第三回阿賀北ロマン賞受賞作随筆部門 『かたびら雪』中村通子
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第三回阿賀北ロマン賞受賞作随筆部門 『かたびら雪』中村通子

この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は中村通子さんが執筆された第3回阿賀北ロマン賞随筆部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『かたびら雪』中村通子


はじめて新発田を訪れたのは今年の三月上旬だった。阿賀北ロマン賞を受賞した友人を祝うため、その授賞式に出席するのが目的だ。もともと出不精の私は、自分からプランをたてて旅行することはまずない。大概は、夫か娘たちのたてたプランにあれこれ注文をつけて参加する。
上越方面は高崎、軽井沢あたりまでは行ったことがあるが、新潟にはまだ行ったことがない。はじめての土地は好奇心をかきたてるし、阿賀北という言葉の響きも何か物語めいて興味をそそられる。北という文字はひっそりと閉ざされた空間のイメージがある。町のたたずまいは? 雪は? たべものは? お酒は? と、はじめて訪れる日本海に面した北の土地への期待をふくらませて、朝九時頃に東京駅をたち、昼前には新発田駅についた。
出発前の天気予報から厚めの服装を用意したが、思いのほか寒くないし、雪も積もっていない。静かで落ち着いた町並み、ゆっくりおだやかに歴史を積み重ねてきた町という印象で、訪れた人を包み込むようなあたたかさを感じた。
 市内観光を少しした後、授賞式も無事すんで、その夜は新潟市内に一泊。市内のすし屋で夕食をとったあと、ホテルの部屋で友人たちと夜更けまで新発田の銘酒を飲み、話もはずんで、二時頃眠りについた。
ふと目がさめて、時計をみると四時をまわっていた。二時間ほど眠ったことになる。折角の旅でそのままベッドに入って寝るのが惜しいような気がして起き上がり、窓のカーテンをあけた。眼下には寝静まった家並みが黒く続き、幹線道路では車のオレンジ色の光だけがすべるように流れて行く。その向こうには海が広がっているのだろう。だが、暗くて何も見えない。昼間のよく晴れた明るい陽射しの中なら、遠く前方に佐渡が見えるはずだと思いながらなおも眺めていると、不意に窓の外を白いものが斜めに横切って消えた。一瞬、鳥かとも思ったが、白い小さな紙片のようにも見えた。誰かが和紙をちぎって投げ捨てているのだとも想像したが、それにしては落ちる速度が速いし、まさかこんな早朝にそんなはずもない、と半信半疑でなおも目を凝らしていると、かすかに雪が舞っていることに気付いた。小さい白い雪にまじって、時折、四角い紙片のようなものが風に流されながら降ってくる。目が離せないまま薄明かりの窓の外を見つめ続けていたが、唐突に、以前聞いたことのあるかたびら雪という言葉が、起き抜けのまだ酔いの残る頭に浮かんだ。たしか歳時記に載っていたはず。春が近づくと雪の結晶と結晶がくっついたかたびら雪が見られるそうだ。かたびら雪に違いないと思いつくと、初めて目にする雪に、おもいがけない贈り物をもらった時のような気分になった。窓ガラスを通して伝わる外の冷気を肌に感じながら、しばらくかたびら雪が降ってくるのを眺めていた。
夜明け前の仄暗い闇の中を落ちてくる幻想的な雪を目で追っているうち、昼、堀部安兵衛の像を見たことを思い出した。私の中では新発田市と赤穂義士とが結びついていなかったのだが、観光案内によれば、新発田市は赤穂義士の一人である堀部安兵衛の生れ故郷で、その武勇をたたえて「義士祭」が行われているという。
「義士祭」は私の住まいの東京・大田区から京浜急行線で小一時間の所にある高輪泉岳寺でも行われ、境内には赤穂義士四十七士の墓が並ぶ。散歩で何度か立ち寄ったことはあるが、テレビで報じられる「義士祭」の混雑ぶりに恐れをなして、まだ実際に「義士祭」の日には行ったことがない。当日は、四十七士に扮した一行のパレードもあると報じられていた。
私の父は、毎年十二月になると必ずと言っていいほど放映される「忠臣蔵」関連のテレビ番組を欠かさず見ていた。その頃の私は、何にそれほど惹かれるのだろうと不思議だった。父はきっと「義士祭」のことも知っていただろう。しかし堀部安兵衛の生誕の地である新発田市と、墓のある東京港区に、同じ名前の祭りがあるのは私にとっては興味深いことだ。帰ったら泉岳寺を改めて訪れてみたい、と思いつつ、朝食までもう一眠りしようとベッドに入った。
帰京してすぐに、歳時記をひらいてみた。淡雪の項にかたびら雪がでてくる。「春になって気温が上がってから降る雪は、結晶が融けかかっているため、たがいに密着し合って大きな雪片になり、積っても融けやすい。これを淡雪といい、牡丹雪・綿雪・かたびら雪・たびら雪・だんびら雪などとも言う」とある。
また、図書館にも行って、池波正太郎の『堀部安兵衛』を借りて読んだ。聞きかじり程度に、高田馬場での果し合いや赤穂義士としての討ち入りの際の活躍は知っていたが、詳しいこととなると何も分からない。堀部安兵衛は播州赤穂の生まれで浅野家の家臣なのだろうと勝手に思い込んでいたが、新発田に生まれ、十九歳で江戸に出たと書いてあるから、人生の半分は新発田で過ごしたことになる。
そこで私は高輪泉岳寺にも足を運んだ。父の勤務先は泉岳寺の近くにあったから、「忠臣蔵」好きの父は一度ならず立ち寄ったに違いない。地下鉄都営浅草線の泉岳寺駅から徒歩で二、三分。風格のある中門には「萬松山」と扁額がかかり、中門をくぐると本堂に向って左側に四十七士の墓所への道が続く。線香の香りが鼻をついてくる。浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭で切腹したときの血がかかったといわれる「血染めの石」や、吉良上野介の首を洗ったとされる「首洗い井戸」などが残されていた。墓所の入り口の傍らには遥泉院の墓が控え、奥まった一段高い場所に浅野内匠頭の墓がある。その主君の墓に向って左手、大石内蔵助の墓を筆頭に四十七士の墓がお互いに内側をむいて、四角く囲むように並んでいる。三百八回供養塔の卒塔婆がそれぞれの墓にたてられている。大石内蔵助の墓の並びに安兵衛の義父堀部弥兵衛の墓が、そしてその左斜め前、大石主税の墓の隣に堀部安兵衛の墓はあった。  
堀部安兵衛武庸  刃雲輝劔信士  行年三四歳
義理の叔父の助太刀をした高田馬場での決闘、義父との縁で赤穂義士となっての討ち入り、と堀部安兵衛は生涯のなかで二度も仇討ちをする。関わりのあった人との縁から、安兵衛は自分の命をかけ、死と向き合い、そのため最後は自ら命を断つことになる。血書で誓い、かたびら雪のようにたがいに密着しあった同志と共に迎えた死は、彼の本意だったのだろうか。そう考えながらいつしか、父が歩んだ道に思いをめぐらせていた。
千葉県の農家の長男として生れた父は高校を卒業すると、農業に学問はいらないという親の意見で進学をあきらめ、家を継いだ。黙々と働いたが、生来の無口のため何を考えているのかわからず、「何か気にいらないことでもあるのか。話しかけても碌な返事もしない」と本人の意志とは無関係に誤解されることも多く、母親との間はうまくいかなかったようだ。陸軍に志願し、中国の司令部で終戦をむかえたが、母親がすすめる結婚相手ではなく、一言の相談も無いままに幼なじみ(私の母)との結婚を決めてしまったことが、さらに親子の溝を深めることとなり、ひいては嫁姑の仲にも影響した。
そんなこともあってか、私が生れてまもなく父は弟に家を譲り、上京することに決め、知人を頼って職を得、親子三人の新しい生活を泉岳寺から小一時間のこの地で始めた。口では言えない苦労があっただろうことは想像に難くないが、母が不満や愚痴を長女である私に言うことはあっても、父の愚痴は聞いたことがない。黙々と定時に会社に行き、定時に家にもどってくるという生活の繰り返しで、休日は読書をする姿や「千字文」を片手に筆を持つ姿が印象に残っている。とにかく無口な人で、口やかましくはないのに父が家にいるというだけで私はうっとうしく、気詰まりな感じがした。ごく偶に一人で映画を観てきたりしたときにはそのパンフレットを私達にみせたが、そんなときでも饒舌になることはなかった。ただ私が進学を決める際に口にした、「これといって残してやれる財産はないが、学問を身につけていれば自分で道を切り開いていけるだろう。だからやりたいことがあったら今のうちに身につけろ。急いで就職するな」という言葉は今でも覚えている。
長年健康体であった父は、還暦を過ぎて退職を決めた頃から体調を崩し、心筋梗塞の発作を起こして自ら入院を決めた。だが、リハビリを拒み続ける父を見るにつけ、私達家族との生活にもどることを拒んでいるようでやりきれない思いだった私は、確実に死へと自分を追い込むことでその意思を示そうとするかのような父と向き合うことが苦痛で、見舞うことも極力避け続けた。父は一年の入院生活を送り、自宅にもどることなく、肺炎で逝った。七十一歳だった。実家の墓には入れないと考えた父が購入していた東高円寺の墓に今、母と共に眠っている。
六歳はなれた妹が父と手をつないだり、おんぶされたりするのがうらやましく、それができない自分が歯痒かった。父と二人きりで出かけたのは後にも先にも私の中学受験当日の一回だけ。時々後ろをふりかえる父のあとを一、二歩遅れてついていった。そのときの親子面接では試験官の私への質問にも父が答えてしまったが、話すことの苦手な娘を気遣ってくれたのだと思っている。お酒が飲めるような年になったら、外で父と待ち合わせて一緒に飲みたいと思ったこともあったが、結局それも言えずじまいだった。母には「あなたは口数の少ないところが父親譲りね」とよくいわれたが、父と私は似たもの親子だったのだろう。病床の父に対して、いつまでも大人になりきれず、頑なな態度で接してしまった自分を悔やむが、健康だった頃孫と手をつないで散歩する和服姿の父を思い出すとき、私よりずっとやさしい気遣いで父に接してくれた私の娘達と一緒に暮せたことが、私のたった一つの親孝行だったと考え、自分のなかの後ろめたさを誤魔化している。何も語らなかった父だけに、その心の内を思いやる気持ちが年を追う毎に私の中で強くなってくるのだ。
阿賀北の旅は、ホテルの窓から見たかたびら雪の強烈な印象にはじまり、堀部安兵衛と父という全く関係のない二人の人生を重ね合わせた。人生はよく旅にたとえられるが、それにならうならば、人の一生は生誕の地から終焉の地までの旅だともいえる。生をうけた土地と命を終えた土地とを結んだ線の間に人の一生がある。そして、一人ひとりが本人しか知らない秘密を胸にしまったまま地上から消えて行く。その語られぬ魂の思いを慰めるために祭りがあるのだろう。
帰京後訪れた泉岳寺で、「義士祭」のパレードではどんな安兵衛がみられるのだろうと想像しながら、たちこめる線香の煙の中に立ち尽くしていると、明るい陽射しに包まれているにもかかわらず、安兵衛の墓にかたびら雪がひとひら降りかかってくるかのような錯覚に陥った。 

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