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第十二回阿賀北ロマン賞受賞作①小説部門 大賞『めぐり姫』関川ちぐら

この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は関川ちぐらさんが執筆された第12回阿賀北ロマン賞小説部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html 

『めぐり姫』関川ちぐら


 「…智子ちゃんだよね」
 不意に名前を呼ばれて、お金を受け取った手が止まる。相手の顔を見ると、切りそろえられた前髪が、汗で額に張り付いていた。そのすぐ下にある、切れ長の目が印象的だった。
「あれ、違った?」
「あ、ち…違わないです」
 誰?自分のことは認識されているのに、私は相手を思い出せない。お客様に失礼なことをしていると思うと焦ってしまう。
「ここでバイトしてるんだね。こんなとこで会うと思わなくてびっくりしたよ。あ、この辺に住んでるの?」
 かろうじて笑顔を保ちながら、私はこくこくと頷いた。勢いに任せて思いっきり個人情報を出している気がする。
「給油ありがと。あ、レシートいらないや。じゃあ学校でね」
言い終わるとヘルメットを被る。エンジン音をまき散らして、原付バイクに乗った彼女はガソリンスタンドから出て行った。
 ヘルメットから黒くて長いポニーテールが出て、はためいていた。髪、縛ってたんだ。
(…学校?)
 てことは、クラスメート?さっきの切れ長の目に、髪を下した時のイメージを重ねる。
(…本間千穂だ!)
 多分。話したことなんてないけど分かる。徐々に焦りがぶり返してきた。すると後ろの戸が開く音がした。
「サトちゃん。もう時間だから今日あがっていいよ」
「あ、はーい」
 伯母さんに呼ばれて、お金を握りっぱなしだったことに気が付いた。店に向かって歩き出す。
 杏子伯母さんは私のお母さんの姉だ。
「サトちゃんさ、来週はバイトお休みでいいんだよね」
「はい。お願いします」
私が返事をすると、伯母さんはこっちを見てニヤッと笑った。あー、これは。
「デート?」
「違いまーす。友達でーす」
 伯母さんは「えー、それ男の子じゃないのぉ?」と、うちのお母さんだったら言わないような話を、まるで友達みたいに聞いてくる。
(テンションが女子高生と変わんないな)
 いや、武装自体もそんなに変わらないかも。明るい茶髪とばっちりしたメイクを見てそう思った。お母さんとは正反対だ。
「同じ部活の女の子と、新発田で写真撮るんです。フォトコンに出品するんで」
「さすがカメラのサトちゃん!先月、ありがとね。修平の結婚式のとき。よく撮れてたよ」
 先月、十歳年上の従兄は結婚式を挙げた。私はそこで、カメラマンをした。
 お父さんの影響で、小さい頃から写真を撮るのが好きだった。家族や親戚はそんな私を「カメラのサトちゃん」と呼んで、皆が集まる時は、私に写真を撮らせてくれた。結果カメラのサトちゃんは、親戚行事で今でも現役。
「サトちゃんなら入選しそうだよね。ちっちゃい頃から、カメラマンだもん」
 修平の試合も上手に撮ってもらってさ。と昔話を始める伯母さんに、小さい頃の話ですよ。と苦笑いして私は店を出た。
 秋。長袖シャツ一枚でも外を歩ける、気温的にちょうどいい時期。
 こんな田舎で家から歩ける距離でバイトができるのはありがたかった。電車の本数が壊滅的に少ないこの場所に住むと、高校生のバイトもだいぶ限られる。趣味の費用に悩む私に、ガソリンスタンドを経営する伯母さんが気を利かせて、土日だけ私を雇ってくれた。
 明日は月曜日か。やだな。
 そう思った時、さっきのことを思い出した。
(あの人…誰かに言ったりしないよね)
 明日、何とか説得して口を封じねば。休み明けの怠さに、面倒なことが加わって思わず大きく息を吐いた。ため息は、金木犀の香りを含んだ夕方に溶けていく。
  2
 電車から泥のように人が吐き出されていく。みんな急いでいるはずなのに、集団の動きはすごくゆっくりだ。なんだかイライラしてしまう。
 新発田駅からどばぁっと出てきた人たちは、小分けの集団になって新発田の町に出ていく。
 その様子を見ると、以前テレビで見た、ドロドロになった血流を再現した、CG映像を思い出す。
(そりゃ、詰まるよね)
 通勤通学ラッシュで、改札口で立ち往生する人々が思い浮かぶ。中でも私は、一番質の悪い赤血球なんだと思う。
(マジで学校行きたくない)
 ちらりと横を見ると、ガラス張りの図書館。でも衝動的にサボるほど、追い詰められてもない。そもそもまだ開館時間じゃないし。
 人のまばらな商店街。シャッター商店街という訳ではないらしいけれど、登校時は開店時間には早くて、下校時にはもうすでに閉店してたりする。だから、どのシャッターの裏がどんな店かとかあまり知らない。
 この町のことも、知らない。学校までの道のりくらいしか、歩いたことがない。
 何度ため息をついてもすっきりしなかった。
 中学の勉強がちょっと出来たくらいで入っていい学校じゃなかった。入学式の時にはかっこよく見えた制服が、今は死ぬほどダサい。
「サトちゃん、あの高校入ったの?すごいなあ。うちのバカ息子なんかほんと柔道ばっかりで、全然勉強しなかったもの」
 前に杏子伯母さんがそう言って笑ってたのを思い出す。
 私からしたら、兄ちゃんのほうがすごい。そんな兄ちゃんを育て上げたパワフルな伯母さんも。修平兄ちゃんは、勉強は不得意だったけど、柔道のスポーツ推薦で関東の大学に進学し、そこで就職もしていた。
『サト、こいつお前と同い年だよ。遊んでやれよ』
 小学生の頃、カメラマンとして連れてこられた柔道の試合会場で、兄ちゃんは度々、知らない小学生を私の前に連れてきた。おそらく、友達の兄弟とかだったんだと思う。内気だった私は「写真撮る仕事がある」と言ってその子達の顔も見ず逃げていた。小学生のくせに「仕事」なんて。今更恥ずかしくなる。
 修平兄ちゃんは、ガタイのわりに優しくて、面白い人だった。結婚式には、学生時代の同期や先輩後輩も、大勢来ていたのを思い出す。
(私とは正反対だな)
 どろ。
(つまんない。学校なんか)
 どろ、どろ。
 喉の奥が苦しい。重力が倍に感じる道。こんな通学路、歩くだけで吐きそうだ。

「おはよー智子」
 朝のホームルームにはまだ早い。人がまばらな教室に、久美の声はよく通る。
「おはよ」
 久美は私の前の席の椅子を、くるっと半転させてそこに座る。そしてブレザーのポケットから、リップやらコームやらを取り出して、私の机にバサッと置いた。それを一つ一つ使い始める。
「写真撮りに行くの、土曜でいいんだよね」
「うん」
「どこ行こうか」
 今年の応募作品のテーマは『水の新発田』。なんていうか、テーマのネタ切れ感。
「ねえ智子。うちらはさ、川で撮らない?白いワンピース着て、川で遊んでる写真。水しぶきとか撮って。コンセプトは水の妖精ね」
 ほう。今回はそう来ましたか。口から洩れそうになった溜息を寸前で押し戻す。
 久美は写真を撮るよりも撮られたい側だ。写真を撮る活動がある度に、何かと理由をつけて被写体になりたがる。
 やりたきゃ一人でやればいいのに。喉までせりあがった言葉。
「いいよ。それで撮ろう」
 どろっ、どろっ。
 なんとか飲み込んだ言葉は胸のあたりにへばりつく。
 自分が好きなものを撮影したいなんて思いは、二年生のクラス分けで久美と同じクラスになった瞬間、捨てた。
 他に頼れる友達はいない。ただでさえ怠い高校生活だ。人間関係でもめる元気はない。
「んー、おっけー」
 断られるなんて思ってない。久美は鏡を見ながら念入りに前髪を整えていた。
 色付きリップすら許されない校則の中で、女子たちはさりげないヘアアレンジに力を入れる。今日の久美のハーフアップにはどれくらいの時間がかかったんだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えたとき、騒がしい男女の集団が教室に入ってきた。
 先生の目を盗んで着崩した制服。男子も女子も派手だった。規制のない靴下やベルトは、リボンがついていたり、柄が入っていたりして、お手本ような「個性」を作っている。
 つまりリア充。さもなくば一軍。
 ふと、その学園ドラマみたいなグループの中に、違う雰囲気の女子を見つける。
(あ、やば)
 忘れてた。本間千穂だ。すぐ話をしに行きたかったけれど、あのバリアの中にいては流石に近づけない。面倒ごとは早く終わらせたかったが機会を伺うしかない。
 それにしても、本間千穂は目立っていた。そうでなきゃ私が気づけるはずがない。
 周りと違って派手な格好もしてないし、騒いだりもしない。元から美人なのだ。長いストレートの黒髪は、顔のすぐ横だけ、頬下あたりで短くカットしてある。「姫カット」っていうやつ。
 姫。確かにそうだった。綺麗な切れ長の目と白い肌。黒いぱっつんの髪。おとなしいというよりはおしとやかな感じがする。日本のお城に住んでそうなお姫様だ。古風なお姫様は、チャラチャラした今どきの集団の中で目立つ。
(友達多いんだなあ)
 凛とした見た目に反して、性格は白雪姫。いつもにこにこしてて、皆に優しい美少女。
 よく考えたら、原付バイクに乗ってること自体がミスマッチなんだけど。
(そういえば、修平兄ちゃんも原付乗ってたな)
 高校で原付バイクの免許を取ると、修平兄ちゃんはどこでも原付で行った。現地集合の試合なら、原付で行くこともあった。
 ゴリラみたいな図体にちんまりとした原付バイク。あれはあれでミスマッチだった。
 小さい頃、兄ちゃんは『サト、乗るか?』と言って、原付の後ろに乗せてくれようとしたことがあった。私は怖がって一度も乗らなかったし、兄ちゃんは杏子伯母さんに『危ないでしょ!』と怒られていたっけ。
「あの、ごめん、席…」
 いつの間にか、前の席の男子が来ていた。久美は慌てて立ち上がる。
「じゃあ、後で」
久美はそう言い残して、席に戻っていった。
 ホームルーム開始のチャイムが鳴る。
  
 放課後の掃除の時間。今週、私は掃除当番に当たってない。
 教室の掃除が終わるまで、廊下で携帯を弄りながら待っている千穂を確認した。その隣に、さりげなく並んで立つ。そっと視線を動かすと、横向きにそろえた細い脚が見えた。そのまま目線を上げる。端正な横顔。白い頬に、黒い四角が重なっている。
 あれだけ話しかけようと思っていたのに、いざ目の前に現れると、怖気づいてしまう。だってカーストが違いすぎるから。私はクラスの中で、隅っこにいるような陰キャだ。眼鏡だし、顔も地味。制服は制服のまま着てる。
ただ待つフリをしながら、ぐずぐず躊躇してると、視界の端の上履きが動いたのが見えた。どっかいっちゃう。慌てて顔を上げると、なんと千穂もこっちを向いていた。
 切れ長の目が、すっと細くなる。
「智子ちゃん。昨日会ったよね。ヘルメット被ってたからわかんなかったでしょ」
 そう言いながら、千穂は微笑む。なんでこの人種は躊躇うことなく言葉が出るんだろ。対する私はようやく口を動かす。
「あの、ち」
 えっと、呼び方がわからない。
「あの、私がバイトしてること、内緒にしててもらえる?」
 この高校は原則バイト禁止なのだ。こっそりやっていたのが見つかって、生徒指導の先生に怒鳴られている人を見たことがある。
 誰にも会わないような田舎でバイトしてたのに、まさか見られるとは思ってなかった。
 冷汗が伝うのを感じていると、千穂のケラケラとした笑い声が聞こえた。
「言わないよ。みんなどうせこっそりやってるもん。私も去年の夏休みとかやってたし」
 あ、内緒ね。としなやかな指を口元にあてる。そして千穂は、ふっと声を潜める。
「私がさ、原付乗ってることも内緒にしてほしんだ」
 なんで?と聞こうと思ったけれど、綺麗な顔の千穂が真剣な表情をすると、有無を言わさない迫力が出る。私はバネのおもちゃみたいに首を小刻みに縦に振った。
 すると千穂は、途端に明るい表情になって、「あ、そうだ!」と携帯を握りなおす。
「智子ちゃん、お願いがあるんだけど」
「え?」
 さっきみたいにまた声を潜める。けれど今度は、なんだかいたずらっ子みたいな笑み浮かべてる。
「バイク二人乗りしない?」
「へ?」
 一瞬、何を言われたか分からなかった。
「ちょっとでいいの。行きたいとこあったら連れてくし。土曜日とか、バイトある?」
 土曜のバイトは休みにしてもらった。
「ないけど」
 私が言うと、千穂は目を輝かせて、携帯を取り出した。え、こんな顔するんだ。
「ねえねえ、ライン追加してもいい?クラスのグループに入ってるよね?」
「え、うん」
「えっと、『横山智子』これ?」
 千穂は携帯画面をこちらに向ける。そこにはオレンジのグラデーションに染まった夕焼け空。私のアイコンだ。
「うん」
「おっけー、じゃ追加しとくからね」
 連絡すると思う。そう言って千穂は教室の中に入っていった。いつの間にか掃除が終わっている。
 今の疾走感は何?話しかけられて連絡先を交換するまで、流れるみたいだった。ぼーっとした頭のまま、画面に表示されたアイコンをタップする。
『ちほ★』
 千穂を含む三人が写ったプリクラの写真が表示された。
(バイク、乗せられるのかな?)
 そう思ったとき、大事なことを思い出した。
 土曜日!
  3
 連絡すると思う。その言葉通り、その日夜に千穂からメッセージが来た。
『智子ちゃん、新発田で写真撮るんだよね。写真部の友達から聞いた。よかったら映えそうなところ連れてくよ』
 二人でバイクに乗る話、本気だったんだ。
あの疾走感に流されて現実味がなかったものだから、てっきり社交辞令かと思ってた。ピコンと通知が鳴る。
『私ね、誰かとバイクで出かけてみたいんだ。でも学校の友達にはバイク乗ってること内緒にしたくて。智子ちゃんにならもうバレてるしいいかなって』
 学校の友達にばれたくない。その言葉に、ほんの少し親近感を覚える。本当は千穂も学校が好きじゃないんだろうか。
 ちょっと魅かれた。千穂の提案を落ち着いて思い返す。
(歩きながら撮影場所を探すより、いろんな場所に行って撮影ができる。撮影によさげなところに連れてってくれるって言ってるし)
 新発田で、通学路以外を歩かない私には好条件。これはいい機会なのだろうか。でも。高鳴りだした胸の上に、どろっとしたものが被さる。
(でも、土曜は久美と…)
 そう思った時、久美との撮影の時のことを思い出した。自分が撮りたいものを撮れなかった、今までの撮影会。くだらないと軽蔑しながらも、断らなかった。
 喉の奥にどろどろが沸き上がる。苦しい。
 このままじゃだめだ。
汗ばんだ指先で、千穂に返信を打つ。画面が汚れた。
『テーマが水の新発田なんです。案内してもらえませんか』
 千穂とのトーク画面を閉じ、久美のトーク画面をタップする。
 この日初めて、私は久美との約束をキャンセルした。すると、喉の奥にあった苦しさがスッと消えた。
 4
 土曜日の昼下がり。平日ほど人の多くない新発田駅は少し呼吸がしやすかった。
 改札の向こう側に華奢な人影が見える。
 キリキリに細いスキニージーンズ。でも肩に引っ掛けてる厚手の上着は、オーバーサイズ。インナーはタイトな黒のトップスだった。
「おはよ」
 長い黒髪は首の後ろでシニヨンにしていた。姫カットが際立つ。スタイリッシュだな。
「お、おはよう」
 比べて私は、色の褪せたジーンズ。千穂に言われた通り厚手の上着。背中にリュック。
なんていうか隣を歩きたくない。
 バイクはイクネスの駐輪場に停めてきたという。千穂はわざわざ駅まで迎えに来てくれたらしい。
 駐輪場まで着くと、千穂はテキパキと出発の準備を始めた。
「ヘルメット持ってきた?被ってね」
 千穂に言われ、杏子伯母さんが貸してくれたヘルメットを取り出す。
「じゃあとりあえず、水路があるところ一通り走ってみるね。ザっと見た後に写真撮りたい場所決めよ。あ、もちろん、ここで撮りたいと思ったら言ってね。停まれそうなら停まるから」
 今日までに千穂と私は、ラインで打ち合わせをした。テーマは『水と新発田』だと伝えると、千穂は「加治川はどう?」と提案してくれた。
 新発田駅と加治駅の間を貫いている大きな川。毎朝、ずっと奥まで伸びている水の道を、橋の上を走行する電車から毎朝見ていた。
 きっと雄大な写真が撮れると思う。でも。
(私が撮りたい感じじゃないな)
 相手が久美だったら言わなかったと思う。でも、千穂と約束をした日から気分は高揚していた。溢れ出した想いは勢いよく流れ、指を動かさせる。
「そのイメージなら、新発田の町中のほうがいいかも。新発田川も流れてるし、水はあるよ』
 私の漠然としたイメージの言葉を、千穂は丁寧に拾い集め、理解してくれた。
 話し合いの末、主に新発田市街付近を廻り、気に入った場所で撮影することにした。
『サトって呼んでもいい?私のことは千穂でいいよ』
 打合せが終わった途端送られてきた一言。私は即、OKのスタンプを返した。
 千穂はバイクを出発地点に出して跨った。
 エンジンがかかった瞬間、思わず身を引いてしまった。吠えるようなエンジン音。生き物みたいだ。
 え、乗るの?これに?
 怖気づく私に千穂は手招きした。そっと近づく。普通なら荷台があるはずの場所には、シートがあった。跨ると振動が伝わってくる。大きな音。注目を集めそうで恥ずかしい。
「そこに足を置いてね。手は私の腰に当てといて」
 言われた通りに手足を配置する。千穂の腰は上着越しでもわかるくらい細かった。触っていいのだろうか。
「しっかりつかんで。いい?」
「あ、うん」
 ゆっくり、バイクが前進する。ふわっとした浮遊感。置いて行かれそうな体を、ピンと背骨が支える。
 エンジンの音。振動。体に受ける風。加速するバイクと大きくなるエンジン音。
 結構速い。怖い。ぎゅっと目を閉じる。
「大丈夫?」
 千穂の声が前から飛んできた。そっと目を開けた。
 いつもの通学路が流れ星みたいに通り過ぎていく。
 重い足取りで歩き、学校まで途方もなく長く感じた通学路。一歩踏み出す度に、どろどろと何かが溜まっていくように感じた通学路。
 流れてる。
 体の側面に、空気の壁が擦るのを感じながら、そんなことを思った。
「すごいね!」
 無意識に弾んだ声が口から飛び出した。
「でしょー!」
 子どもみたいな笑い声。それを聞いたとき、千穂との距離がぐっと近づいた気がした。「バイク乗ると叫びたくなるんだよ」という千穂。それは、バイク乗りにはあるあるなのか。どっちにしても、千穂の気持ちは分かった。
 東公園の交差点を左折。そして、細い道へ右折。バイクの速度が落ちる。
 私は主に商店街を歩いて登校するけど、この道からも高校へ行ける。住宅街だから車もいなくて信号もない。おしゃべりしながら登下校したい人たちは、よくこの道を通っている。たまに、商店街ではなく、こっちの道を使っていた。普段と違う道を通って、ちょっと気を紛らわそうと思っていた。まあ変わらなかったけど。
 狭く入り組んだ道を、バイクは魚のようにすいすい泳ぐ。
 ゆったりとした速度と振動が心地良かったが、通学路を進むバイクは徐々に学校に近づいていた。
 どろ。また、なにか腹の底にたまる感じ。
思わず顔を伏せる。その時、バイクが右折した。頭の中にあった地図から、強制的にログアウトする。
「え…」
「清水園だよ。横、水流れてる」
 千穂に言われ、脇に目を落とす。そこには緑色の川があった。
 いや、緑なんじゃない。川の底に水草が生えているのが分かった。水が透明だからこそ見える。水流に撫でられた水草が、気持ちよさそうにそよいでいる。
 水の中に原っぱがあるみたいだ。
「綺麗」
「でしょ」
 加治川じゃ見られないね。千穂はなぜか得意げに言う。
 どんなにゆっくり走っても、あっという間だった。突き当りの交差点に出る。
「この道、ここに繋がってたんだ」
「そーだよ」
 左折。いつも通ってる商店街を、真っ直ぐ突っ切って行く。
 どろっとした気持ちが、体から飛ばされていった。さっきみたいに、学校を思い出して苦しくなりはしない。
 交差点。右折。
 奥に市役所付近の交差点が見えた。けれど、千穂はその手前の交差点で、左折する。
 また川が現れた。
 住宅街のその場所は、私の撮りたかったノスタルジーな雰囲気が漂っていた。
 川の上には短い橋がいくつか設置されている。私は流れてくる橋を一つ一つ観察した。
 鉢植えが置いてある橋。石が両脇に並べられている橋。さび付いた赤い手すりのある橋。                                
 そのあとも、千穂は水を探して、新発田の町中をあっちこっちバイクを走らせてくれた。
 商店街。年季の入ったお店もあれば、洒落た喫茶店もある。狭い路地に入れば、飲み屋街だった。昼間に眠っているような不思議な場所。他にも、神社や教会。寺町通り。
 どうにか水に関連付けて、撮りたいような場所ばかりだった。目に入るものを、千穂がナビをしてくれる。
 まるで体内を循環する血液のように、私たちは新発田の町を廻った。毛細血管みたいな細い路地も進む。体に当たる風が冷くて、でも千穂に触れてる部分は暖かい。
 私は千穂に、いつからバイクが好きなのか聞いてみた。
「うーんとね、小学生の時かな」
「え、そんな昔?」
「うん。知り合いに原付バイク乗ってる人がいて、その人がちょっとだけ後ろの乗せてくれたの」
 それがきっかけで、興味を持ったのだと千穂は言う。
「私がバイクの免許取ったら、その人と二人乗りしようと思ってたんだけどね…」
「しなかったの?」
「うん。間に合わなかった」
 走るバイクから落ちた言葉は、後方にすっ飛んでいく。その言葉はもしかして悲しい意味なのだろうか。途端に明るい声がする。
「そんな黙らないでよ!死んだとかじゃないんだって」
 千穂の笑い声が聞こえる。ほっとしたけれど、それ以上は聞けなかった。
 バイクは出発地点に戻ってきた。エンジンが止められ、私はバイクから降りる。
「うわ」
 なんだか変な感じがした。固いアスファルトに降ろした足がよろけてしまう。
「サト変なの」
「だって慣れてないし」
 笑いながら千穂がバイクを停める。
「ちょっと休憩しようよ。なんか飲も」
「ああ、うん」
 歩き出した千穂の後を追うと、そのまま駐車場を突っ切って商店街に出た。てっきり、イクネスの隣のコンビニに行くんだと思っていたから、拍子抜けした声が出てしまう。
「え、どこ行くの?」
「あそこ、タピオカのお店できたんだよね」
 そういうと、スキップしそうな足取りで歩き出した。
 白を基調とした店内は、一部の壁やドアが水色に塗られている。爽やかで、小さくて、可愛いお店。
 もしかしたら、久美と来ていたかもしれない。
(久美は、すごい写真撮るだろうな)
 別に悪くはないし、冷めるもんでもないけど、あまりに何枚も何枚も撮り直すのを見ると、なんか微妙な気持ちになる。
 千穂はそういうのしないんだろうか。小さなテーブルの向こうで、千穂はごくごくタピオカミルクティーを飲んでいる。
 睫毛長いな。
 不意に千穂が顔を上げる。慌てて目をそらして、自分のカップの中を吸う。
 何を頼んだらいいかわからなくて、千穂と同じのを注文した。甘い。
「どう?撮りたいところあった?」
 千穂の言葉にハッとする。そっか、写真撮りに来たんだった。
「えっと…」
 たくさん回ってもらったけれど、思い浮かぶのは、あの透き通った水と水草。
「あの、やっぱり清水園の川を撮りたいな」
 言ってから気づいた。私、ちょっとわがままなこと言ってない?
 あれだけ回ってもらったのに、一番最初がいいなんて。乗せてもらったのに、あの時間を無駄にしてしまうことになるんじゃないだろうか。
「ごめん、あれだけ回ってもらったのに、最初のやつがいいとか。ほんとごめん」
 いつもなら、飲み下していたような要望が、スルッと出てしまった。私はわたわた謝る。
「なんで謝るの」
ズッとタビオカを吸い終えて、千穂が言う。
「色々見て、そこがいいって決めたんでしょ。たまたま最初だっただけじゃん」
 叱るわけでも、めんどくさそうに言うわけでもなく、ただおしゃべりをしているのと同じ口調で千穂が言う。
「私は二人でバイクに乗って走りたいの。サトは写真を撮りたいんでしょ」
 不都合ある?と聞かれ、私は首を振った。
「でも気遣ってくれてありがとね。ていうか、もっとあっち行ってとかこっち行って、とか注文されると思ってたよ」
 写真撮るのに妥協はしないんだと思ってたから。千穂は空になったカップを揺する。
「私、そんなイメージなの?全然違うよ」
へー、いがーい。と揶揄うように言われた。意外ねえ。
 立ち上がってカップをゴミ箱に捨てようとする千穂に私は問いかける。
「意外っていえばさ、写真撮ったりしないんだね。意外なんだけど」
 私は千穂が持っている空っぽのカップを指さす。すると千穂は一瞬固まり、声を上げて笑い出した。
「忘れてた!」
 飲む前に行ってよ!と軽く叩こうとする手を交わしながら、私も笑ってしまった。
 
 再びバイクに乗り、清水園前までやってきた。バイクから降りると、千穂がきょろきょろとしだす。
「どうしたの?」
「いや、どこ停めようと思って」
 ここの道路は狭い。けれど車も通る場所だから、邪魔のならない場所にバイクを停めなくてはいけない。
「私、どっか停めてくるから、サトは写真撮ってなよ。見られてると撮影できないだろうしさ!」
 元気よく言い放ち、バイクを引いていく。細い脚と重量感のある原付バイクの差がお
かしかった。
(さてと)
 どんな構図にしようか。
 清水園から緑の木々が伸び伸びと枝を伸ばし、真下のある水面に水彩画のような繊細な影を落としている。向かい側には濃い茶色の日本家屋の長屋。石畳の道路を下にして、それらはずっと奥までまっすぐ伸びて、一点透視の景色を作っていた。
 川をメインにしつつ、長屋も石畳も入れたい。私は川の柵に体をくっつけ、少しだけ身を傾け、シャッターを切った。すると、画面の七割に川と木々が写り、残りの三割には、長屋と石畳とほんのり色づいた空が収まった。
 (いいかも)
 橋を写してみたり、方向を変えてみたりしながら、私は夢中で写真を撮り続けた。
(良い。けど、なんか物足りないっていうか、ありきたりだな)
 一旦手を休め、撮れた写真とにらめっこしていると、ポンと肩を叩かれた。
「プロの顔になってるねえ」
「え、あ、いつの間にいたの」
「んー三十秒前くらい?なんか真剣に撮ってるから、声掛けらんなくて」
 指の先でバイクのカギをチャラチャラと回す。
「バイク、どこに停めたの」
 揺れていたカギをはしっと掴み、千穂は指をさした。
「あそこの駐車場」
 そこにあったのは、白と黒の色合いの家。黄緑色ののぼりが風にはためいていた。かろうじて『大福』という文字が見える。お店なのか。
「お客様用の駐車場じゃないの?停めて大丈夫?」
「大丈夫だって。お客様だから」
そう言って千穂は腕を上げる。そこにはお店の袋が握られていた。
「買っちゃた。もう撮り終わったなら、移動して食べよ」
 てかね、水があるとこ思い出しちゃった。そこ行こうよ。途中コンビニ寄ろ。と得意げに言いながら千穂はバイクに向かう。
 バイク。
 その時、私の中にひらめくものがあった。
「千穂、お願いがあるんだけど」
 千穂がくるっと振り返る。揺れる黒い前髪。細い首。筆で描いたような目。
「モデルになってくれない?バイクと一緒に」
「へ?」
「ここで写真撮ってみたんだけど、なんかありきたりっていうか、面白くないんだよね」
 うまく言葉にできない。私は、頭の中で弾け飛んで散らばるポップコーンを必死に掴む。
「ここはすごい風情があるけど、原付バイクがあったら、なんか日常っぽいっていうか。アクセントになるっていうか」
「ノスタルジー?あ、エモいってやつ?」
「あ、うん。いや」
 うんって言ったけど果たして意味的にあってるのかわからない。エモいってなんだ。でも言葉は止まらない。どんどん溢れて流れる。
「ミスマッチなのがいいんだ。古風な道に原付とか、原付に綺麗な女の子とか」
「わーお、口説かれてるのこれ」
 千穂のおどけた声を聴いて、途端に恥ずかしくなる。
「その、だから、千穂も撮っていい?」
 いいよーって言い続けてた千穂が、この時ばかりは、腕を組んだ。もしかして嫌だったのだろうか。不安になる。それが顔に出たのか、千穂が慌てて言った。
「嫌じゃないんだよ。正直めちゃくちゃ嬉しいし。でも、バイク乗ってることバレるとやばいんだよね。うちの学校厳しいじゃん?友達にもばれたくないしさ」
「バレるって…」
「だって入選したら、確かヨリネスに飾られるんでしょ」
 あ、そうだった。でも。
「入選なんて」
「何言ってんの、入選したくて撮ってるんでしょ。って言ったらあれか、モデル頼むのもそのためか」
 墓穴掘った。と千穂は苦笑いする。
「じゃあ、顔は写さないようにするから。それに今の千穂、学校と結構印象違うし。だめ?」
 私がそう言ったところで千穂が折れた。バイクを引っ張り出してきて、車が来ないのを確認すると、素早く指定した場所に立ってくれる。
 顔を後ろに振りむかせたり、バイクをそばに停めて、川を覗き込ませたり、バイクを引く後ろ姿を撮ったり、ちょっと跨って貰ったり。
 顔が写ってなくても、華奢ですらりとした後ろ姿とほっそりとした首のラインは、美少女を連想させる。千穂とバイクはあくまで写真のアクセントの役割だけど、主張しすぎず、それでも目を引くくらいの、絶妙な雰囲気を持っていた。と思う。
「どう?」
「いい感じ、かも。私の中では」
 それを聞くと千穂は、じゃあ最終地点に向かいますか。と言ってヘルメットを差し出した。
 再び、新発田の町に流れる。
 4
 町が夕焼けに染まり始めている。
 緑色の柔らかなフェルト生地を広げたような芝生に、ぽつぽつと木が生えていた。
「ここ、どこ」
「駐車場」
「いやそうじゃなくて」
 千穂はヘルメットを脱ぎ、伸びをしながらふわぁっとあくびをした。
「新発田城」
 知ってはいたけれど、来たことはない場所。そんな名前を当たり前のように言う千穂の声に、ドキッとしてしまう。
「初めて来た」
「この辺の学校通ってると、課外授業の定番スポットなんだよね」
 静かになった原付を手で押しながら、千穂は歩道を歩く。道の先に柵が見える。お堀があるのだろう。そしてそこに建つのが、
「千穂、あれがお城?」
「あれは御三階櫓。天守閣の代わりを果たしていた櫓」
 さも常識のようにすらすらというので、私は自分の日本史の知識が不安になった。
「では、智子さんに問題です。この御三階櫓には全国的に見ても珍しい特徴があるのですがそれは何でしょう」
「は」
何急に。と尋ねるが、千穂は楽しそうに、チッチッチッとタイマーの真似をする。答えられずに突き当たりの角まで来ると、千穂は「ざんねーん」と言って、原付のスタンドを立てた。道の端っこで原付が自立する。
「正解は屋根の上のしゃちほこでーす」
「へ?」
「三匹いるっしょ」
 あー、確かに。普通二匹だもんねー。そびえる高い城を見上げながら言うと「超ビミョーって思ったでしょ」っと後ろから声がした。
振り返ると、千穂がさっきの袋を差し出す。
「食べよ」
そう言って、お堀に面したベンチに腰掛けた。
ビニールに包まれたお饅頭と途中で買った、ペットボトル。
 人がいなくて、長閑。ヘルメットの下で汗ばんでいた頭皮にをスーッと風が撫でていく。
 ツーっと水面を滑っていくぷっくりとしたカモ。そのカモが引きずる水面で、水に映る三階櫓が揺れる。
 水。
「お堀の水ってさっきの川なの?」
「うん、まあ。これはほんの一部だけど」
 ペットボトルのお茶で、お饅頭を流し込むと、千穂は説明してくれた。
「新発田川はね、江戸時代には人とか物を運んだり、それ以外にも生活で必要不可欠だったの。今はほぼほぼ埋め立てられてるけど、もっといっぱいあったんだよ」
 今日、流れを辿った川を思い出す。
至るところに流れていき、城下町新発田を動かしていた新発田川。この町を生かしていた川。まるで、
「血液みたい」
「ん?」
「新発田の血液みたい。あの川」
 そう言った時、登下校しているときの自分が思い浮かんだ。
「私、学校つまんないんだよね。なんか勉強ついてけないし、面倒な友達いるし」
「それ、久美ちゃんでしょ」
 ギクッとして、手に持っていたお饅頭を落としそうになる。
「そんな顔しないで。同中なの。私も苦手なんだ。子どもじゃん。なんか」
「…そういうの言わない人かと思ってた」
 いつもニコニコしてて、誰が嫌いとか言わない、上品なお姫様。学校で見る千穂はそんなイメージだった。
「学校じゃ言わないよ」
 お姫様でも何でもない、千穂の声。
「千穂は、誰にでも素で仲良くなれると思ってた」
「なわけ」
 ジーンズが似合うこと。写真を撮り忘れるようなうっかりなとこ。バイクが好きなとこ。
学校の千穂じゃ、そんなとこ想像できない。
「本当に好きなことなんて、学校のあの子達には言わない」
秘密のお話なのに、隠す音はどこにもない。
 夕焼けと、風と、ぷかぷか浮くカモ。学校帰りじゃ絶対に来れなかった場所。二人だけの会話を、目の前の三階櫓だけが聞き耳を立てているようだ。
「じゃあ何で、バイクが好きなこと、私に教えてくれたの。なんで私を誘ってくれたの」
 私が尋ねると、千穂はお芝居のセリフを言うように、迷いのない声で言った。
「サトが良かったんだよ」
「え?」
「サトって、修平さんの従妹でしょ」
 予想していなかった名前に、頭が混乱する。
なんでここで従兄の名前?
「え、兄ちゃんと知り合いなの?」
「んー、知り合いの妹って感じ?」
 話が一向に見えない私を見て、楽しそうにしていた千穂が、ようやくネタ晴らしをする。
「私、九歳年上の兄がいるの。今はもう県外に出たんだけど。高校のとき柔道部で、修平さんの後輩なんだ」
 そういうことか。私は納得した。
「小学生の時さ、お兄ちゃんのいる部活の試合見に行ったりしたんだけど、そこにいた修平さんが、よく遊んでくれたんだよね」
 面倒見のいい修平兄ちゃんは小さい子をあやすのも上手で、親戚の子なんかに、よく肩車をせがまれていた。
「さっきの原付の後ろに乗せてくれた人っていうのは、修平さんのこと。試合が終わった後、ゆっくり、会場付近だけ走ってくれたの」
 乗ったんだ。私は怖がって乗れなかったのに。それにしても、兄ちゃんも懲りない。
「修平さんさ、『俺は妹はいないけど、ちほと同じくらいの従妹がいる』って言ってたの。
智子って名前で、俺の専属カメラマンだって」
 修平兄ちゃんは人見知りで、友達と遊ぶこともなく一人で写真ばかり撮っていた私を、よく心配してくれてた。
「会ってみたかった。カメラマンって聞いてワクワクしてさ。でも全然見かけなくて」
 『お前と同い年の女の子いるぞ、遊んでやれ』と言って兄ちゃんが連れてきた女の子。あれは、千穂だったのか。
「一回だけ、修平さんが私のことをサトのところまで連れてってくれたんだよね。なのに、目が合った瞬間『写真撮る仕事があるから』って、どっか行っちゃたんだよ」
「…あー、ごめん。人見知りで」
 てかそのセリフ、忘れてて欲しかったな。
「二年生で同じクラスになって。つい最近、サトが写真部員だって知ったの。まさかって思った。あの時、会場でカメラ持ってた子じゃないかって。それでこの前、修平さんの地元までツーリングしたら、サトがいるんだもん。ビンゴって思った」
十年ぶりに巡り会ったね!と千穂がはしゃぐ。
「すっごい奇跡だよ!」
「いや、阿賀北の範囲内だし別に」
「サト、ドライすぎ」
 パシッと軽く肩が叩かれる。まあ憂鬱だった高校生活で起きた出来事としては、確かに奇跡かも。今、千穂といることの貴重さを実感しながら、リュックからカメラを取り出す。
「千穂、今日最後の撮影させて。またモデルやって欲しいんだけど、そこの相棒と」
「しょーがないなあ」
千穂は立ち上がり、原付バイクを引き寄せる。
 私はそこから離れた。奥まで伸びる歩道。右側には御三階櫓。その二つの間には、夕焼け空を映したお堀の水面。赤く染まった大きな雲は、朱雀の翼のようだった。数枚撮ったところで、私は千穂に注文した。
「ちょっとこっち向いてみて?そんで、少しうつむいて」
原付バイクをゆっくりターンさせる。そして跨ってもらった。千穂が少しうつむく。
 風が、千穂の姫カットを、扇のように開かせた。私はその瞬間にシャッターを切る。顔が髪で半分隠れ、伏せた片目だけ見えていた。ただ、風に吹かれただけにしか見えないかもしれないけど、今の私にはこれが精一杯だ。
 城を抜け出して、城下町でバイクを乗り回すお姫様。千穂がそんな風に見えたから、この写真を撮った。夢中で撮った写真を見返す。
「良い瞬間」
 いつの間にかそばに来ていた千穂が、カメラを覗き込んで、嬉しそうに言った。

 駅までバイクを走らせる。夜が静かに忍び寄っている。ぼんやりとした光の中、突然、千穂が口を開いた。
「サト、きもいこと言っていい?」
「うん?いいよ」
 エンジン音が作ってくれる、二人だけの世界。私は千穂の声に耳を傾けた。
「私ね、好きなの」
「え?」
 千穂の脇腹がすうっと膨らむのを指と掌が感じ取る。
「修平さんのこと、ずっと好きだった」
「…だからあの日、バイクで来たの?」
 そうだよ。という千穂のお腹は、ひくひく動いているのがわかる。
「私のバカ兄貴、先月、写真送ってきたの。修平さんと違って、気遣いができないんだよ」
 おかしそうに言おうとする声が切ない。
「そんなことされたらさあ、いないって分かってても、行っちゃうでしょ。居ても立っても居られないじゃん。忘れらんない人なんだもん。忘れられない背中なんだもん」
全身を震わせて吐きだされる感情。きっと、今日は聞けない。こんなに小さなバイクでも、すぐ駅まで着いてしまう。ひくひく動いて止まらないお腹。なんて言葉をかけたらいいか分からなくて、私は少し腕を伸ばし、そっと力を入れて千穂を抱きしめた。つもりだ。
 新発田駅のロータリーに入る。今日の私たちが血液ならここは心臓か。「もう停まるよー」という千穂の声は、バイクに乗る前の声に戻っていた。つられて私も声が出せた。
「千穂、ほんとありがとね。良い写真たくさん撮れた」
「私も楽しかったよ。ほんとありがと」
「ガソリン代、ほんとにいいの?」
「いいのいいの。今日はサービス」
 バイクがゆっくり停まる。ここは早く立ち去らなければならない。後でラインでたくさん話すことにして、とりあえず「気をつけて帰ってね」と言ってバイバイをしようとした。その時、千穂の声がスッと飛んできた。
「修平さんに、末長くお幸せにって伝えて」
滴る寸前の雫のような声だった。
 それだけ言うと、千穂は手を振ってバイクを発車させた。魚が鰭を返すように、あっという間に小さくなる。もう見えなくなったのに、立ち尽くしてしまった。

 私がバイクの免許取ったら、その人と二人乗りしようと思ってたんだけどね。
 間に合わなかった。
 サトが良かったんだよ。

 千穂。私、あんたのやりたかったことの、代わりになれたかな。

 列車到着のアナウンスが聞こえた。ホームに向かいながら、別れ際、千穂に何も言えなかったことを思い出す。
 水面のように震えていたあの声。ヘルメットをしているんじゃ、きっと顔を拭えない。夜を迎え入れようとする新発田の町を、疾走しているであろうあなたを思う。

 姫様。お気をつけて。

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