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第八回阿賀北ロマン賞受賞作②『青い夕焼け』 芳賀萌黄

 この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は芳賀萌黄さんが執筆された第8回阿賀北ロマン賞受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

 小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html」

『青い夕焼け』芳賀萌黄

 一体誰の呪いなのか。
ベッドの上で横になり、やり場のない憤然たる思いを持て余していた。病気かも知れないと疑うのが普通だろうが、寝起きの私はそうは考えなかった。あまりにも現実味がなくて、ならば非現実的で非科学的な事象に違いないと寝ぼけながら決め込む。雀たちの鳴き声と黒電話のアラーム音が重なり合って不協和音を生み出しているもんだから、現実逃避の二度寝もできやしない。うるさいな、もう。
少しして血圧が上がり思考が多少はっきりしてくると、自分の頭がおかしいか夢かのどちらかだと思えてきた。とりあえず何度か強く瞬きをして夢かどうかを確かめる。ついでに鳴りっぱなしだったお気に入りの目覚まし時計の後頭部をはたく。結果としてやかましいベルは止まったものの、起きたばかりの私が再び夢から目覚めることはなかった。
 だったら私の頭がおかしいのか。それにしちゃきっかけが思い当たらない。
内心首をひねるが、ともかく普段通り布団から這い出て、顔を洗った。朝食をとり、制服を着た。すっかりくたびれたスニーカーを履き、ドアを開く。
そうしてこの朝初めて真っ当に外を眺めた時、ようやく私は本当の意味で目を覚ました。ああ、なんだ現実じゃないか。閉じられた家の中だけじゃなく、果てしない宇宙まで繋がっているはずの空ですらこうして操られている。
新潟では珍しく晴々しい青空。けれど青いのは空だけではなかった。
この日から、私の目に映る全ての物は青一色のモノクロに染められている。

 目が覚めたら世界が青かった。
見慣れた通学路をひた歩きつつ、ううむと唸ってみる。我ながらなんとも詩的な表現ではないか。『雪国』の冒頭の一節のようだ。まあ、表現も何も事実なんだけれど。
辺りを見回して赤や黄色を探してみるが、本当に色彩というものが見当たらない。まるで海の底にでもいるかのように、ありとあらゆる物の輪郭線が瑠璃色になぞられている。青いサングラスでも掛けたらこんな風に見えるんだろうか。
何はともあれこの呪い、特に生活に支障がある訳ではなさそうだった。昔の白黒写真を青いインクにして印刷すればきっとこんな感じだろうとありもしない郷愁を感じて、むしろ私は少しだけこの状況を楽しんでいた。
 学校に着いてからも不便だと思うことはなかった。おはようと声を掛けてきたクラスメイトが幽霊のような色をしていたのでついうっかり吹き出してしまったくらいだ。黒板の字が見づらい、なんて問題は普段からノートをとっていない私には大して関係ない。ああ可笑しい、顔を上げる気にならないほど見飽きてしまった景色がこうも新鮮に感じられるとは。
 と、思っていられたのも午前中のうちまでである。
 何が「生活に支障はない」だ。朝の自分をそれこそ呪ってやりたくなる。昼休み、相変わらず青い顔の友人たちと食卓を囲んだ時に私はこの世界の最大の弊害を発見してしまった。
 お弁当が、真っ青。
 トマトとごぼうのサラダ、大好物のから揚げ、母特製だし巻き卵。もちろん米一粒一粒にも陰影はついているので、それらも全て青色だ。あまりと言えばあまりな光景に、思わず弁当の蓋をもう一度閉めて永久に封印しそうになってしまった。青とはこんなにも食欲を削ぐ色だったのか。アメリカ人は青色のケーキを食べると言うけれど、あれは嘘か新手のダイエット法に違いない。そうでなきゃこんなエイリアン専用みたいな食事に耐えられるものか。朝食をどうやって食べきったのか覚えていないが、恐らくあの時は自分も混乱していて無心だったんだろうと思う。この視界に慣れてしまった今では、目の前にあるものを冷静に見られてしまうのだ。
「どうしたの? なんか顔色悪いけど」
「……大丈夫、なんでもない」
私より遥かに顔色が悪く見える友人たちに不自然さを気取られないよう、こっそり目を瞑って食べることにした。不思議なことに色が単色だと味まで足りなくなった気がして、朝早くから作ってくれた母に心の中で詫びながら半分以上を残した。
エネルギー摂取とは名ばかりで、昼休みが終わる頃には朝のような陽気な気分はすっかり萎んでいた。食事で精神的体力をあらかた使い切って滅入っている私を、更にげんなりさせる予定が午後に控えている。
何故こんな日に限って美術の授業があるのか。
サボるくらいのことは簡単だ。こんな突拍子もない呪いがかかるくらいには日頃の行いが悪い生徒である。それでも真面目に美術室へ向かったのは、〝青しか見えない〟ことをまだ楽しめるだろうと思ったからだ。絵の具はどう見えるのか? 青以外が見えなくても色は作れるか? もしかしたら今日一日限りの呪いかも知れない。存分に楽しまなきゃ損だ。
 今日のお題は模写だった。スケッチは先週に終わらせているので、幸か不幸か彩色から始めなければならない。
 やはり絵の具の扱いは難しかった。始めは色の名前を読んでそれを適量混ぜることで色を作った。レモン、セルリアンブルー、ディープグリーン。この辺は何となくわかる。バイオレット、ビリジアン、ヴァーミリオン。なんのこっちゃ。
聞き覚えはあるけれどはっきり覚えていない色には触れないことにして、足りない色は「緑、無くなったから貸して」といった具合に友人に借りた。色によって僅かに青の濃さが違い、それを頼りに混ざり具合を確認する。顔を近付けたり離したりと、なんだかプロにでもなった気分で少し得意になった。屋上で寝るのもそれはそれで楽しいが、こういう風に熱中できることは鬱屈した気分を忘れさせてくれる。
 ガシガシとひたすらに色を作っていく私の背後から、美術科教師の平松先生が覗き込んでくる。
「何やってるの結城さん。遊んでないで進めて」
 その一言に手が止まった。そうか、これは遊んでるようにしか見えないのか。
 突然横隔膜のあたりに向かって虚脱感が雪崩れ落ちてきた。当たり前のことだが、私がどれだけ必死に色を練り出そうが作品を塗り始めない限り私の行動は何処まで行ってもお遊びらしい。平松先生は何も悪くない。が、私は今抱えている感情全てを彼女に投げ出したくなった。徒労、疲弊、脱力、そういった下らないもの全部。例えるなら勉強をしようとしていた時に「勉強しなさい」と言われた時のような理不尽な苛立ち。
 つまり私は、ヤケクソという言葉を体で表現することにしたのだ。
「わかりました」
吐き捨てるように言うと、私は手元にあった絵の具の蓋をねじり取り、無防備に開かれたチューブの口を描きあげてきた絵に向かって叩きつけるように振り回した。ぶちゅ、と容器から力任せに引き出された空気が間抜けな音を立てる。それが私の奇行を眺めている周りの間抜け面にぴったり似合っていて、つい口の端を歪ませてしまった。絵の具は画用紙の左上のところに固まって張り付いているだけで少し物足りなかったので、私は更に《改良》を加えるために右手を振りかざした。我に返った先生が止めに入ろうと手を伸ばした辺りで私の掌は絵の具を思い切り叩き潰して吹き飛ばした。全てがスローモーションに見えるようだった。撒き散らされて辺りに浮遊している青いヴァーミリオンをゆっくりと眺め、その一滴が喉の奥に飛び込んだために、私は真っ青なヘドロを口から……まあ要するに、もどした。

ミルクティーの甘い香りが鼻腔をくすぐり、空腹だった私はすぐ目を覚ました。自分が周りをカーテンで仕切られたベッドに寝かされていることを確認し、そのひだのあちら側に向かって先生、と声をかける。
「あら、目え覚めたの。元気?」
 養護教諭の内海先生がカーテンの端を引いて端整な顔立ちを覗かせたので、苦笑いを返す。さっき吐いたばかりで元気な訳がない。昼食を半分しか食べていないのにそのなけなしの栄養源すら排出されてしまったから、頭痛と空腹でふらふらだ。
「制服、洗っといたからね。アクリル絵の具だったから落とすの大変だったのよー」
 そう言われて初めて、自分が体操服を着ていることに気付いた。見覚えのない名前が縫いこまれていたので保健室に常備されているものだろう。相当派手にやらかしたことが容易に想像できた。絶句している平松先生の顔を思い出し、ちょっとふざけすぎたと反省する。今度吐く時はエプロンでも着けてね、と内海先生がからかった。
 差し出されたミルクティーを両手で包み込み、色をあまり見ないようにして啜る。温かい。胃液で焼けた喉にしみる。
「それ飲んだら、どうして制服にあんな大惨事が起きたのか説明してもらうからね」
 口を付けた後に言うのはルール違反な気がするのだが。
「別に、作品に絵の具をぶちまけただけです」
「ありゃ。なんでそんなこと?」
「新しい芸術のインスピレーションを感じ取って」
 あっはっは、というからりとした笑い声が二人きりの保健室に響いた。
「芸術ね! それじゃしょうがない」
 おしとやかな外見とは裏腹に男らしく膝を打って、先生は席を立った。つられてカーテンを引くと窓からいっそう色濃い光が差し込んでいた。相変わらず青くはあるが美しい斜陽だ。時計はすでに六時を示している。
「……私、帰ります」
 清潔で落ち着かないベッドから降り、かかとを履き潰した上靴をつっかける。綺麗に乾いた制服に着替えながら何となしに休憩所になっているテーブルを見やると、ふと横のラックに目が留まった。絵や写真がふんだんに使われた児童書の中に、色彩感覚の異常に関する学習本が挟まっていたのだ。『目と色のふしぎ』。中学生はもうこんなもの読まないだろうと保健室に来る度思っていたが、少なくとも今の私には興味深く感じられた。恐らくカラフルに彩られているのだろう艶のある紙を捲りながら帰り支度をする内海先生の背中に声を投げた。
「先生、ちょっと訊いてもいいですか」
「何ー?」
 ガサゴソと尻を向けたまま返事をする先生に、何と言って質問すべきか一瞬迷う。悟られると面倒だ。
「物が一つの色でしか見えなくなることって、ありますか」
内海先生は手を止めなかったが、何か考えているのかしばらく黙っていた。
「そうねえ。緑と赤を見間違えるとかはよく聞くけど、一色ってのは珍しいんじゃない? 私はあんまり詳しくないけど」
 顔を上げてこちらを見た先生が私の手元の学習本を見て、なるほどそれか、と呟くのが聞こえた。私は本をラックに戻すと先生にお礼を言ってさっさと保健室を出ていった。
 内海先生の言ったことは本に書いてあったことと大差なかった。あれ以上話を続けても私の方が根掘り葉掘り尋ねられただけだったろう。多分彼女は私がどんな悩みを抱えているのか探ろうとしている。あくまでも自然に、こちらから相談をしたくなるような気分にさせるのだ。スクールカウンセラーより生徒の悩みを聞く機会の多い立場だ、頼られるのも仕方ない。担任と美術科教師がしおしおとへたれた顔で内海先生に頼み込んでいるのを想像して、帰路を歩きながら笑った。自分が精神異常者のようにとられた、といった怒りや苛立ちはない。自分でもおかしいとは思っていたのだ。どうして私は信じられない状況でこんなに冷静なのか。
 きっと普通の人なら取り乱すものなのだろう。目がおかしくなったと病院に駆け込んで、それでも正体がわからなかったならノイローゼになってしまうかも知れない。だって色がわからないんだ。今日私が体験した通り、人間が生きていくのに色彩はこんなにも必要なものだった。それなのに何故私は平気でいられるのだろう。
保健室で読んだ児童向けの学習本を思い返す。生まれながらに特定の色が区別できないとか二原色でしか見えないとかいう人はいるらしいが、ある日突然全てが青にしか見えなくなるなんて有り得るのだろうか。
「あ」
 なんとなく感じていた肩にかかる違和感の正体に気付き足を止める。妙に鞄が軽いと思ったら、そうだ。図書室で借りた読みかけの小説を忘れたのだ。分厚いハードカバーで重さも結構あるから気付くことができた。最近はどこへ行くにも連れて行っているというのに、一体どこに置き忘れたやら。考え事をしながら歩いたせいでいつの間にか遠ざかっていた校舎を振り返り、唸るように溜息を吐き出した。探すのは明日になってからでもいい。そう考えもしたが、さっきまで頭にもなかったのに思い出した途端話の先が気になり始めた。私は少しだけその場でたたらを踏み、再度溜息をついて来た道を戻った。
 教室の机の中には無かった。今日行った場所を一つひとつ思い返す。小説を取り出した瞬間の記憶を細部に亘るまで繰り返し再生し続けた。ふっと絵の具を叩きつけた感触を思い出す。
 美術室だ。
 授業の前振りが長く、いつも机の下に隠して読んでいた。保健室には置いていなかったから、私と鞄を運んでくれた人は気付かなかったのだろう。今の時間なら美術部の活動もとっくに終わっているし、美術部顧問でもある平松先生は部活が終わるとすぐ帰るらしいので、鉢合わせて気まずくなることもない。私は冷えた階段を上がっていった。
 美術室は三階にある。思ったよりも手間が掛かってしまったことにほんの少し後悔を覚えながら開けっぱなしの美術室を覗き込み、ぎくりと足を止めた。
 驚いたことに、先客がいた。
美術部員がまだ残っていたのだろうか。ズボン姿でなければ女子かと見紛ってしまうほど華奢な人影だった。人影は乾燥棚の前で静かに手元の絵を見つめていた。
一体誰なんだろう。
 入り口に突っ立ったまま細身の背中に見入っていると、それは突然こちらを振り向いた。暗闇の中でも目が合ったのがわかり、思わず身を引いてしまう。
「……結城さん?」
 また驚きだ。向こうはこちらの顔と名前を知っているらしい。人影は見つかっても慌てたり戸惑ったりすることはなく、変わらず静かにこっちを見ている。声を聞いた限りでは会話を交わしたことはないような気がするが、私が忘れているだけだったら失礼だ。兎にも角にもはっきり相手を確認するために私は美術室の中に踏み込んだ。
二メートルほどの距離に近付いてもしばらく相手の顔を思い出すことができなかった。小柄な体に相応しく、中性的な顔立ちをしている。大人しそうというか、はっきり言ってしまえば地味で根暗そうな雰囲気の見た目だ。
そこまで考えてようやくそのイメージに合った立ち位置の人間が一人浮かんだ。確か二年生の途中で転校してきた男子がいたはずだ。全校の前で挨拶をした時にも女の子みたいな顔だなと思った記憶がある。クラスが違ったし彼が積極的な性格ではなかったから一時の噂話のネタにされただけですぐ名前を聞かなくなった。もちろんほとんど関わったことはない。
確か苗字は、
「佐野君……だっけ?」
「うん」
人影は頷く。
続けて吸った息のやり場に困った。何を話せばいいのかわからず、そもそも話す必要があるのかもわからない。何も言えずに口を開けたまま黙った私がつまらない世間話を始める前に、彼の方から話し掛けてきた。
「これ、結城さんの絵だよね」
 差し出されたのは彼が今まで眺めていた絵。確かに私の絵である。本日独創的な手形を付けられた哀れな静物画ではなく、以前に私が授業で完成させた作品だ。宇宙空間に一人、赤い服を着た少女が膝を抱えて小さな天体に座り込んでいる。深い紺色と少女の服の色のコントラストがうまくいって自分の中でも満足できる出来だったが、今はそれこそ青一色の明暗しかわからなくなってしまった。なくしたと思っていたのに何故この絵を彼が持っているのだろう。
私の表情で言いたいことがわかったらしく、佐野君は申し訳なさそうに言った。
「ごめん、ずいぶん前にここに忘れられてて……棚に置きっぱなしにしてたんだ」
 渡しにいけばよかったんだけどその時は誰のかわからなくて、と彼はうつむく。いや、それはむしろ有難いのだが、疑問なのは何故今その絵を見ていたのかということだ。まるで私が来るのを待っていたようではないか。
 関わりがないだけにいぶかしむ私に、彼は小さく唾を飲み込んで顔を上げた。
「結城さん、今日昼に吐いたでしょ?」
 思わずごほ、とむせる。「吐いたでしょ」ときたもんだ。
「……もう少しデリカシーってものに気を遣ったほうがいいよ」
「ご、ごめん」
 ただでさえ小柄なのに更に身を縮める彼のことを見ていたら疑っていたのが馬鹿らしくなってしまった。彼は多分、悪い奴じゃない。変な奴ではあるかも知れないが。まあ変なのはお互い様だと私は軽く笑いかけて先を促した。
「……その時ちょうど水道場にいたから、雑巾の用意とバケツに水汲むように頼まれた。それ持ってった時に絵が見えて。こう……赤い絵の具が、ばんって」
 ばん、と言いながら彼は片手を空に叩きつけるように振った。どうやら今日一番の芸術作品のことを言っているようだ。完全に通りすがりの彼にまで迷惑をかけていたとは、なんとも面目ない。しかしそうか、ヴァーミリオンは赤だったのか。
「あれ見てこの絵のこと思い出して。下書きのタッチが同じだったから……部活の後に探して、見てた」
 他人と喋るのが苦手そうな、ぶつ切りの言葉を聞いて納得した。これがファーストコンタクトだと思っていたが、不思議なところで間接的に関わっていたのだ。彼が見ていた自分の絵に目を落とす。
「あの、なんで宇宙を描こうと思ったの?」
 なんで、と言われても困ってしまう。確かその時読んでいた本か何かに影響を受けたからだったと思うが。
「俺、宇宙とか星とか好きなんだ。ロマンがあるっていうかさ、なんか引き込まれちゃうんだよ。星も色とか凄い綺麗だし。かに星雲って知ってる? おうし座にある星雲で、青白いもやが光ってるんだ。こう、爆発の瞬間みたいな」
 無口な転校生の裏の顔は意外なことにロマンチストだったようだ。好きなことの話になると饒舌になるタイプのようで、目をきらきらさせて星雲とやらの美しさを一生懸命説明し始めた。呆れたが少しかわいく見える。
「結城さんのこの絵も、本当の宇宙みたいな色してて綺麗だよ。吸い込まれるみたいだ」
 喋りすぎた照れ隠しだろうが、彼に褒められて悪い気はしない。以前聞いた噂では、彼は絵を描くのが相当上手いようで美術科教師を軒並み呻らせたらしい。
「お世辞言っても何も出ないよ。じゃあ、私この本取りに来ただけだし帰るね」
 自分の席の机を探って案の定置き去りにされていた小説を取り出し、佐野君に背を向けた。外はいつの間にか暗くなっていて、早く帰らねばという焦燥を抱かせる。自然と速くなる足を引き留めたのはまたしても彼だった。
「あのさ、その絵……貰ってもいいかな」
 私は突然おかしなことを言い出した転校生を振り向くと、一瞬だけ考えて近くにあった椅子の上に画用紙を投げた。別に今まで無くても困らなかったのだから構わない。今はとっとと家に帰って寝たい気分だった。
廊下を駆け出した視界の端で彼が絵を手に取るのが見えた。
 無事帰宅したのち、夕食と入浴を済ませるとすぐ布団に足を投げ出した。せっかく持って帰ってきたのだからとハードカバーの表紙を開いてみたがほとんど読み進めることができなかった。明日には呪いも解けて佐野君の顔をちゃんと見ることができるだろうか。薄もやがかかっていく頭の隅の方で、彼のきらきらした瞳が星のように瞬いた。
その晩私は、吸い込まれそうな暗い宇宙に独りで座っている夢を見る。

青ざめた文字の羅列から意識を遠ざけて、本棚の陰から見覚えのある小柄な人影を目で追った。
図書室はサボるのに絶好の場所だ。授業中にこんなところへやってくるのは常習犯の私くらいである。だから真面目そうな彼でなくても誰かがやってくるだけで意外な気分だった。授業で調べ物でもあったんだろうか。彼はしばらく何か探すように棚の周りをうろついてから一冊の図鑑を手にして席に着いた。俄然興味が湧く。
「何読んでるの?」
 私に気付いていない様子だったから驚くかと思ったら、彼は昨日と同じように落ち着いて顔を上げた。その余裕のある表情が何とも癪に障る。私はわざとらしくにっと歯を剥き出して彼の向かい側の椅子を引いた。
彼の返事を聞かずとも何の本を読んでいるのかは一目瞭然だった。天体、つまり星の図鑑だ。その脇に置かれている紙が彼にあげてしまった私の絵だと気付き、何となく彼のやろうとしていることがわかった気がした。つい大きく息を吐く。
「あのね、その星は私が勝手に想像して作ったもんなの。いくら図鑑で探したって見付かんないよ」
「あ……そうなんだ」
 もし私の予想が外れていたら皮肉と捉えてもらってもいいくらいの気持ちで言ったのに、彼が素直に頭を掻いているのを見て何だか気が抜けてしまった。本当に絵の中の星を調べようとしていたとは。天体に詳しい彼が昨日の晩あれでもないこれでもないと自室の図鑑を引っ掻き回しているところを思い浮かべて可笑しくなった。
「なんで私が考えたものって発想がなかったのかな」
「……ううん、俺模写とかは得意だけど想像して描くの苦手だから……」
 また意外な一面だ。ロマンチストかと思ったら写実主義者だったとは。
「結城さんは凄いよ。頭の中で星が一個作れちゃうんだもんなあ」
 どうやら馬鹿にしているのではないようだ。この二日で脳内にある佐野君のイメージがずいぶん変わった。やはり人間というものは関わってみなければ面白くない。私は、せっかく彼に選び出してもらったのに無粋な闖入者のせいで用無しにされてしまった図鑑に目をやった。戯れに開いてみれば彼の目がカブトムシを手に入れた少年のような輝きを発し出す。
「これ、これがかに星雲。ね、綺麗でしょ?」
 これはアンドロメダ星雲、これは銀河群、これは太陽系のどこそこの星の衛星で、と訊きもしないのにあちこち指差す。趣味の話し相手を見付けて喜んでいる彼には悪いが、正直興味は全くない。それにいくら彼が宇宙の神秘的な美しさについて語ろうとも私には色がわからないのだ。彼がその細い指で示していく写真全て。
「……青いなあ」
 ぽつりと独り言のように呟くと、向かいで喋り続けていた彼がぱっと顔を上げて嬉しそうに答えた。
「この写真のこと?」
 彼が差し出したページには、弧を描いた地平線の向こうに沈んでいく夕日が写っていた。保健室で見た黄昏を思い出す。
「火星の夕焼けだよ。地球と違って大気が薄いから昼間が赤くて夕方に青く見えるんだ」
 太陽光の散乱だの大気中の微粒子だのと彼の説明するメカニズムはよくわからなかったが、不思議とその写真を見ていると気分が落ち着いた。視界を埋め尽くす青色と、その火星の空は全く違う色に見える気がしたのだ。
「子供の頃にこの写真を見て凄くびっくりしたよ。自分の中の常識がバリンって割れた気がした。それから毎日火星について調べて、今じゃすっかり宇宙のとりこ」
 レンズ一枚を隔てただけの青い夕日を見つめながら、今にも溜息が零れ出そうな表情で彼は微笑んだ。その顔があんまり綺麗だったものだから、私の中で嫉妬にも似た羨望の感情が疼いた。この呪い以上に彼の見ている世界は私と違う。
「じゃあ、将来の夢は宇宙飛行士だったり?」
 私の何気ない質問に彼はふっと笑みを引っ込め、ちょっと黙ってから困ったように言った。
「なりたかったんだけど……俺、見ての通り体が強いほうじゃないんだ。だから中学に入って諦めた」
 アレルギーもあらかた抱えてるし、と苦笑する。きっと言うほど簡単に諦められた訳じゃないだろう。
「でも星は好きだし宇宙のこととかずっと関わってたいから、NASAの研究員を目指してる。いつか宇宙飛行士じゃなくたって誰でも火星に行けるようになったら、自分の目でこの夕日を見たいんだ」
 自分から話を振った癖をして私はもう彼の話をまともに聞くことができなかった。中学生でそこまではっきりした目標を持っている人間の方が珍しいのに、無気力に流されて生きている私には彼の姿はあまりにも眩しすぎた。
「……いいね。私も連れてってよ、火星」
「うん。ちゃんとした約束はできないけど、できればね」
 彼が頷くとタイミングよくチャイムが鳴り響いた。授業をすっぽかした不真面目な生徒二人は顔を見合わせて笑う。
「それにしても佐野君もサボることあるなんて思わなかったなあ。なんで休み時間じゃなく今調べに来たわけ?」
「休み時間だと人が多くて、俺が結城さんの絵を持ってるのがばれるかなって。変な噂立ったら嫌だろ」
 私はとうとう声を上げて笑ってしまった。そんな細やかな気遣いのために優先順位から外された先生はずいぶん可哀想だ。
 それからも私と彼は時々図書室で話すようになった。

 電車の窓から見える阿賀野川は新鮮で、変わらず美しい。最近は街に出るような用事がほとんどなかったので久しぶりに左岸に渡ることになる。友人とならまだしも男の子と出掛けるなんていいご身分の受験生だ、と自分自身を嗤った。
「うん、これはデートと言って差し支えないよね?」
「あるよ……」
 隣に座る連れの少年は照れを通り越して半ば投げやりになっている。彼の反応が面白かったのでついついからかいすぎてしまった。決まり悪そうな様子に免じて黙る代わりに、にっと笑ってみせた。《ごめんね》が伝わったかは定かでない。
 事の発端は佐野君といつものように宇宙談義をしていて話題が星座の話に移った時だった。プラネタリウムがある科学館によく行くと彼が言ったので、毎日彼の話を聞いて感化されていた私は、ならば行ってみようと週末にお誘いをかけたのだ。もちろん内気な彼が乗り気のはずがない。それでも私は彼と行きたかった。彼の見る世界を少しでも共有したかったからだ。未だにその気持ちが嫉妬なのか羨望なのか掴めないでいる。
 新潟駅からバスに乗り換えて目的地に向かう。普段通らない道を行くと違う街に見えるのが不思議だった。科学館に近付くにつれ、自分が高揚していることに気付く。まるで幼い頃初めて遠出した時のような気分になって窓に顔を寄せた。
 入館料の二百円を支払って受付を過ぎると、科学館の中はひんやりと冷えていた。
「プラネタリウム始まっちゃったって」
 少し遅れて入館した彼が駆け寄ってくる。次の上映時間までの一時間、彼の案内で館内を見て回ることになった。来る前は渋っていた彼だが、幼い頃から入り浸っているという言葉に違わず展示物や体験コーナーの説明をする時にはもう、あの少年の瞳をしていた。彼の弁舌にますます磨きがかかってきたあたりで私の方が疲れてしまい、ロスタイムを要求した。
 ぷはあ、と爽快感が音を立てて喉を通っていく。おごるおごらないの一悶着も落ち着き、佐野君はペットボトルの麦茶、私は青い視界でも通常と遜色のないスポーツドリンクを片手にソファで足を休めていた。
「いやー、星雲ってガスの固まりだったんだね! こういうのなんて言うんだっけ、〈バラには綺麗な毒がある〉?」
「〈綺麗なバラには棘がある〉、ね。それにガスって言っても全部が毒ガスじゃないよ」
何だよ綺麗な毒って、と彼は呆れたように言う。授業をサボってばかりいた影響がここに来て出てきたか。
「こういうとこ初めて来たけど、結構楽しいもんだね」
「……結城さんが楽しいなら良かったけど」
 彼は今になってようやく冷静に自分を省みたようで、恥ずかしそうに目を逸らした。それが可笑しくて嬉しくて、にっと歯を見せて笑う。つい余計なことを口走ってしまったのに気付いたのは手遅れになってからだった。
「全然面白いよ、色なんかわかんなくても」
「え、」
 右側から混乱しているような呟きが聞こえたところで私は自分がミスを犯したことを理解した。いつかやらかすと危惧はしていたが、どうやら私は本当に自分で思っている以上に浮かれていたようだ。ちらりと隣を窺うと、いつも落ち着き払っている彼が初めて目を丸くしていた。それが懐疑に満ちた愕然とした表情に変わった時、観念した。もう隠し切れない。
「えっと、言ってなかったけど。一ヶ月前くらいから周りの物が青色でしか見えないんだよね」
 淡々と告げながら、そもそも隠すようなことではなかったかも知れないと考えた。きっと彼なら色が見えようが見えなかろうが変わらず接してくれるだろう。うん、そうに違いない。そんな都合のいい話になるはずがないのに、甘っちょろい私はそれが逃避だとも思わずに信じきった。
「……病院には行ったの?」
 彼の言葉に笑って返す。
「色々調べてみたんだけど、突然一色で見えるようになるのって前例が無いみたい。病院に行ったってどうにもなんないよ」
「どうにもなんなくない!」
 広い館内に佐野君の声が響き渡った。彼がこんな大声を出すのを聞いたのも全く初めてのことで、私は面食らった。
「前例がないって、もしかしたら発見されてない病気かも知れないじゃないか。なんでそんな、平気そうにしてるんだよ。すぐ調べに行かないと、今からでも……」
「やめてよ、ホントそんなんじゃないんだって。今は保険証持ってないし」
「でも、」
「いいって!」
 口に出した後で失敗した、と思った。私まで何を大声を出してるんだ、らしくもない。
「……」
彼が口を閉ざしてしまったので気まずい沈黙が二人に挟まれた数十センチの間を漂う。やっぱりこの目は病気などではなく呪いだ。せっかく仲良くなれたっていうのに。
 時計の針は三時半に迫っていた。プラネタリウムの上映時間を告げる館内放送が静寂を破った。

ドーム内は子供連れがまばらにいるくらいで、思ったより席が空いている。私たちは無言を貫いたまま隣り合った椅子に座った。本当に馬鹿な話だが、一つでも離れて座られていたら私は二度と彼と話すことができなかっただろうと思う。
 背もたれを倒すとアナウンスと共に照明が落ちていき、沈むように闇が訪れる。
 濃紺の夜空に青白い光が浮かび上がって静かに物語が始まった。明るい時は天井が見えていたのに突然遥か彼方へ空が遠ざかったような気がして、宇宙に投げ出されたような錯覚を覚える。〈吸い込まれるみたいだ〉という彼の言葉がそのまま実感に変わった瞬間だった。一つひとつ星を見つめているうちに、私は己の中で荒ぶっていた波がすっと凪ぐのを感じた。ここでは全てが青色でも何もおかしくはない。私はこのままでいいのだ。そう思うとずいぶん気が楽になった。
無重力に身を任せて揺蕩う意識は段々と現実から離れていく。ずっと前に見た夢の、独りぼっちで膝を抱えていた孤独を思い出して目を閉じた。瞼の向こうで見覚えのある赤い服を着た女の子が泣いている。あれは私だ。あの絵を描いた時、私は自分自身を彼女に投影していた。目に映る瞬きは数えきれないほどだというのにその距離は限りなく遠く、それが私には無意味に感じられていたんだろう。
 でも今は違う。すぐ隣で、私と違う呼吸を刻む誰かがいるのだ。そのことにひどく安堵している自分に気付いて、満天の星空を見上げながら口を綻ばせた。

 帰りの電車は少し混んでいて、私たちは自然と離れて座ることになった。一度だけ振り向いた阿賀野川は昼間とまた違った美しさをその水面に湛えて輝いていた。水は海に還り、私たちは私たちの居場所に帰っていく。
 新発田駅に着いた時には、もう日は落ちかけていた。今ではすっかり見慣れた青い西日に背を向けて自宅のある方を眺め、後ろにいる佐野君に何といって別れようかと迷っていた。黙っていると、小さな声が「送るよ」と言った。いいよ、と断っても彼はもう一度同じ言葉を繰り返すだけだった。
 徐々に傾いていく夕日が頬に当たるのを感じながら、私と根暗な転校生はひたすら黙々と歩いていく。一歩踏み出すごとに青く影の落ちる地面を見つめていた私は、不意に口を開いた。
「おばあちゃんが死んだんだ」
私の唐突な言葉に彼はどう反応したらいいのかわからない様子で顔を上げる。
「三年も前だよ。もう悲しいとか……いや、悲しいけど、もう平気。それで、私そのおばあちゃんが大好きだったんだよ。でも具合が悪くなって入院して、いざ亡くなるって時に……私、トイレに行きたくなったの」
 絶句しながら、彼はよりいっそう言葉が見付からなさそうな複雑な顔をしていた。それが少し面白くて笑みを零す。
「帰ってきた時、もう死んじゃってた。その時はわんわん泣いたし凄く後悔したけど、後からよく考えてみたら可笑しくて可笑しくて。笑っちゃうよね、トイレ行ってて死に目に会えませんでした、なんて」
 あの時私は何としてでもあの場に残っているべきだったんだろうか。でも、年頃の少女に人前で粗相をするかも知れないような無茶はできなかったろう。親ならまだしも祖母なら尚更。
「その時思ったんだ。世の中のことには全部、優先順位が付いてるって。私は自分のプライドの為におばあちゃんを切り捨てられた。だから同じように他の何かの為に色を捨てたんだと思う」
 どうして青色だけ残っているのかはわからないけど、と勝手な憶測を締めくくる。私の考えたことが事実かどうかはどうでもいいのだ。彼の言うように全人類に一人の確率で発症する病気かもしれないし、私が恨みを買った誰かの呪いによるものかも知れない。ただ変わらないことは、色を失うことで得たものがあるということだった。
「俺は……結城さんの言ってること、間違ってるかなんてわかんない、けど」
 佐野君は立ち止まって初めて喋った頃のように口をまごつかせた。唇を薄く噛み、絞り出すように呟く。
「俺、結城さんの絵がもっと見たいよ。だから色が必要ないなんて言うなよ」
 やさしい言葉だった。優しい彼はそれでもまだ言うべきことを探していたから、もう充分だと伝える為に私は歯を見せて笑った。いや、本当は嬉しかったからだ。もしこの世界が本当に取捨選択だけで成り立っているというなら、私はこの青色さえ捨てたっていい、彼のいる世界だけを選んでいたい。
そして世界は私の願いを聞き入れなかった。その瞬間を、私は生涯忘れることはないだろう。
彼の顔が一瞬で華やかに彩られた。突然のことに驚いて、息を呑むこともできなかった。変わらぬ青い世界の中で彼だけが鮮やかに浮かび上がる。夕焼けに照らされるオレンジ色の肌。初めて見る彼の髪色は銀河のように深く輝き、風を受けてはためいた。ビリジアンをぶちまけた、匂い立つ草原のような色のジャケットが彼の顔を映えさせる。そうか、君はそんな服を着ていたんだね。チョコレート色の瞳が少し眩しそうに見開かれてこっちを見つめた。
「なんで泣いてるの?」
 私は我慢できずに大きく笑った。泣いているものか、こんなに幸せな気分だっていうのに。流れ落ちていく群青を拭おうともせずにもう一度笑って、言う。
「夕焼けが青いから」
ぽかんとする彼を見て、また声を上げて笑った。私たちは今、火星に立っている。
                                                   〈了〉

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