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第二回阿賀北ロマン賞受賞作②随筆部門 『新たに涼し』須藤登茂子

この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は須藤登茂子さんが執筆された第2回阿賀北ロマン賞随筆部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『新たに涼し』須藤登茂子


白新線に乗って駅を二つ過ぎたころ、電車は鉄橋にさしかかった。はじめて目にする阿賀野川は水量豊かに流れ、中州の緑がひときわ鮮やかに目に映る。まだ暑さが残る日差しの下で、黄金色の稲穂が風に波打ち、遠く田畑に人影を見るだけの静かな風景に、やはり来てよかったと思う。
 この夏も何処へも出かけず、ひたすら暑さが過ぎるのを待った。七十半ばを越してから夏は益々苦手になった。八月生まれだと言うのに。数日来の野分に、やっと人心地がついた。かつて、佐渡のドンデン山から見渡す限りの水田を眺めたことなどを思い出し、久しぶりに田園風景を見たいと昨夜、インターネットで出会ったのが阿賀北である。地図を開くと新潟市から北に広がるこの地域に昔、地名の読めなかった新発田市があった。忘れかけていたが、家の三軒隣りに新発田出身という夫妻が住んでいた。もう三年にもなろうか、定年を機に郷里に戻り家業を継ぐと越して行った。今は、若い人たちの住まいになったが、この季節、以前と変わらず木犀が香り玄関脇にコスモスが揺れている。さっぱりした気性の奥さんとは門口でたびたび立ち話をした。別れ際にもらった新発田の住所が抽出しにあるはずだ。城下町と酒どころの街をにわかに身近に感じ、行く先をここと決める。
 横浜から三時間ほどで新潟駅に着き、観光案内所をのぞく。懇切な説明に時間を忘れ特急に乗り損なった。しかしそれが幸いしてか、各駅停車で鄙びた駅舎などをゆっくりと眺めることができた。途中、平行する赤錆びた線路に気付いた。レール周辺に雑草が繁り、枕木の間からススキやコスモスが丈高く伸びている。以前は、貨物線ででもあったろうか。しばらくして、廃線の所々に咲き乱れるコスモスが、赤ひと色に変わったとき、思いもかけない記憶が頭を過ぎった。

「階段は滑るから気をつけなさい」
母屋から、母の声が響く。
七段ほどの狭い階段を降りる妹に続き、弟の体を支えながら私も怖々と地下に降りた。家族五人が入るとほとんど余裕のない部屋のなかは、入り口からの日の光だけでうす暗
く、湿気を帯びた空気が流れている。
「忘れものを取ってくる」
妹は、また階段をかけ昇り母屋に消えた。三歳の弟は物珍しげに辺りを見まわし、床に寝転び、楽しそうだ。妹が麦茶の入った瓶を肩に掛け、いつもの木の菓子箱を大事そうに持って戻ってきた。箱の上には煎り豆と紙皿が載っている。茶櫃の茶碗を並べ、母が包み紙で作った花柄の皿に豆を取分け、三人でままごとのようなおやつを食べた。妹が宝物の入った菓子箱から〈きびがら〉をとり出し、ナイフを使って何か作り始める。私だけが、周りの板壁の間から土の湿ったにおいが押寄せてくるようで居心地が悪かった。防空壕。
不思議なほど思い出すことのなかった記憶である。

 今から半世紀以上も前のこと。一九四一年、私が小学二年、八歳のときに真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が始まった。戦争も三年目に入ると戦局はとみに厳しくなり、敵機の本土襲来もま近との情報が流れた。私の生まれ育った日立は、北関東でも有数の工業地帯とあって襲撃は必至と、防空壕も早くから各家庭で作り始めていた。私の家でも、父が市役所から戻ると、日の暮れまで庭のいちいの木の横を掘り続けていた。母が、大事にしていた草花を、せっせと移し替えていたのを覚えている。支柱を立て、屋根を作り、その上を掘りかえした土で分厚く覆った。両親から、子供たちは屋根の上で遊ばないようにときつく言われた。庭隅とは言え、真新しい土がこんもりと盛り上がり、トタンを貼った入り口の扉が鈍く光って異様な光景だった。母が、その盛り土のうえ一面に、コスモスの種を蒔いた。七月末、赤い花が咲き、母屋から見ると防空壕は消え、小さなコスモス畑になっていた。
風に揺れるコスモスの傍で妹が言った。  
「この中に飛び込んでみたい」
「叱られるよ」
そう言いながら、茎が絡み合うほどぎっしりと咲き乱れる中に、私も飛び込みたかった。
――九月からの学校に間に合うように、夏休み中に疎開したらどうか、と父方の伯母から手紙が届いたのはこの頃だ。
この年、コスモスはいつまでも咲き続けていた。

 新発田に昼前に着く。やや古びた駅舎と、駅前から真っすぐ伸びる一本の道路、思い描いていたより簡素な街に、なぜかほっとした。視線を少しだけ上げれば遮るもののない空があるからだろうか。涼風に吹かれ観光マップを開くと、藩主の下屋敷である庭園まで歩いて六分とあった。
 茅葺の門を入ると右手に書院が見える。沓脱ぎから縁に回ると二間続きの座敷が開放されていた。目の前には庭の大方を占める池と、それを包みこむような緑の樹木が奥行きをもった光景で広がっている。しずかに、座敷先に敷かれた緋毛繊に座った。このまましばらく居よう。人が五、六人出入りしただけの静寂さが、少し疲れた体に染入ってゆく。頭のどこかに、遠くで鳴いてる蜩のように、古い記憶が浮かんでは消えてゆく。

 半世紀も前のことが不思議なほど鮮明に思い出されたことが意外だった。あの本のせいかも知れない。外出もせず篭り過ごしたこの夏、せめてもと、本の整理を思い立った。今まで幾度となく取りかかったが、やり通したためしがない。数多い蔵書ならいざ知らず。それでも今年は出来る気がした。
 先月、両親の墓参りをかねて郷里である日立へ行った。草を引きながら墓碑銘を読み、享年八十歳の母の年齢まで幾年もないことに気付いた。いまさらに驚くなどのんきな娘である。
自分の晩年は、身の周りのものを最小限にして、心身共にシンプルに過ごそうと、幾年来思って来たことか。しかし家の中に散在する、思い出があるのか無いのか分からないような飾りものなどを処分し、衣類を少し整理しただけでいつも終わっていた。本の整理が一番の難題だ。母の享年をお札のように頭の中に貼り、少し本気で整理を始めた。幸い住まい近くに市の図書館があり、私が読む程度のものは充分すぎるほど揃っている。これを機にと辞書類だけを残し大方を片付けた。そんな中で探していた一冊が出て来た。
「戦災と生活 日立市民の記録」と題する六百頁ほどの本である。史料のほかに、一般に呼びかけて集めた手記が載り、父の頁もあった。戦後三十年を経て上梓されたこの本を持ち、父は私の住む横浜へ来た。当時、子育てに明け暮れていた私は、父の話を聞く余裕もなく、本はそのまま仕舞込み、行方が分からなくなった。後年、毎年八月が来ると思い出しては探していた本だった。
その時から、また三十年が経ち、父も母も疾うに亡くなった今、やっと、この一冊を開く。一面焼け野原の市街、鉄骨だけになった工場群、砲弾になるのか金属として回収された夥しい寺の鐘、白布に包まれて重なる遺骨。初頁から悲惨な写真が並ぶ。父の頁を読むうちに、十二歳だった私の耳に聞こえた、あの夜の話を思い出す。

庭に作った防空壕の上に咲いたコスモスが末枯れる頃には、父を家に残し、母と私たち四人は、日立から五十粁ほど離れた山間の村に疎開していた。
終戦となるまえの六月、日立市は敵機の襲撃を受けて多くの犠牲者を出した。そして七月に入って艦砲射撃、その二日後の爆撃と、空と海からの攻撃に街は壊滅状態となった。村に届く被害の様子もあいまいで、父の生死は分からない。一週間が経ち、痩せた姿の父が自転車で戻ってきた。寄ると異様な臭いがした。その夜、妹たちが寝しずまった後も、私は目が冴えて眠れなかった。隣の部屋で父と母が小声で話すのが聞こえた。死体の処理に追われて帰れなかったと。爆撃での死傷者は数え切れず、煤まみれ、土まみれの死体を鳶口でトラックに掻揚げ運んだこと、数台のトラックの行く先は、溶鉱炉や火薬庫跡の急造の火葬場だった、夜まで真っ赤に燃え続ける火が敵機の目標になると心配した――そんなことが、とぎれとぎれに聞こえた。布団の中で震えながら、私は戻った時の父の臭いを理解した。しばらくして会話が途切れ、母が何か受け取った気配のあとに堪え泣く声が伝わってきた。
艦砲射撃を受けた夜、防空壕の中で父が私たちに遺書を書いたことは、後年になって何かの折に母から聞いた。父も母も戦時のことを封印していたとも思えないが、多く語らなかった。父の頁の最後に終戦の日のことが書かれている。ただ勝とうとして努力して……心のショックは大きかった。翌朝、役所に向かって歩いているときに高鈴連山を見た。高鈴連山が青いのをはじめて見て涙が滲んだ、と。この本の編者や手記を寄せた大方も鬼籍の人となった。まだ二十代で三人の子供を抱え、馴れない土地で暮らした母の気持ちも、警報のたび防空壕に避難していただろう父の生活も聞くことなく見送ってしまった。
いま手元に残る「市民の記録」だけが、幼い私の周辺で起こった戦争の悲惨さを伝える一冊となった。庭の壕の上で、二年目のコスモスが花をつけたかどうかは今となっては知るよしもない。  

午後、新発田城址に向かった。広い芝生の向こうに、堀の石垣が見えた。大手門と隅櫓の白壁が日に映え、金沢城でも見た海鼠壁の外観が美しい。ボランティアの人が門の二階櫓へと案内してくれた。説明のあと、床の石落としの仕掛けを開けてくれる。覗き込むと、遠く地面からの日の反射に、かすかな眩暈を覚えた。そろそろ戻ろう。タクシーを呼んで、途中酒造元で夫への土産を買った。            
白新線は意外に込み合っていたが運良く窓側に座る。目を凝らして外を見続けたが、廃線も、その中に咲くあの赤いコスモスのひと群れも一向に見えてこない。日が陰りはじめ暮れ色に紛れてしまったのだろうか。それともうたた寝で見落としたのか。沿線に住宅が増え田園風景が遠くなってゆく。

あのコスモスが群れ咲いていたのは何処だったのだろうか。滔々と流れる阿賀野川、風雪を刻む大手門の梁、パソコンを開きわけもなくその字面に惹かれた阿賀北の風景を思い出しながら、あの日の外出は、忘れものを取りに行ったような一日だったと、今、思う。


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