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第十一回阿賀北ロマン賞受賞作 小説部門 大賞『花満ちて、ひとり』真野桐子

この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は真野桐子さんが執筆された第11回阿賀北ロマン賞小説部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『花満ちて、ひとり』真野桐子

 山の稜線が白みはじめた。八月とはいえ、北越の早暁は肌寒い。は薄手のコートの襟を立て、岸辺のヨシの葉陰に佇んでいた。かつては阿賀野川河口付近の広大なだった福島潟に、夜明けが近づいていた。
 足場のよさそうなところに三脚を組み、一眼レフカメラをすえてから、数十分は経つ。東の山に日が昇るのを待っていた。数メートル離れて一人、またその先に一人、また一人……。広い湖沼の西側に、たくさんの仲間がカメラを前に立っている。誰もひと言も発しない。黙って夜明けを待っている。
 暗いにやがて靄が立ちこめ、薄明かりのなか、墨絵さながらの世界が広がった。
 ゆっくりと動くものがある。それは静かに視野の右端から現れ、左のほうへと向かっている。一艘の小舟だ。櫓を漕ぐ人影が、影絵のように浮き上がる。
 いっせいにシャッターが切られた。祐子はその音にわれに返ると、あわててシャッターを押した。四十六歳になって始めたカメラ初心者の祐子は、シャッターチャンスがまだ身に付いていない。この目とこの肌でじっくりとその場を味わっていたいほうが勝る。フィルムに残すことよりも、いまここでの感触と感動をこころに刻みたい。そんな祐子が写真を学ぶ気になったのは、仕事帰りに書店で見た、一冊の写真集がきっかけだった。それは、十勝岳の麓を写したものだった。
 最初の頁を開いて目に飛び込んできたのは、丘陵に広がる初夏の麦畑の、鮮やかな緑の絨毯だった。背後の山から大自然の息吹を乗せた爽やかな風が、丘を越えて吹いてきたようだった。麦畑は、次の頁ではまぶしい黄金色に輝き、その上に真っ青な大空が広がる。頁をめくるたびになだらかな丘の重なりは姿を少しずつ変え、いつのまにか祐子は北海道のまんなかへと誘われていった。の下、丘の上に立ち、大きく息を吸う。澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。疲れていたからだの細胞の、一つひとつが生き返ってくる。
 独身の祐子は、十年ほど前から都心の総合病院に勤めていた。それまでは、郊外の小児医療センターで、心理士として、子どものプレイセラピーとその家族の面接を行っていた。いまは、外科のがん患者さんを担当することが多い。落ち着きを取り戻し、日常生活に戻ってゆく人もいれば、治療が功を奏せず、入退院を繰り返す人もいた。大きなショックがあると、否認、いかり、抑うつなどの段階を経て、現実の受容に至るというが、実際のところ、さまざまの段階を行きつ戻りつし、ときに、ひとつところに留まったまま、現実のみがどんどん進むことが多かった。おもいどおりにならない現実へのいかりが、心理士の祐子に向けられることもあった。祐子はひたすら耳を傾け、理解しようと努めた。
 やがて見開きの頁いっぱいに、一面を濃い紫に染めるラベンダー畑の光景が現れた。ラベンダーの甘く涼やかな香りが漂ってきそうだ。この半年あまり、祐子のこころにぽっかりと開き、持て余していたうつろな空白が、目の覚めるような色と香りのシャワーを浴びて埋められてゆく。
 写真ひとつでこんなおもいができるなんて。わたしも撮ってみたい、こんな写真。祐子はそうおもった。
「演出かもしれないね」
 誰かの小声が耳に入った。あまりに絵になる光景だったから。そうかもしれない。そうだとしても、この夜明けどきに、素人写真家らのために舟を漕ぎ出してくれた地元の人の好意が、ありがたかった。
 皆より一瞬遅れて水辺の幻想的なシーンを撮り終えると、祐子はまたぼんやりと遠方を見つめた。ここでこんな風に静かに夜明けを待っていることが、この世のことではないような、生まれる前の、こころの奥底に潜む原風景のなかにでもいるような、不思議な気持ちがした。
 山の稜線がさらに明るみ、ついに最初の陽の光が頂からすっと射した。日の出だ。
 祐子はカメラの露出を二度上げ、ファインダーに目を戻した。日の出の最初の一枚を撮る。これも皆よりも一瞬遅れて。
 ファインダーのなかでゆっくりと太陽が昇っていった。露出を変えながら、何枚か続けて撮った。
 山の上に太陽がすっかり姿を現すまでに、そう長くはかからなかった。あちこちでシャッター音が響く。水面に映る日の光が輝きを増し、あたりはすっかり明るくなった。
 祐子は三脚からカメラを外し、引き上げる支度をはじめた。もう遊歩道に出て、撮影機材を抱えて歩いている人もいる。少し遅れて、祐子もその列に加わった。
「日本海自然写真学校」と銘打った、新潟県での二泊三日の合宿に、全国から集まったカメラ愛好家は百名近くいた。シンポジウムやゼミでの講義のあいまに、さまざまの場所での撮影がある。その二日目の夜明けのことだった。
 南に連なる連峰の山々も太陽の光でくっきりと照らし出され、湖沼にまぶしい朝が来た。どの人の三脚もたたまれ、全員が足早にその場を引き上げる。
 マイクロバスは連なって、昨夜泊まった市の月岡温泉の宿へと向かった。昨夜は眠る前に、宿の湯にゆったりとつかった。エメラルドグリーンの硫黄泉は、肌からじんわりとしみこみ、その日の疲れも、普段の仕事疲れもとってくれた。効能通り、美人になった気がした。祐子は楽天的な単純さも持ち合わせていた。
 朝食のあとは、各コースに分かれ、宿の大部屋でゼミが行われた。初心者コースの一つに属していた祐子は、二十名の仲間とともに写真のこころと基本的なテクニックを学んだ。
 午後からは、再び撮影に出かけることになっていた。撮影機材を抱えて宿のエレベーターに乗ったときである。
「あのー」
 と、傍らから声が降ってきた。他に数人は乗っていたが、その声は祐子に向かっていた。
「はい」と応えて見上げると、背の高い青いシャツの青年が見下ろしていた。
「それね」と、祐子の三脚を指さす。
「え、これですか」と、祐子は三脚を持ち上げてみせた。
「ツ・マ・ヨ・ウ・ジって言われるかもしれないよ、先生に」
「え、爪楊枝」
「学長の先生は、その細い小さな三脚を、そう呼ぶんですよ。もっと頑丈なものにしないと、意味がないって」
「あら」と言った拍子に手元が緩み、三脚を落としそうになる。どぎまぎして次の言葉が出てこない。青年はその様子をにこやかに見ている。やがて、エレベーターのドアが開いた。
 一番軽くて簡単そうな三脚を買ってきたが、それは、プロの写真家から見れば、爪楊枝みたいなものだった。言われてみれば、確かにこれは室内用。少し風が吹くと簡単に揺らぎそうだ。ここで買い換えるわけにもいかず、祐子はその「爪楊枝」を持って撮影場所へと向かった。
 再び福島潟にやってくると、長い遊歩道を巡りながら写して歩いた。透明な水面には、遠くにそびえる山々がくっきりと映っている。カモの親子が遊び、アオサギが低く飛ぶ。薄桃色の高貴な花びらを茎高く競って咲かせている蓮の群生の前で圧倒されていると、「向こうのオニバス池にも行ってみたら」と、ゼミ仲間から声がかかった。さっそくそちらに向かう。オニバスは、巨大な葉のあいだから濃い紫の蕾を慎ましくほころばせていた。日本の水生植物のなかで一番大きな葉をつける、希少なスイレン科の植物だ。ヨシの生い茂る水辺では、カワセミやスズメの姿が見られた。
 祐子は場所を変えながら、その一つひとつをズームレンズで写していった。
 次に、連山を望む全景を撮ろうと、湖岸に建つ七階建ての水の駅「ビュー福島潟」の屋上に上った。屋上では、さらに高い展望台にその「爪楊枝」をすえた。
 今朝はあんなに晴れていたのに、次第に雲がかかってきた。雲のあいまから湖面に射す日の光もなかなか風情がある。そうおもいながら、祐子は広角レンズで風景を切り取った。眼下には、見渡す限り、ときが止まったように穏やかな水の公園が広がる。
 あの写真集のような、こころに残る一枚をここで撮ることができるたらいいな。一瞬にして人のこころを和ませる、大自然の不思議な力を感じさせる写真を。
 祐子のこころははずんでいた。
 やがて、空はさらにかき曇り、黒い雲が広がってきた。ぽつり、と雨粒が肩に落ちる。ぽつりは、じきにぽつりぽつりとなり、すぐに勢いを増した。
「早く早く」と肩を叩かれ、覗き込んでいたファインダーから目をはずすと、周囲にいたはずの大勢の仲間がもういない。カメラを取り外された三脚だけが数本立っている。三脚ごと抱えて展望台から降りた人も多かったようだ。祐子もそうすればよかったのに、カメラを取り外そうとネジを回した。あわてていて、なかなか外れない。そのあいだにも雨は激しさを増した。
 やっと取り外したカメラと、爪楊枝とはいえ、一メートル余りある伸ばしたままの三脚を抱え、急な階段を降りた。濡れた鉄製の階段では、足元が滑りそうだ。右手の一眼レフカメラも落としそうになる。左手の長い三脚の脚が邪魔で、踏み出しにくい。嵐の山頂に一人取り残されたような心細さで、必死に一歩一歩、降りていった。
 なんとか転げ落ちずに降りきると、やれやれ、とあたりを見回した。みんな涼しい顔をして空を見上げている。びしょ濡れは祐子だけだった。
「すぐにやむでしょう、この感じでは」
  声のほうを見ると、青いシャツの青年が立っていた。今朝のエレベーターのなかの人だ。さっき声をかけてくれたのもこの人なのだろう、同じ声だ。そうおもいながら、初めて祐子はゆっくりと青年を見上げた。鼻筋の通った目の細い小顔の青年は、背筋がすっと伸び、それでなくても長身で、ひときわ周囲の人より目立っていた。誰かに似ている。ああ、そうだ、学生時代の憧れの先輩だ。そういえば、声の質も似ている。低いあたたかい声をしている。あれから三十年近くも経つのだから、先輩も今ではもう腹の出た中年か。いや、山歩きの好きなあの人は、いまもそのスリムなからだであちこちを踏破していることだろう。それにしても、よく似ている。もしかしてその息子さんでは。
 一瞬、脳裏を過ぎった夢想をかき消すと、
「いろいろとありがとうございます」
 と、今朝のことも含めて頭を下げた。
 予想された通り、雨はすぐに止み、また青空が広がった。よくある夕立だった。
 夕方が近づくと、大型バスを仕立てて、のまで日本海の夕景を撮りに行った。
 どこまでも広がる水平線に落ちてゆく夕陽を、祐子は初めて目の当たりにした。夕陽がこんなにも大きいなんて。こんなにも妖しく燃えるなんて。その壮大さを、その朱の輝きを、浜に並んだ百名ものカメラマンがファインダーを通して見つめていた。
 夕陽は光のを曳きながら、ゆっくりと海に呑まれていった。 
 二度あることは三度ある。ここでもまたあの青年に出会わないものかとおもったが、夕闇のなかでは見つけようがない。それにこれだけの人数だ。
翌日も、三度目の出会いはないまま、祐子の初めての写真学校はおわった。

        二
 
 翌年は、春たけなわの四月末、一泊二日で撮影を中心に前回より少人数で開催された。阿賀北地方とその周辺のさくらを撮るという。雪の残る連山を遠景に、福島潟では菜の花畑の黄色が映え、では、旅立ちの遅れた数羽の白鳥が優雅に遊んでいた。どちらも岸辺のさくら並木は盛りを過ぎ、残った白い花びらを風にはらはらと散らしていた。
 のふもとにある、桜公園の花の多くは満開だった。広い敷地のなかに百種余りのさくらが植えられており、次々と長い期間、咲き続けるという。淡い緑色の花や黄色の花を咲かせる、珍しいさくらもある。緑色は、「」という名の八重咲きのさくらで、ときとともに花の中心にある紅い線が増し、散るころにはかなり赤くなるそうだ。黄色の花は、「のさくら」で、これも盛りを過ぎると赤みを帯びるという。こちらは御衣黄よりも大輪の八重咲きだ。花の詳細を記した立札がほうぼうに立っている。
 花の濃い色、淡い色、透きとおるような白い色、大きさも咲き方もまちまちの、さまざまのさくらが三百本以上も植えられていた。さくらにこんなに種類があるなんて。ソメイヨシノぐらいしかおもい浮かばない祐子は、驚き感心しながら、広い公園のなかを写して歩いた。
 林のなかの小道を抜けた先に、満開の大きな枝垂桜が、まるで薄紅色の粉雪を舞い散らしたかのごとく、枝を大きく広げていた。そこにカメラを向けていると、小さな子どもが二人、駆け寄ってきた。兄妹のようだ。兄のほうが、まだ四、五歳くらいの妹に、「ほらほら」と花を指さしている。
「そう、とってもきれいねえ、この花」
 祐子が二人に話しかけ、カメラのレンズを二人のほうに向けた。
 撮ってもいいかしら、というふうに祐子が首を傾げて微笑むと、二人はにこりと笑った。その瞬間を祐子のカメラがとらえた。幼い子どもに出会うと、つい話しかけてしまう。見知らぬ子どももすぐになついた。わたしも母親になることができていたら、あのとき結婚していたら、いや、いまからだって遅くはないか……、そんなおもいがふっと脳裏をかすめた。
 祐子とおしゃべりをはじめた子どもたちのあとから、若い両親がやってきた。四人はにぎやかに話しながら離れていった。
 この山の「桜樹林」には、変種も含めて四十種以上もの
野性のヤマザクラが群生しており、その数は一千本に上るそう
だ。樹齢百年を越す大樹も多い。学術的にもめずらしく、国の
天然記念物に指定されている。
 見上げると、うっそうと茂る森の緑のなかに、残雪のように連なったさくらの白さが浮き立っていた。薄紅色のさくらも見える。祐子は道の脇に三脚を立て、その一角を写した。三脚は前よりも頑丈なものを持って来た。
 しばらく歩いたところで、一本の大樹の、爛漫と咲くピンクの迫力に出会い、息を呑んだ。撮ることを忘れてしばし佇む。
 樹の真下まで歩いてゆくと、大きな幹に背を預け、内側から花を眺めてみた。春風に枝がそよぐと、大きく揺れる花と一緒に、祐子のこころも心地よく揺れた。
 花のヴェールの向こうに、明るく広がる外の世界が垣間見える。内側は薄暗く、空気もやわらかだ。まるで次元を違えた別世界だった。外から射す光が、花の色を帯びて妖しく艶めき、しっとりとした優しい香りに包まれている気がした。この感覚にまぶしいような懐かしさを覚え、祐子はまぶたを閉じた。
 人が愛し合った場所には、得も言われぬ美しい香りが残るというが、ここに充ちていたそのかぐわしさが、祐子にひとつのシーンをおもい出させた。
 それは五年ほど前のことだった。

「千鳥ヶ淵のさくらが満開ですってね」
 昨夜のニュースで中継されていたことをおもい出し、祐子はケース記録をまとめる手を休め、医局に残っていた賢一に言った。賢一は、大学から派遣されてきた若い医者で、近づいた学術集会の発表準備を遅くまでしていた。
 花見をする暇もないくらい忙しいという意味だったのに、
「ちょっと帰りに寄ってみませんか、ここからなら近いですし。付き合いますよ」
 と言う。年上の者への軽い社交辞令ととって、
「ものすごい人出ですよ。無理無理」といなした。
「この時間なら、そうでもないとおもいますが」
 祐子がちらりと時計を見やると、夜も九時を回っていた。
「そうね」と気のない返事をして、カルテに目を戻した。
「行きましょう」
 賢一はもう立ち上がっている。あらかた仕事は片付いていた。夜の散歩も悪くはないな、という気になった。
 着いてみると、夜ざくらを楽しむ人が帰りはじめたところだった。ライトアップされてひときわ華やいだ花のトンネルの下を、二人は肩を並べて歩いた。長い遊歩道を歩く人は、次第に少なくなった。
 花に酔ったのだろうか、仕事の疲れからだろうか、祐子の足元が少しふらついた。人気のない奥まった場所で、二人は立ち止まった。そこには一本の老木が立っていた。見上げると、いまにもすべての花びらが降ってくるかのように、頭上に咲き満ちていた。
 そのときだった。賢一が祐子のからだを引き寄せたのは。
 気がつくと、二人は一本の樹のように固く抱きあっていた。白い花びらを肩に降らせながら……。
 祐子の身のうちに熱い水流が響き、待ち望んだ人にやっとめぐり逢えたよろこびが、全身にみなぎった。ほのかに甘い清廉な香りが、霧のようにあたりに立ちこめた。不思議な世界に吸いこまれるような、いい匂いだった。祐子はその香りに包まれて、さらに溶けてゆく。これは夢だろうか……。
 そのときの賢一の腕のあたたかさ、自分の胸の鼓動の高鳴りが、祐子のこころにありありと浮かんだのだった。大峰山の、満開のさくらの樹の下での、同じ香りのなかで。
 それからというもの、職場では互いにさりげなくしていても、帰路に落ち合って、一緒に食事をするようになった。ときに、近くの瀟洒なホテルに泊まっていくこともあった。
 祐子は髪型を変え、ルージュの色を明るめにし、若いときの洋服を引っ張り出して着た。体型を意識し、毎朝のラジオ体操を欠かさず気合を込めて行なった。ジムに通う時間はないので、筋肉トレーニングも夜に自宅で励んだ。それでもウエストの合わないスカートは、ホックの位置をずらしゴムをかけて留めた。そこは上着で隠れる。白衣を着てしまえば、そこだけでなく、色の派手さも隠せた。病院の正門を入ってから医局までの三百歩が、二百歩になった。歩幅が広がり速度が増しただけでなく、スキップをしたい気分だった。背中が踊ってますね、なんて、後ろから来た事務職員にからかわれたこともあった。
 仕事中に胸ポケットの院内PHSが鳴りだし、その振動が乳房を刺激し、あっ、と小さく声を挙げたことがあった。短いが、もだえる声だった。賢一と付き合いはじめてから、肌が敏感になっていた。自分の声に驚き、おもわず祐子は顔を赤らめたが、面接中の男性患者は複雑なおもいを切々と語っていて、祐子の反応には気づかなかった。
 秋に、祐子と賢一は連れ立って信州へと小さな旅をした。行先は、林檎風呂で有名な、山あいの温泉宿だった。宿に着くと、さっそく二人は湯殿に向かった。早い到着で、まだ外は明るかった。
「じゃ、またあとで」と手を振って、祐子は女湯の暖簾をくぐった。
 湯殿には、誰もいなかった。
 湯に入ると、目の前に真っ赤な林檎がいくつも浮かんでいた。
「ひとつ、ふたあつ、みっつ……」
 祐子は林檎の数を数えてみた。大きいのや小さいの、色が濃いもの薄いもの、まだら模様のものも交じっている。五十個近くはあるだろうか。
 近くに浮かぶ小さな林檎をひとつ手に取り、軽く沈めてみた。手を放すと、林檎はさっと胸元まで上がってきた。
 もう一度、今度は膝のあたりまで沈めた。小さな赤いかたまりは、ゆらゆらと揺れながら上がってくる。その動きに、ふと、小児科病棟で一緒に遊んだ幼い女の子のことがおもい出された。
 ……あのとき、赤い風船をわたしがぽんと掌ではじくと、花柄のパジャマ姿でベッドに座っていたあどけない女の子が手を伸ばし、ぽんとはじき返してきた。わたしはまたベッドに向けてぽんとはじく。ぽん、ぽん、ぽん、ぽん……。狭い個室のなかで、赤い風船が行ったり来たり。わたしが受けそこなってあわてているのを見て、女の子がわらった。わたしもわらった。
 女の子は、ついこのあいだまで病棟のプレイルームに歩いて来ることができたのに、じきに車椅子となり、やがてベッドに座っているのが精いっぱいという状態となった。それでもわたしが訪れると、目を輝かせて一緒に遊んだ。からだを起こすことも腕を伸ばすこともできなくなると、わたしが宙に挙げる風船の動きを、横たわったまま目で追った。
 女の子は小児がんに侵されていた。医学が進んだ今なら治療の方法もまだあるのだが、二十年近くも前の話だ。それは死を意味する病だった。
付き添っていた母親は、廊下に出ると泣き崩れた。わたしは黙って彼女の背をさするしかなかった。わたしの頬にも涙がつたった。病室に戻る前に、わたしたちはその涙を完全にぬぐった……。
 今度は少し大きめの林檎を両手で包みこみ、顔に引き寄せてみた。甘酸っぱい香りがする。ああ、この香り。
 また別の記憶がよみがえる。
 ……外科病棟に入院していたあの方は、林檎が大好きだった。がんの転移が腹部にきて、とうとう好きな林檎も食べられなくなってしまった。口のなかで少し味わうだけなら、という主治医の許可を得て、わたしは赤い林檎を彼女の部屋に持ち込んだ。下ろし金で擦ると、甘酸っぱい香りが部屋中に漂った。
 早く早く、と目で促す彼女。「口に少し含むだけよ」と言いながら、わたしはスプーンで彼女の口元に運んだ。ざらついた粒の交じった甘い液体が彼女の口に注がれる。
 口に含むと、彼女は目を閉じてゆっくりと味わった。うなずきながら口元をほころばせ、次に大きく息を吸い込んだ。あのときの幸せそうな顔。そう、この香りだ、彼女を最期に微笑ませたのは……。
 湯のなかの林檎の一つひとつが、もう会えない患者さんたちの顔に見えてきた。
 愛する者を残して若くして世を去るのは、無念だったろう。まだまだやりたいことがあっただろうに。寄り添うわたしにいったい何ができるのだろう、できたのだろう……。
 やるせない夜、仕事帰りに東京湾の海を見に行ったことがあった。誰もいない浜辺に座り、波の音に慰められながら遠くを眺めていると、流れ星がひとつ、暗い水平線に落ちていった。
 翌朝、出勤してみると、ベッドのひとつが片づけられていた……。
 目の前に浮かんでいるたくさんの林檎を眺めながら、祐子はいつのまにか、ものおもいに耽っていた。
 がらりとドアが開き、幼い女の子が入ってきた。
「うわあ、林檎のお風呂だあ」
 明るい声が湯殿に響いた。続いて入ってきた若い母親のやわらかなからだの線が、脱衣場の電燈の薄明りを背に、ぼんやりと見えた。窓に目を移すと、外はすっかり日が暮れて、夜空になっていた。
 二人に軽く会釈をすると、祐子は湯からあがり、糊の効いた宿の浴衣を着て部屋へと戻った。
「遅いから心配したよ」
「ええ、少しいろんなことをおもい出していたものだから」
 部屋の電話が鳴り、夕食の用意が整ったことが告げられた。
「さあ、行きましょう」
 祐子は賢一の手を引いて部屋を出た。腕を引き寄せると、林檎の甘い香りがした。

 年が明けてまた春が近づいた。
 花の咲く前に、賢一は、実家のある京都の町の病院へと、移動していった。
 新幹線で二時間ほどの距離は、遠距恋愛の若者たちには短いものだが、四十路半ばともなると、ほとぼりを冷ますいい機会となる。しかし、ふいに思い出すと、祐子はむしょうに彼に会いたくなった。最終の新幹線に乗り、朝帰りすることもあった。仕事でせつないことがあると、特にそんな気持になった。
 賢一が京都に行って二度目の春が来て、夏が過ぎ、秋も終わりに近づいたある日のことである。祐子は〈元気ですか〉と、賢一にメールを打った。文面は、〈そちらに行きますから、久しぶりに一緒に飲みませんか〉と続けた。〈今度の週末あたりに〉と最後に書いて、送信した。
〈OK〉という返事が来るとおもっていた。が、意外な返事がすぐに来た。
〈披露宴があるので〉
〈誰の〉と打ち返すと、
〈僕の〉と、またすぐに返って来た。
〈おめでとう。で、二世誕生はいつ〉
 文面には祐子の表情までは映らない。どんな驚いた顔をしようが、それが落胆からであろうが安堵からであろうが、文字は淡々と綴られる。半分冗談のつもりで尋ねた質問に、
〈四月末〉という。あと五ヶ月か。祐子はおもわず指折っていた。
 用件だけの数分足らずのやりとりだった。祐子は半年ほど前のことをおもい出した。そうか、あのときのあれか……。

「近くに住む母親が、結婚をしろとうるさいんですよ。次々と見合いをさせられて」
「そのなかで気に入った人はいなかったの」
「そうでもないんだけど、親にあてがわれて結婚するのは、なんだか気が進まなくて」
「ふーん。じゃ、自分で見つけてくれば」
わたしがいるじゃない、と祐子は言いたかったが、ここは抑えた。その候補に最初から入ってはいない。
「おふくろもそう言うんです。じゃ、自分で探してこい、と」
「で、」
「言われて探すのもねえ。小さいときからずっとこうなんです。男の子らしくしなさい、のあとは、医者は男の仕事として一番だから医学部へ行けと言い、医者になると、今度は、長男なのだから親のいる京都に戻ってこい、と言う。で、いまは、結婚、結婚、結婚。それをしてこそ男として一人前だって、何度聞かされたことか」
「言われたとおりにするのはもういやなのね」
「もう、うんざりです」
「母親の言うとおりに結婚したら、最後まで女性の言いなりなるだらしない男ってことになるし、母親に反抗していつまでも結婚しないと、世間では一人前の男とみなされないっていうのなら、それはジレンマよねえ」
「そうなんです」
 母親の心配などどこ吹く風と、独身を貫いてきた人だとおもっていたが、どうやらそうではなさそうだ。
「強い母親に男らしさを要求され続けた男のつらさか……」
「だから、どうしたらいい」
 まるで母親に宿題の答えを尋ねるような訊き方だった。
「そうねえ」
 祐子は息子を助ける母親の心境になってきた。
「母親を出し抜いて、あっと言わせて大人になる方法ねえ」
 それを親しい年上の女から訊き出そうなんて。
「そうだ。『できちゃった婚』よ」祐子はふいに浮かんだ答えに手を叩き、「黙ってさっさと子どもを作ってしまえば」と続けた。
「でも、どんな人かもよくわからないうちに、子どもができてしまっても」
 賢一はまだ腕を組んだままだ。なるほど一理ある。だから、三十を過ぎても独り身なのだろう。
「旅行に連れ出せばいいのよ。最初のうちはちゃんと避妊して、相手の様子を見る。二、三日、一緒に過ごしてみて、旅の疲れも出てくれば、素性は現れるものよ。そうそういつまでもとりすましていられないもの。しっかり観察して、それでも相手が魅力を失わなかったら、避妊解除。もちろん相手も結婚願望があってのことだけど」
「おっ、それ、いいっすねえ」
 賢一がめずらしく若者言葉で応えた。坊ちゃん育ちの礼儀正しさから、賢一は誰に対しても、患者であれ親しい仲であれ、丁寧な言葉づかいで誠実に対応した。祐子はそこが気に入っていた。
「ビール、大ジョッキをもう一杯」
 通りすがりのボーイに祐子が注文した。開店早々に入ったビアホールは、そろそろ混みはじめていた。
「どう、あなたも、もう一杯。結婚の前祝いよ。おごるわよ」
 祐子は運ばれてきたビールをいっきに飲み干すと、母親の心境を解かれ、女の顔に戻った。目の前で、日焼けした青年の腕がゆっくりとジョッキを傾けていた。

 どうやら、その提案はすぐに実行されたようだ。
〈おめでとう〉もう一度そう打つべきだとはおもったが、携帯電話はすぐにバッグの底に仕舞った。大きな吐息が祐子の口から漏れた。彼の傍らに大きなお腹の若い女が座っているのを空想しただけで、いくつも急に年をとったような気がした。年の差は一回りだっけ、二回りだっけ……。
 もちろん、それからというもの、連絡を取ることはなかった。
 祐子の恋は、おわった。満開のさくらの樹の下での熱い抱擁から、三年近くが経っていた。
 こういう日が来ることは予想していたはずなのに、祐子のこころに穴があいた。会わない日が続いていても、会いたいときには会えるという気持ちがこころの支えになっていた。そのことにいまさらながら気づき、出るのはため息ばかりだった。空虚さは、仕事に没頭しているあいだは忘れていられても、仕事を終えると、また襲ってきた。帰りは出勤のとき以上に、とぼとぼと歩いた。正門までこんなに遠かったかしら……。
 年が明けてさくらの季節が来ると、あの日のことがおもい出され、淋しさはなおさら増した。浮き立つようなまぶしい日々は、もう戻ってはこない……。
 花の老木に宿るという、木の精の軽いいたずらだったのだろうか。その霊気に触れておもわず動いたその瞬間だけは、二人は真剣にこころを通わせた。祐子はそう信じている。

 この樹の下では、互いに長く愛し続けた二人がいたのだろう。優しい香りの不思議な美しさがいまも漂っている。
 連れ立ってやってきた初老の夫婦の低い話し声にわれに返ると、祐子は幹から離れて花のヴェールの外に出た。からだが少し上気していた。吹いてきたそよ風がさっと頬をつたい、祐子を現実に戻した。
 振り返ってもう一度、花を見上げ、このなかのひと枝をフィルムに残そうとおもった。樹から少し離れ、花びらに射す光の角度を見ながら、立つ位置を探った。位置が決まると、三脚を伸ばした。そのとき、
「あ、買い換えましたね」
 懐かしい声がして振り向くと、昨夏の青年が立っていた。
 三度目の出会いは、年を越えてからやってきた。
「やっぱり今回もいらしてたんですね」
 また会えるのでは、という期待が透けて見えるようなことばが口をついて出た。声は少し上ずり、はずんでいた。もう二度と恋はしないとこころに決めた祐子だったのに、いままた、異性に心をときめかすなんて。しかも、おそらくは二回り以上も離れた人に。
 青年はうなずくと、この前と同じように祐子の三脚を指さした。
「んー、それねえ」
「え、なにか」
「それは、ワ・リ・バ・シって言われるかな」
 
       三

 次に写真学校に参加したのは、翌々年の真冬の一月だった。
 正月明けの忙しいときではあったが、仕事よりも写真学校を優先した。これまでと同じように、新潟から線に乗り換え、駅に降り立つと、集まっていた大勢の仲間と一緒に、迎えのマイクロバスでシンポジウム会場の福島潟に向かった。
 このあたりに来ると、いつも祐子はふるさとに戻って来たような懐かしさを覚えた。
 新潟県北部のこのあたりは、白一色の世界となる。遠くシベリアの地より、二百キロの道のりをたくさんの渡り鳥がやってくる。
 今度こそ、と祐子は奮発してちょっと高価な本格的な三脚を持って来た。「ほら、これでいいでしょう」と言いたくて、周囲を何度も見回したが、かの青年は見当たらない。「ああ、今回は参加しなかったのかしら」と少し落胆して、白銀の世界を撮り続けた。
 雪の深さは数十センチもあり、スキーウエアに身を包んだ祐子は、膝までの長靴でずぼずぼと雪を踏み分けながら、立つ位置を探った。雪に差しこんだ三脚は、しっかりとカメラを支えていた。
 国の天然記念物のオオヒシクイの大群が、頭上高く冬の空に舞い、やがてふわりと雪の上に降り立った。祐子は夢中でシャッターを切った。
 新調したのは三脚だけではなく、手振れを防ぐためにシャッター用のレリーズも持って来た。腕の上達はわからないが、持ち物だけはほんの少しプロに近づいていた。
 宿泊は、今回は阿賀野市のにある、杉林に囲まれた宿だった。冬はことさら湯のあたたかみがありがたい。冷え切ったからだを湯船に沈めた瞬間、いっきに生き返った。回復しきれていなかった祐子のこころのほころびも、やわらかな湯に優しく包まれ、癒えていく気がした。雪景色を眺めながらの露天風呂では、あまりの心地よさに、うたた寝をしそうになる。
 翌日の午後のことだ。三脚にすえたカメラを前に空を仰いでいると、遠くから白鳥が二羽近づいて来るのが見えた。ファインダーを覗きながら、まんなかに来たらシャッターを押そう、と祐子は目を凝らして構えていた。
 今だ、とレリーズを押す。ビーー。え、タイマーがかかっていたの。どうしてどうして、とおもっているうちに、二羽の白鳥はファインダーから外へと出てしまった。カシャッとカメラが軽く音を立てたときは、ファインダーのなかには澄んだ青空だけが広がっていた。せっかくのシャッターチャンスを逃してしまうなんて。持ち物はそろえたものの、まだカメラは使いこなせていなかった。
 二羽の白鳥は、祐子のカメラのポジフィルムに姿を刻むことなく、そのまま飛び続け、去っていった。少し西ののほうへ向かったのだろう。そこは五千羽を越す白鳥が集まるという。シベリアより渡来するその数の多さで、瓢湖は国の指定文化財となっている。そちらに撮影に向かった仲間も多かったようだ。
 その夜は、地元の人たちが手料理で歓迎会を開いてくれることになっていた。六階の展望ホールに、夕景を撮り終えた全員が集まった。
 風景写真の第一人者である学長先生の乾杯の音頭と話にはじまり、ゼミの教授陣からもひとこと。対象を深く丁寧に見ることの大切さが説かれた。なるほど。どこの世界でも同じことが言える、と祐子は仕事の場をおもいながらうなずいた。
 地元の演芸も披露され、撮影グッズや地酒がもらえるくじ引きもあり、百名近い参加者のテンションは上がりっぱなしだった。目の前には、新鮮な魚の刺身、寿司、笹団子、鮭と野菜たっぷりののっぺい汁、海藻から作ったというエゴ練り……。こころのこもった郷土料理を肴に、キレのいい辛口の地酒が喉を潤す。左党の祐子は酒の味にはうるさいほうだったが、さすが米どころの新潟、試した酒はどれも祐子を大いに満足させた。
 餅つきもあった。でき上がった餅は手際よくちぎられ、丸められ、黄な粉や餡をからめ、卓上に並べられた。
 餅つきには写真学校の参加者も加わった。何でも体験したい祐子は、もちろんその有志の列に並んだ。すぐに順番が来た。
 昼間の長靴姿で腕を振り上げ懸命に餅をついていると、「おいしそうね」と言いながら、若い女性が近づいてきた。「そうだね」と、背後から相槌を打ったその声にはっとして、顔を挙げると、まぎれもなくあの青年だった。
 若い二人は餅の入った皿を手にすると、肩を並べて大勢の仲間のほうへと歩いていった。
「次は、秋の開催ですってね」
「紅葉がきれいだろうね。特に近くの大峰山の」
 二人の話し声に、祐子は、あの春の、さくら花の華やぎをおもい出した。秋になると木の葉が色づき、燃えるような紅葉の錦の重なるさまが目に浮かんだ。四百メートルほどの大峰山は、展望台まで遊歩道が続いており、秋にはまた違った装いで人々を魅了するのだろう。あの山の、秋の香りに包まれてみるのも悪くはないな、とおもった祐子の耳に、女性のはずんだ声が聞こえてきた。
「ぜひまた参加しましょうよ」
 応える青年の声までは聞こえなかった。おそらく、さっきと同じように、「そうだね」と、優しくうなずいたことだろう。
 この合宿で知り合った人なのだろうか。それとも、写真を趣味とする恋人を連れての参加だったのだろうか……。そんなことはどうでもいい。力をこめて祐子は餅をつく。地元のおじさんがそれをこねる。
「はい、交代」
 祐子の腰つきを見て、声がかかった。よたついたのは、餅をついた疲れからではなく、こころの動揺からだったなんて、誰も気づかない。

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