃないか」
一郎は、別々に暮らしているからこうやって揉めるのだ、新潟へ来ればすべてが解決するのだ、と思っていたことを言った。
「――なにもわかってない。いっつも自分の考えばっかり主張して、誰の気持ちも考えない。そういうところがうんざりするわ」
妻は最後は生まれ育った関西弁で言いきって電話を切った。
 一郎は呆然とした。いつか新潟へ引っ越してくるのだとばかり思っていたのに、妻と息子は妻の実家のある関西へ行くと言うのだ。一郎は殴られた思いだった。
 古い柱時計がボオオンと夜の九時を打った。襖の向こうの座敷では母が咳をする声が聞こえ、古い農家は闇に沈んでいた。
 
 結局、一郎は離婚に同意するしかなく、息子の親権は妻が取った。妻は、離婚届に一朗の署名をもらうために新潟へ来ると言った。颯太も連れて行くと。一郎は、あれほど頑なに新潟へ来なかった妻が、離婚のためなら飛んでくることに微かな怒りを覚えたが、諦めの心境だった。
 妻は最後の面会に新潟の駅前ホテルの一室を指定してきた。一郎はせめて、息子には実家をもう一度見ておいてもらいたいと頼んだが、颯太自身が拒否しているからと断られた。
 家族三人が揃う最後の日、一郎はそれでも張りのある気持ちで昼過ぎに家を出た。母はデイケアセンターに朝から預けた。季節は晩秋にかかり、もうすぐそこまで雪の声が聞こえてきそうな阿賀北だった。
一郎が新発田駅前のホテルにつくと、フロントは「もう見えてます」と部屋の番号を伝えてきた。一郎は緊張しながらエレベーターに乗り込むと、全身鏡で自分の姿をチェックせずにはいられなかった。久しぶりに会えるのだという張りと、自分を不幸に見せたくないという見栄とで気合が入る。が、一瞬後にはどうしてこんなことになったのかと滅入る気持ちが交錯する。エレベーターを降りて短い廊下を歩く間にも、気持が揺れ動いてならなかった。
息を詰めて扉をノックする。
「はい」
一郎が予測していた妻の声ではなく、張りのある中年男性の声がしたので、一郎は怯んだ。あ、と思う間もなくドアが開けられた。そこにはきっちりとしたスーツの穏やかながら威圧感のある中年男性が立っていた。彼の奥に、小さな机に向かった妻と息子らしき姿が見えた。
「どうぞ。お待ちしていました」
中年男性は一郎を部屋へ招き入れ、弁護士だと名乗った。妻はとりつく島もないそっけなさで、一郎を一瞥した。息子の颯太は、中学の制服らしい詰襟を着て妻の横に座っていた。颯太は十二歳の時に比べて身長が二十㎝以上伸びた様子で、やたらに長い手足を余らせるようにして座り、眉間に皺を寄せて一郎を睨んでいた。
 一郎は颯太の姿を見た瞬間、十二歳からの三年間の時間の重さを一気に見せられたようで目眩がした。大きくなったという嬉しさと、一郎を見据える目のきつさに「もう子どもではない」という寂しさとが、重なって一郎に押し寄せてきた。
颯太の思春期の少年らしい清潔で激烈な目を見ながら、ああ、終わりなのだな、と一郎は思った。修復は不可能なのだと心から悟った。
一郎は離婚届に署名をするために、席に着いた。
 離婚届に署名をして、細々としたことの打ち合わせ終えると、佐紀は「じゃ」と立ち上がった。一刻も早くここを去りたいという態度だった。
 一郎は慌てて立ち上がると、身支度をしている一行を追った。これが最後だと分かっていたからである。
「これで最後なのか。もう会えないのか?」
我ながら間抜けだと思いながらも、一郎はそれくらいしか思いつかなかった。ドアに向かっていた全員がゆっくりと一郎を振り返る。妻は無表情に、颯太は一郎を睨んだまま、弁護士は驚きと同情を顔に乗せていた。
「――ふざけんなよ」
奇妙な沈黙と緊張の後、最初に発された声はドスの効いた罵倒だった。颯太だった。
「颯太!」
妻が息子を制した。一郎は、奇妙な感慨に浸りながらそれを見た。颯太は、もう母親が手を握って制止する年齢ではなくなったのだ――。
「酒井さん」
妻はドアにかけた手を離さずに顔だけ一郎の方へ向けて言った。「酒井さん?」と一郎は戸惑った後に、まだ自分が彼女に「あなた」とか「一郎」とか親しげに呼ばれる気でいたらしいことに気付いた。もう、彼女たちは「酒井」ではなくなるのに。
「あ、ああ」
一郎は間の抜けた返事をした。息子になじられながら想い出と感慨に浸り、元妻に他人行儀な呼ばれ方をされて馴染めない男。これが間抜けでなくてなんだろうか。
「颯太と酒井さんは親子であることに変わりはないので、颯太が希望すれば面会してお会いになれば結構です。けれど、私は他人ですのでもうお会いすることはありません」
妻は努めて事務的に言った。
「――お前らは、俺を見捨てるのか。颯太までも俺を捨てるのか」
一郎の本音だった。こんなはずではなかった、という一郎の本音だった。
「――違う」
妻は震える声で言った。激しい怒りに駆られながら、懸命に抑えようとして震えた声だった。
「違う。私たちをずっと捨て続けたのは、あなたの方です。私たちを捨て、あなたの母親を取ったのはあなたです。私も颯太も、あなたが私たちを捨てたことは忘れない。あなたが母親を取ったように、颯太は母親である私を取ったというだけのことでしょう」
彼女はそう言うと出て行った。颯太も後を追った。弁護士も口の中で辞去の挨拶をして彼女らを追って行った。ドアがゆっくりと閉まり、一郎は一人で部屋に残された。ホテルの窓には、黄葉した銀杏を透かして午後三時の光が射していた。
 一郎は独身になり、母親と二人でひっそりと暮らした。離婚する前と後とで何の変化もない。ただ、一郎の中で希望が消えただけであった。もう元には戻ることのない母との生活だけが続いていくのだという事実は、一郎からすべての気力を奪った。一郎は、ただ会社と家とを往復するだけの日々を続けるだけだった。毎日変わらず、活気のない職場に出勤し、取れる当てのない契約を取るために軽自動車を走らせて熱の無い営業をして回り、帰ると無反応な母の世話を頭の先から下の世話までする。何も反応がないと言っても、生きている以上は食事をし排泄をするので、介護ヘルパーさんが帰宅した後は、一郎が一人ですべての世話をしなくてはならないのだった。やたらと忙しく、全く先の見えない生活をただ繰り返す。
 そういう中でも母親の症状だけは進んで行った。同居して五年も経つと、ほとんど周囲とのコミュニケーションが無くなった。一郎の話しかけにも反応しなくなった。
 まるで俺は存在しないようだ――と一郎は感じさせられ、その頃から酒量が増えて行った。自分がそこにいるのに存在しないかのように扱われる。人間はそういうことに耐えられないのだ。相手が痴呆症状にあるとわかっていても、人間は自動的に反応を期待してしまう。その期待が叶えらないと人は蝕まれていく。心が泥のように腐って行く。そういうことを一郎は、母の介護だけに明け暮れる生活の中で知った。
 一郎はもはや義務的に母親を介護し、イライラすると酒を飲むか物にあたるようになった。母親は動物的な本能は衰えてないらしく、一郎が苛立っているとビクビクしたし、一郎が物にあたるとその物音に体をすくめた。
 そうして同居を初めて九年が経った春、一郎は事実上解雇されて職を失った。今年の三月に長年勤めていた会社の新潟支所が閉鎖されたのだ。一郎は六〇歳の定年前に首になったのである。
 正月明け、所長が言いにくそうに、
「年度末にこの営業所は閉める、他の支所に移るなら……」
と切り出した時に、異動出来るわけがない一郎は自分が首になること瞬時に理解した。と同時に奇妙な安堵の気持ちがこみ上げてきた。一郎は自分以外の強制的な力で状況を破壊してくれるものを待ちのぞんでいたのだ。
 何もかもを放り出してしまいたい。それがここ何年かの一郎の本音だった。
 だから、所長から事実上の解雇を言い渡されたとき一郎は明らかにホッとした。一郎は肉体的にも精神的にも疲れ切っていたのだ。
「ははは……」
笑い出した一郎に所長も社員も変な顔をして何も言わなかった。
一郎は笑い続けた。仕事を失うよりも、全てを一人で引き受ける状況から逃れられることが嬉しくてたまらない自分を嗤ったのである。意気揚々と新潟へ来て、母親の面倒を見ながら仕事も十分両立させる気だった過去の思い上がった自分が、おかしくてならなかった。ついてきてくれない妻と息子に対して会社は俺を必要としてくれているんだ、見ていろ、と意地になっていた自分。自分の思い描いていた母も、妻も、息子も失い、遂に仕事まで失い、それに安堵している自分が一郎はおかしくて仕方なかった。
こうして一郎は22歳の時から26年間続けた仕事をやめた。58歳で無職になったのだ。ただ、一郎には、介護と家事という二十四時間終わりのない仕事が待っていた。無償の仕事だった。

 新潟の春は寒い。四月になってもストーブはしまえなかった。朝から晩までただ母親と向き合ってるだけの生活になって、一郎は酒量が増えた。雪国らしい軒の深い薄暗い家で、物のような母親を見ているだけで一郎は日一日と春めいてくる明るさが呪わしかった。
 仕事と介護の二十四時間体制から解放されて馬鹿笑いしたのではなかったか、と一郎は自分に問いかけた。確かに体は比べようもないほどに楽になった。しかし、体が辛い方がまだよかったのだと思い知ることになるのに時間はかからなかった。
会社を辞めて介護ヘルパーの回数を減らすと、結局、一郎は一日中、無表情で無反応な母親と向き合い続けることになる。うつろな目をして口だけ開けている母親に流動食に近い食事を与える。母親は一郎の指示によって咀嚼する動きをわずかに見せるが、生き物らしい反応は見えない。
「美味しいか?」
一郎が訊いても母親は反応しない。何かが聞こえているという仕草すら見えない。まるでそこに一郎がいないかのように、極々自然に一郎の存在は無視し続けられるのである。
 食事だけではない。布団に横たわらせても、排せつ物を片づけるときも、風呂に入れるときも、一郎という人間は母親には存在しないのだった。一郎は、古い家の中で透明人間のような感覚に襲われることがしばしばあるようになった。自分が存在していることが疑わしくなって、一郎は自分の手をハッと見ることが何度もあった。鏡に映した自分の顔を手で撫でて確認することもあった。一郎がいきなりそんな行動をとっても、傍らにいる母親はまるで反応せず、やはり一郎は存在しないかのようだった。
 一郎が日中も家にいるようになって、母親も環境が変わったことが分かるのか落ち着かなくなった。頑として口を開けずに食事を受け付けなくなる回数が増え、見ていない間にオムツを取ったりする問題行動が増えた。一郎の負担は増していた。
 限界はあっさりと訪れた。一郎が外へ働きに行かなくなってわずか二週間ほどの四月半ばのことだった。
 介護ヘルパーが帰る前に、母親の座る縁側の椅子に寄ったときだった。
「じゃあね、春江さん。また明日」
ヘルパーの女性はそう言って立ち上がろうとした。物腰が優しいので、母親の症状が進む前から母のお気に入りの女性だった。
「ん?春江さん、どうしたの」
ヘルパーの女性が驚いた声を出した。うつろな表情をしながらも、母がヘルパーの女性の手をなんとか掴もうとしているようだった。帰ってほしくないと言っているようだった。
 一郎は、発作的に激しい怒りに駆られた。俺がこんなに一生懸命やっているのに、お袋はその女の方がいいというのか!
一郎は思わず、手に持っていた湯呑をテーブルに叩きつけるように置いた。
 ガン!激しい音がした。同時にヘルパーの女性が驚いた顔で振り向き、母も身じろぎしてそれきり動かなくなった。
 ヘルパーの女性はやれやれと言った顔でため息をつき、母親の手をポンポンと叩いてから玄関へ向かった。
 その晩、一郎はかなりの量の酒を飲んだ。やりきれなかったのだ。自分が身を粉にして世話をしても手応えはまるで得られず、訪問ヘルパーにだけ甘える母親。
  一郎には、いったいどこで自分が間違ったのか分からなかった。思い描いていた母も、妻も息子も、仕事も、何もかも失い、また母の愛情すらも自分から遠のいていく。自分の主張ばっかり、自分の気持ばっかり、と妻の佐紀が言った言葉が思い出される。妻の気持ちを考えればよかったのか。息子の気持ちを考えればよかったのか。そうすれば上手く行ったのか。それとも、どうやってもこうなる運命だったのか。地震すらもそうだったのか。すべてを失い、お前はダメ人間だと繰り返し繰り返し突きつけられるために、俺の人生はあったのか。
一郎はいつの間にか机につっぷして泣きながら眠りに落ちた。
 気付くと朝の光が台所に射し込んでいた。一郎は台所の食卓につっぷして寝ていたらしい。慌てて座敷を見に行くと、母親は静かに寝息を立てて眠っていた。
 その日以来、一郎はすべてを諦めた。一郎に出来ることは、ただ淡々と自分の運命を引き受けることだけだった。母親が無表情であっても無反応であっても、オムツを外してしまって部屋中に排せつ物がなすりつけてあっても、一郎はすべてを受け入れた。朝、母親を起こして着替えさせる。食卓へ移動させ、母親の口に流動食を流し込む。オムツを替えて縁側の椅子に座らせる。一郎は母親の服を洗濯し、布団を干し、食事の準備をする。母親が徘徊しないか目を光らせながら、掃除をし、生活費の算段をする。また食事をさせ、オムツを替え、汚したら服を着替えさせる。休む間もなくそれが繰り返される。母親は相変わらず息子を認識している様子はなかった。
 一郎は、ただただそれを続けていくしかなかった。自分が透明人間のようでもあったし、存在しているか不安になることもあった。しかし、この生活以外に一郎には選べる選択肢がなかった。ただただ、かつての母親の面影を残している反応の無い物体の世話をし続ける奇妙な感覚に陥って行った。
 今になって一郎には分かることがある。自分は、こういうことをすべて妻に押し付けようとしていたのだということが、今になって分かった。この物体になってしまったような母も、一郎が知らないところで舅と姑の介護を一人でしていたのだということにも一郎はようやく気づいた。一郎の父は、一郎が五歳にもならない頃に亡くなったので、母はずっと舅と姑の世話をして一郎の知らない二十五年をこんな気持ちになりながら送ったのだ。
 毎日、自分の中の人間らしい何かが壊れていくような生活を誰かに肩代わりしてもらうことで、一郎は楽に生きて来られたのだった。自分の中の母親の輪郭、母親への愛情、自分自身の存在意義、自分の生きている意味、そういったものが崩壊していく生活を、誰かに押し付けようとしていたのだった。
母親は、今は寝たきりではないがそのうちにもっと弱ってくるだろう。一郎は、この先どこまで続くのか分からない無間地獄を、どこまで自分を保ったままで続けられるのかな、と思うことが多くなった。自分自身が朽ち果てていく気がした。自分の人生は、なんだったのか。同じように朽ち果てていく母親の人生は……。人間ってなんなんだ。答えも先も見えなかった。そして、いつも体は泥のように疲れ切っていた。
 一郎が勤めを辞めて三か月が経ち夏になった。八月に入ってますます暑くなった。今年の夏は猛暑で、と連日テレビがプールでの映像を映し出す。テレビの中で起こってる連日の大はしゃぎはまるで別世界のように一郎には思えた。
 八月の十日になると、母親はやたらに横になりたがることが増えた。医者は夏バテだろうからよく休ませるように、と言うので、一郎は母親の好きなように寝かしておいた。母親は起きていても、一日中、焦点の合わない目で中空を見ているだけのことが多く、もう置物のようになっていたからだ。
 翌朝、一郎が母親を起こしに行くと珍しく目を覚ましていた。一郎が無言で起こそうとすると母親の目が動いた。一郎は驚いた。ここ何年も見なかった意思の感じられる目だったのだ。何かを言おうとしている雰囲気すら感じられて、一郎は戸惑った。
 一郎は母親の腋に手を差し込んだまま、母親の目を覗き込んだ。しかし、母親の目からは急速に光が消えていき、もとの手応えのない顔に戻った。一郎のなかで、一瞬激しく瞬いた期待は行き場を失って渦巻いた。母親の体を揺さぶって、遠くへ行ってしまった意思を引きもどしたい衝動に駆られたが、もう母の目の光は消えていた。一郎は黙って母親の腋に手を差し入れ、ぐんにゃりした体を引き起こした。 
 真夏の日差しが差し込む座敷に介護用の食器の音が静かに響く。蝉の声が満ちている。古い農家の建物の中で、喋る者は誰もいないまま時は過ぎていく。
 翌日も朝から暑かった。一郎は母親を起こすために、座敷の中に足を踏み入れるのをためらった。襖は開け放たれ、母の寝ている布団が小さく盛り上がっているのが見えた。
 一郎は自分の中に、期待があるのを知っていた。相手が――自分のもっとも根源的なものにかかわる母親が、自分を認めて反応を示してくれることを期待する。この緩慢な日々が変わるかもしれない――それは生命の希望だった。しかし、この10年何も起こらなかったではないか。一郎はそう自分に言い聞かせた。期待して裏切られることほど辛いことはなかった。
 一郎は座敷の前で動けなかった。
 その時母親が身じろぎした。一郎は我を忘れて座敷へ駆け込んだ。母親の枕元に駆けつけて顔を覗き込む。
 母親の目は必死でもがいているように見えた。一郎を確かに認めている。
「母さん!」
一郎は叫んだ。大人になってから呼んでいた「お袋」ではなく、若い時の呼び名が思わず口をついて出た。
「かーか、かー……」
母親は一郎につかまろうとするように必死で手を伸ばしてきた。一郎はその手をつかむ。
「い、い……ち、かーか…」
母親は必死で口を動かそうとする。
「なに?なに?」
一郎は必死で訊くが、母親は一郎を見つめて口をぱくぱくさせただけだった。そして、母親は、涎を垂らして苦しげな顔になって目を閉じて力を抜いてしまった。顔色の悪さに一郎は慌てて救急車を呼んだ。母を心配しながらも、一郎は高揚を抑えられなかった。
 もしかしたら――母親の精神が戻ってくる兆候なのかもしれない。
 期待してはならないと思っても嬉しさと期待を抑えきれなかった。
 救急車に乗るという緊張した状態でありながらきびきびと行動をする一郎を、救急隊員が「しっかりしてますね」と口にするほどに一郎は自信を取り戻していた。期待ゆえに。希望の火がともされたゆえに。一郎には世界が急に色づいたように見えるほどに。そうして、母親はかかりつけの病院に緊急入院となった。 

一郎の期待は、しかし裏切られた。母は死んだのである。
 搬送された病院で一旦母の容体が落ち着いたので、一郎が荷物を取りに戻った時だった。

 一郎はあっけなく一人になった。
 一郎が生きている母を見たのは、座敷で「かーか、いち……」と必死で何かを伝えようとしてきたのが最後となった。一郎には母が最期に何を伝えようとしたのかわからなかった。そして、何よりも希望を与えられて期待させられ、弄ばれるように、前よりも遥かにに強く奪い去られたことが一郎を打ちのめした。
一郎は何もかもを失った。妻も、仕事も、息子も、若さも、母も。なにもかも一郎の手から零れ落ちるように思えた。
 一郎は呆然としたまま、葬儀を営んだ。ただ、葬儀屋に言われるままに通夜、葬式の準備を進めただけである。葬儀屋は一郎の原稿すら用意してくれ、ただ任せていればよかった。
 葬儀は滞りなく行われ全てが済んだ。 その間の記憶はおぼろげだ。
 一郎は一人で古い家に戻ってきて、座敷で横になった。家は暗かった。どこにも光はなかった。
一郎は、当座するべきことを済ませたら、何もかもを放り出してただ眠った。そうすることが一郎には必要だったのだ。そういう形で一郎の心は、一郎を守ろうとしたのだろう。
 
 ジリリリリ。ジリリリリ。家の古い電話が鳴っていた。
 一郎は、色々な幻が自分にかぶさってくるように感じながら夢から覚めた。母親が起きないように、と急いで身を起こして、ふと気づいた。母親はもういないのだ。電話は母の気配のなくなった家の中で鳴り響いている。
「はい……」
一郎は、けたたましく叫び続ける電話に出た。
「もしもし?!酒井さん?」
電話の向こうから、飛びつかんばかりの勢いの男の大声が一郎の耳に飛び込んで来た。急に現世に引き戻されたような感じがして、一郎は戸惑った。
「あ、酒井です、が」
「ああ、もう!電話しても電話しても出ないので、困り果てていましたよ!」
電話口の向こうの若い男はずいぶんと怒っているらしい。一郎がなんのことか把握できないまま受話器を持って突っ立っていると、相手はお構いなく続けた。
「まったく!あのねえ!死亡診断書のコピーね!これから後の手続きに必要なんですよ!でね、取りに来てくださいよ!今日中ですからね!」
一郎は電話口の向こうが誰なのか、ぼんやり考えていた。
「聞いてますっ?!酒井春江さんの死亡診断書のコピー!今日中に取りに来てくださいね。場所は新潟市の――」
一郎はようやく、電話口の向こうの若い男が葬儀屋の社員であり、母の死亡診断書の話をしているのだということをおぼろげながら理解した。
 一郎の住む阿賀北から葬儀屋のある東区まではそれほど遠くない。一郎は、ほとんど考えることなく葬儀屋へ出向く準備をのろのろと始めた。何も考えることなど一郎にはなかった。考える思考力もまるで残っていなかった。この先の自分の仕事や人生や、家の処分や畑の処分など、今は考えたくなかった。
 一郎は東区の葬儀屋で死亡診断書のコピーを受け取った。対応してくれたのは制服を着た人のよさそうな中年女性だった。一郎が奥へ目をやると、電話をかけてきたらしい若い男が座っていた。相変わらず電話口で元気よく大声を出していたので、一郎にもわかったのだ。一郎はくすりと笑うと、目を伏せて一礼した。自分も若いときには、随分張り切っていたことを懐かしく思いだした。張り切っていたなあ、ずっとああやって張り切っていけると思っていたのだ。未来は輝いていると思えていたのだ。
先がこうなるとは思いもよらなかったのだ。そして、一郎は息子もあれくらいの年かな、と思い出して胸がしめつけられた。一郎は慌てて葬儀屋を辞した。
 外に出ると、一瞬で汗が吹き出した。むわっとした湿度の高い空気が、陽射しで真っ白に見える道から立ち上がる。八月の中旬ともなれば、暑さは頂点だった。
 何日もまともな食事をしていない一郎は、目が眩みながら外を歩き始めた。ふわりと涼しい風が顔を撫でた。一郎が顔を上げると、行き交う人々が花を持っているのが目に飛び込んで来た。
「そうか……今日はお盆か……」
 暑い中でも風が出て来たらしい。一郎は阿賀北地域以外は詳しくないが、たぶん海から近いのだろう。海からの風が吹き始めているのだ。
 一郎は行くあてもなく歩いた。お盆の昼間のざわめきの中に漂っていたかったのだ。中心部を抜け、商店街を歩き、あてどなく歩く。風は強くなっていた。海に近づいているのかも知れなかった。
 一郎はふと何かに引っ張られるような感じが何度もした。見覚えがあるような気がしてならないのだった。その懐かしい甘酸っぱい気持ちや、お盆らしく静かながらも賑やかな心持ちの人々の華やかさを眺める気持ちから、離れがたくて一郎は歩き続けた。
 ――いつか、ここを母と歩いたのかもしれないな。
心の中で想像しながら歩くのは悪いことではなかった。母親のよい思い出ばかりが浮かんできた。潮の匂いに線香の匂いが混じる風すら優しく感じられ、昼下がりの盛夏を歩き続けた。
 ここ何年も、ただただ人形のような母と向かい合い続けて、昔の母の面影など思い出しもしなかった。介護に追われて楽しいことなど何もなかったし、何も出来なかった。一郎は、「早く死んでくれ」とすら願った自分を知っている。息子のことが分からない、どれほど努力しても息子の存在すら見えていない母と生きるのは虚しかった。こんな虚しい毎日を終わらせてくれ、と自分が願ったことを一郎は知っている。あんなに俺のことを可愛がってくれた母親を返してくれ、とも一郎は思っていた。
 それが突然終わって、人々の顔に晴れやかさが灯っている中を歩いていることが一郎自身でも不思議であった。
 一郎はぼんやりと歩き続けた。
 ――母親はどうだったのだろう。
 一郎はふと思った。息子が生活のすべてを犠牲にしていることを母はどう思っていたのだろうか。何も分からなくなっていたのだろうか。分かっていて、外には何も表せなかっただけなのだろうか。俺が戻ってくるまでの数十年、お袋は祖母と祖父の世話をしながら何を思っていたのだろうか。
 一郎は母の気持ちを想像しようとして、靄が立ちふさがることに気付いた。母がどう思っていたのか――一郎はそれを想像したことがないことに、初めて気づいた。いつも自分の気持ちばかりで、母はどう思っているのかを母に訊くことはもう絶対に出来ないのだ、という事実に一郎は打ちのめされた。
 ――どうしてこんなことになってしまったんだろう。お袋は幸せだったのだろうか。俺が苦しめていたのだろうか。俺は、俺はこれからどこへ行ったらいいんだろう。
 一郎は風に吹かれるまま歩き始めた。ふと祭り囃子が聞こえる。一郎は祭り囃子に引かれるように歩いて行った。
 既に日が傾き始めているらしく、辺りはオレンジ色に変わりはじめていた。祭り囃子がどんどん大きくなる。太鼓の音が混じり始めた。
 その太鼓の音を耳にした瞬間、一郎はいきなり何かが自分の中になだれ込んでくるのを感じた。
 ――ああ俺はこの太鼓の音を知っている。確かに聴いたことがある。
 しかし、どうして自分がこの太鼓を聞いたことがあるのか分からなかった。自分はここらには殆ど来たことがないはずだ。
一郎はそう思いながら、太鼓を目指して夕焼けの中をさまよった。祭り囃子も太鼓もどこで鳴っているのか判然とせず、なかなかたどり着けなかった。気が付くと一郎のまわりには半被姿の子どもが増え、鼻筋に白粉を引いたりして、うきうきと歩いていた。みんな顔が夕日に照らされて照り柿のようだった。祭りのそばまで来ているのだ。
 角を曲がった一郎の目の前の開けた場所には、大きな箱状の燈籠が準備されている。勇壮な絵が描かれ、周囲を半被姿の人々が囲んでいる。太鼓の音や祭り囃子がますます大きくなった。
 一郎はそれを見ながら奇妙な感覚に捉われた。二重写しのようにもう一つの風景が重なって見え始めたのだ。もう一つの風景は真夜中だ。勇壮に響き渡る太鼓の音が一郎の耳にうるさいほどに聞こえる。
 ドン、ドン、ドン――。うるさいほどに響く太鼓の音は、一郎が目の前で見ているものか、幻の中から聴こえてくるのか。一郎の目には、いくつものシーンが切れ切れの映画の一コマ一コマのように二重写しに見えた。真夜中に大きな喧嘩灯籠がぶつかり合う押し合い、人々の怒号とも取れる掛け声、勇壮な半被姿の男たちの盛り上がった筋肉……。奔流のようになだれこんでくるそれらのシーンに眩暈がした。
 俺はこの喧嘩祭りを見に来ていた。一郎は今、はっきりと思い出していた。
一郎が小学校に上がる前だった。母親は泣いていた。泣きながら小さい俺を抱きしめて言ったのだ。
「一郎よく見ておいてね、このお祭りをよく見ておいて。お母さんはこのお祭りを見て育ったの。みんなね苦しいけれど、こうやってこうやって…お祭りをやってね、苦しくても生きていくのよ」
一郎の耳には太鼓の音とともに母の声が蘇った。母の温もりが一郎の背中に甦った。
「こうやって……みんな生きていくの。あの太鼓の音はね、命の音なのよ。命の響く音なのよ」
――ドン!
 一際大きく響いた太鼓の音で一郎は現実に引き戻された。目の前には、夕焼けに染まる喧嘩灯籠と祭りの準備で賑わう広場があるばかりだった。幻は一瞬のことだったらしい。
 一郎はふらふらと海岸に向かって歩き出した。若い母の言葉が耳によみがえる。
「命の音なのよ、苦しくてもみんな生きていくのよ」
 あの時、母は死も覚悟して飛び出したのだろうと一郎は思った。父が亡くなったばかりだった。小さい一郎を抱えて頼るべき夫は無く、厳しい義父母だけが残って、若い母がどんなに悩んだのだろう。一郎を連れて婚家を真夜中に飛び出した母は、自然と自分の実家あたりに来たのかも知れなった。きっとこの喧嘩祭りの地元が母の実家なのだろう。もう絶えて無いから、と母は実家のことは何も言わなかったけれど、母がどうやって生きて来たのか、どうやって育ったのか、何を考えていたのか、聞いておけばよかったな、と一郎はしみじみ思った。
 「生きていくのよ、苦しくても、生きていくのよ」という言葉は、母が自分自身に言い聞かせていたのだろう。一郎も今なら分かる。母は行くあてもなく飛び出してきた中で、喧嘩祭りに行きあい、生きる力を取り戻したのだ――。
 
「一郎くんじゃないかい?」
夕焼けの海に向かって歩いていた一郎を突然呼び止めた人があった。驚いて振り返ると、初老の男性が立っていた。がっしりした身体つきだが70歳手前くらいだろうか。一郎にはなんとはなしに懐かしさを感じて、不思議に思った。
「ああ、やっぱり一郎くんか。どうされた?えらい酷い顔をして」
初老の男性は親しげな微笑みを浮かべた。顔に刻まれた皺が、優しい佇まいに相応しい。
 一郎は、先ほどの幻、全てを失ったこと、そういったことが胸をいっぱいにして溢れそうになっていた。だから、この懐かしさを感じる男性に何もかもを話してしまいたくなった。お盆の今日ならどんなことがあってもいいように思えた。
 一郎は語りだした。思いつくままに懐かしい男性にすべてを語った。

 長い話が終わり、真夏の長い夕暮れも太陽が水平線に近づいていた。
「そうか…大変だったなあ」
初老の男性は同情するように言った。一郎はこんな言葉を聞いたのは何年振りだろう。そして、母親や佐紀は誰かにそう言ってもらっていただろうか、と思った。自分が言うべきだったのに、自分は言えなかった。
「…私のこと、覚えてますか」
初老の男性は一郎に訊いたが、一郎はどうしても思い出せなかった。どこかで会っている感じはするのだが。
「ははは、そうだろうな」
男は笑った。
「私はあんたの母さんの妹さんが嫁いだ夫の歳の離れた弟で、高橋と言います。あんたの母さんの妹さん――あんたの叔母さんで、私の義理の姉さんだが。若くして亡くなったんで縁が切れてしまったけれども。あんたの母さんの実家がまだここらにあった時に、何回か僕はあんたに会ってます」
高橋と名乗った男は続けた。一郎は、なぜこの男が懐かしく感じられるのか分かった気がした。
「あんたは、まだ小さくてな、まだこんなに小さくてなあ」
高橋は皺の中に埋もれるように笑いながら、掌を自分の膝くらいの高さへ持って行った。だいたい三歳児くらいの背丈かと思われた。
「まだ本当に小さくてお母さん子でな、いつも『かーか、かーか』言っててな」
 その言葉を聞いた瞬間、一郎は雷に打たれたような気がした。母親が亡くなる朝に一郎に向かって言った「かーか」という響きが一郎の中に蘇った。ああ、と一郎は呻いた。
 「かーか」という言葉は、「お母さん」と発音できない程に一郎が小さかった頃の、母親の呼び名だった。
 お袋は俺のことを忘れてなどいなかった。その思いに包まれて、一郎は胸に温かいものが湧くようだった。
「…そうですか、お母さんが亡くなられたばかりか。一度お線香上げに伺わせてもらわなければな」
一郎は、目の前の十歳ほど年上に見える男の親切さが心に沁みた。
「ありがとうございます」
一郎はそれしか言えなかった。
「あんた、仕事は…?」
高橋は穏やかに言葉尻を濁しながら訊いた。
「いや、詮索するつもりはないんだが、さっきの話から…仕事はした方がいいんじゃないかと思ってね」
高橋のどこまでも親切な言葉に一郎はすがりたく思った。ここへ導いてくれたのも母であるように思えた。
「恥ずかしながら…」
一郎は思い切って口にした。高橋は続きを、いい、いい、と言う風に手で遮った。
「そうか、それなら一度改めて我が家へ顔を見せに来てくれるか。私は小さいけれどスーパーをやっててな…」
高橋は名刺を一郎に渡し、更に手に持っていた缶ビールを一郎にくれた。一郎は、ありがたくて何も言えずに頭を下げた。高橋は一郎の肩を軽くポンポンと叩いて去った。
 一郎は深く頭を下げて見送った。独りよがりなことばかりしてきた自分に、こんなにも好意を投げかけてくれる人がいることに一郎はただただ頭を垂れるしかなかった。
 一郎がようやく頭を上げると、すぐそこの海で夕日が今まさに沈もうとしていた。
 夕焼けが最後の輝きを増している。祭り囃子が太鼓の音が、海へ吹く風に乗って聞こえてくる。勇壮な掛け声が一郎の耳にこだまする。
 母親が五十年前に一郎の手を強く握ったことを思いだす。
「約束してくれ、一郎、強く強く生きていくと」
夕日が、一郎の顔を滂沱として流れる涙を赤々と照らし出す。雄大な新潟の自然が一郎の中になだれこんでくる。
 ドドン、ドドン、ドドドドドン、ドン、ドン、ドン――。一郎の耳の中で、太鼓の音が鳴り続けている。
 俺は今、命の音を聴いている――。
 夕日は、壮大なドラマを演じ終えて、一瞬閃光を強く強く光って水平線の向こうへ消えた。

(了)

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