見出し画像

第四回阿賀北ロマン賞受賞作②随筆部門 『から寿司』渡会雅魚

この記事は新潟県の阿賀北エリアの魅力を小説で伝えてきた阿賀北ロマン賞の受賞作を紹介するものです。以下は渡会雅魚さんが執筆された第4回阿賀北ロマン賞随筆部門受賞作です。2020年より阿賀北ロマン賞は阿賀北ノベルジャムにフォーマットを新たにし、再スタートしています。<詳しくはこちら>公式サイト

小説創作ハッカソン「NovelJam(ノベルジャム)」初の地方開催を企画・運営しています。「阿賀北の小説 チームで創作 敬和学園大が初開催 筆者と編集者、デザイナー募集へ」 (新潟日報)→ https://niigata-nippo.co.jp/news/local/20200708554292.html

『から寿司』渡会雅魚


早春の昼下がり、主のいなくなった畑の片づけにやってきた奥さんが、

「供養と思って召し上がって下さい」と言って、酒瓶を差し出す。
「お猪口も湯呑みも持ってきてないですから、そのままどうぞ」
遠慮なく戴く。
一口飲んだだけで、美味さが分かる。
「このお酒は?」
「主人の田舎のもので、晩酌のとき、これがないと機嫌が悪かったんですよ。もう飲む人がいなくなったお酒は見ていると寂しくなりますから捨てようとしたんですが、捨てるならここがいいんじゃないかと思って――」
ラベルを見ると『菊水の辛口』と書いてある。コクがあって、飲んだ後、口中にわずかに果物のような香が残る。
「よろしかったら、これもどうですか?」と、手提げ袋からタッパーを取り出す。
「これも主人の大好物で、そのお酒が隠し味として使ってあるんです」
見た目は普通の南蛮味噌なのだが、口に入れた瞬間のほんのりした甘さ、後から広がる唐辛子のピリ辛感に酒の味が加わっている。
「あー、美味いです。この酒に合いますねえ」
「主人はこれこそふるさとの味だと言って、春夏秋冬、手放さなかったんです。冷奴にお茶漬け、パンにまで塗ってましたからねえ。こちらではなかなか手に入らなくて田舎に帰る度にまとめ買いしてたのですが、最近は通販で取り寄せることが出来るようになって喜んでいました」
Nさんの故郷の、Nさん好みの味を飲み食いしながら、ふと私はNさんという人を誤解していたのかもしれないなと思った。

「よー、飲んでいかんか」と、掘っ立て小屋から声がかかる。
竹林から切り出した青竹を柱に、屋根はビニールの防水シート、小屋の内には食卓が置かれ、ラジカセから演歌が流れている。椅子に座ったNさんの顔は、もう赤鬼のようになっている。
「いやあ、せっかくだけれどすみません」と、私はハンドルを握る恰好をする。
「飲酒運転は一発で僕ら、クビですから」
「しょうがねえなあ。車なんか置いとけばよかろう。わしはあんたと一緒に飲みたいんだよ」と、Nさんは空のコップにさらに酒を注ぐ。
町会議員に働きかけて開いた町民農園。開所以来、隣同士の区画で十数年、Nさんの髪はいつの間にか白くなり、剃らなくなった髭も白くクシャクシャに顎を覆っている。定年退職者の多い農園で、酒盛りは頻繁、土手の桜が咲けば飲み、里芋を掘れば芋煮会、何かにつけて杯を交わす。けれど、Nさんはそうした仲間にあまり加わらないで、一人で飲むことが多かった。
酒癖が悪く、飲めばくだを巻いて誰彼なしに絡み、気に入らないことがあれば一升瓶を抱えて大暴れする。それに、Nさんには左の小指がない。たまに鋭く光る眼光といい、指といい、尋常な過去を持った人には思われなかったから、親しく付き合うには少々ためらわれた。
生まれが越後新発田と聞いて、私はNさんを講談に出て来るような大酒飲みの剣客堀部安兵衛に重ねていた。
トマトにキュウリ、茄子にカボチャと、夏野菜の苗を植えるためにスコップで天地返しをしていると、Nさんが身体をよろめかせながら小屋から出てきて、私がひっくり返したばかりの土に馬のような小便をする。
マイッタなあと内心ムッとしながらも、苦笑いして見上げる私にNさんは真面目な顔で言う。
「こいつが一番いい肥料になるんだ。何しろわしのはアルコール入り、栄養分たっぷりだからな。昔は肥料と言えば人糞だったんだ。葱なんか見事に太くなったもんだ」
確かにその通りかどうか、その年の私の無農薬有機栽培の畑は天候にも恵まれ、大豊作だったが、何だかNさんの小便の臭いがするようで、あまりいい気持ちのするものではなかった。所構わず小便をし、いったい私の畑にどれほどのNさんのアンモニアが滲みこんでいるかしれたものではない。
当たらず触らず、必要以上の付き合いは御免こうむってきた相手。
けれど、そのNさんが久しく畑に姿を見せなくなると、妙に気にはなっていた……。
今は白髪混じりの、若い頃はさぞかし眼が覚めるような美貌であったろう奥さんが淡々と言う。
「肝臓がやられてたんです。あの人は酒のせいだというけれど、それ以上に私は刺青のせいだと思ってるんです」
私は、Nさんが夏でも半袖にならないことを思いだした。
「亡くなる一週間程前、『畑に連れてけー』と怒鳴って、私の肩につかまって家は出たんですが、ここまでたどり着けなかったです。……。堅気になって、この畑のお陰でギャンブル三昧からも脱け出せたわけですから、畑様々なんですよ。でも、もうお終い……」
極道と町民農園――私にはそれまで何だか奇跡的な結びつきとしか思えなかったのだが、畑の一角に供えられた『菊水の辛口』と南蛮味噌にふと思い出す。
例の如く酔っ払ったNさんが、妙にしみじみと語ったことがある。
「俺のオヤジは戦犯として殺された。戦前は村の誇りとして鼻高々、それがあんた、戦後は子供の俺まで後ろ指だものな。だから、俺がこんなふうになったんだと開き直るつもりはないがだ、しかし――あんたは本間中将を知っておるか? 今村均陸軍大将は?」
「両方とも知ってますよ。伝記を読みましたから。どちらもただの軍人じゃないですね」
「そうか。あんたとは気が合いそうだ。一度じっくり飲もう。俺のオヤジも本間中将を尊敬しておった。それから、今村均陸軍大将もだ。二人とも俺の田舎の産ではないが、縁は深い。あの二人の人格を作り上げたのは新発田の酒だと俺は思っておる」

『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』(角田房子著)
私はこの本に描かれた一人の軍人に敬意を抱いている。
英語が得意で、視野の広い、国際感覚を身に付けた男。ただの軍人ではなく、詩歌にも秀でた文化人。
太平洋戦争におけるフィリピン攻略戦。軍司令官としてマッカーサー率いる米軍を一旦は撤退させるも、バターン半島での敵の猛反撃に七万余の捕虜を他の場所に移送中多数が死亡、いわゆる『「バターン死の行進』の責任を問われて軍事裁判に。
その法廷に証人として出廷し、毅然としてこう言いきった妻に私は心が震える。
「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています」
その言葉に、裁判官も検事も感動の涙を流したというではないか。
『恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ』
銃殺刑に処せられた彼の辞世の歌。

そして、『責任 ラバウルの将軍 今村均』(角田房子著)
フィリピンの現地住民のみならず、敵国の連合国側からも称賛された今村均陸軍大将の占領地での軍政能力の高さと心根に私は感服せざるを得ない。
夜尿症を患い、夜何度も便所に立つことから睡眠不足に陥り、授業中教官に怒鳴られながらも優秀な成績で陸軍士官学校を卒業。
太平洋戦争開戦後、インドネシアを攻略する蘭印作戦を指揮、わずか九日間で約九万余のオランダ軍と約五千のイギリス・アメリカ・オーストラリア軍を無条件降伏させる。その際、彼はインドネシア独立運動の指導者スカルノら政治犯を解放し資金や物資の援助を行っているし、現地民の官吏登用や、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額に、学校の建設、略奪等の不法行為の厳禁、捕虜の高待遇など寛容な軍政を行った。
後日、インドネシアの状況を調査しに来た政府高官はこう指摘する。
「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」
「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」
私は詳らかに調べたわけではないが、今村の軍政は他の占領地で行われた強圧的なそれとは一線を画していたのではないのかと想像する。
だからこそ、戦後、今村はオーストラリア軍による軍事裁判判決で、禁錮十年、オランダ、インド軍による軍事裁判判決では実に無罪。
しかし、禁錮十年の刑を巣鴨拘置所で送っているとき、
「未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない」として、マッカーサーに直訴。
マッカーサーをして、
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言わしめる。
パプアニューギニアのマヌス島から刑期満了で日本に帰国してからも、彼は掘っ建て小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続け、死地に赴かせる命令を下した部下に出来る限りの援助を施す。そんな今村に元部下を騙って無心をする者がいる。そんなとき、彼はだまされていると承知しながらも敢えて拒みはしなかったというエピソード、そして、聖書、『歎異抄』を愛読していたという今村に私は彼の器の大きさを思う。

本間中将や今村陸軍大将がNさんのように、新発田の酒で育てられたと言い切る自信はないが、しかし、阿賀北の風土と歴史が若い二人に何がしかの影響を与えていたのではないかと私は推測する。
江戸時代、譜代大名、親藩のひしめく中の外様大名。それはまるで戦時中の日本の置かれた立場、位置のようだ。
また、領土である現在の新発田市、阿賀野市、加茂市、南蒲原郡の大半を占める蒲原平野は元々水草の生い茂る湿地帯で、そのままでは農耕に適さない。近代文明の糧である石油に不足した戦時下の日本と同じではないか。
そこを豊かな穀倉地帯に変えた新発田藩とその領民。
経済的発展に加えて、新発田藩主は代々学問も奨励し、その文化の繁栄ぶりは京風の廻遊式庭園である清水園(私はその苔むした緑陰の小路が好きだ)にも見て取れる。
そして、幕末の戊辰戦争。新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれずやむなく加盟。しかし、外様だから徳川幕府に義理立てする必要などないという理由もあったろうが、何よりも領民の強い抵抗にあって参戦はしないところが新発田藩らしいと私は思う。ただそのことによって、河合継之助率いる越後長岡藩などからは裏切り行為と見られ、後に周辺地域との間にしこりを残すことになるが――。
そんな新発田藩の歴史、とりわけ領民あっての藩という発想は、若き本間中将や今村陸軍大将の血肉に酒のように沁み込んでいったのではないのか。
本間中将も今村陸軍大将も共に新発田の生まれではないけれど――本間は陸軍士官学校卒業後に新発田連隊配属、新発田歩兵連隊の将校集会所でともに陸軍士官候補生の採用試験を受けた今村は新発田中学出身。若き日の多感な一時期を二人は新発田で過ごした。
戦争を美化するつもりなど毛頭ないが、長岡に山本五十六がいるように、新発田に本間中将と今村陸軍大将、郷土にゆかりのある一人の人間として私は誇りにしてもいいのではないかと思う。
ふるさとを戦火に巻き込んだ河合継之助に対し、地元でも賛否両論がいまだにあるのに、山本五十六、本間中将や今村陸軍大将を誹謗中傷するような文献を私は目にしたことがない。

「これ、ご主人と一緒に空にしていいですか?」と問う私に、奥さんが微笑む。
「どうぞ、どうぞ。主人、隣になかなかいいヤツがいて一度くたばるまで飲みたいと言ってましたから、大喜びでしょう」
私はラッパ飲み、Nさんは土を通してジワリジワリ。
十坪足らずの家庭菜園から繋がる阿賀野の空。
「いい所ですよね、新発田は」
「そうですかねえ、私には何もない所で」
いや、いい所ですよ。酒と肴が美味い」
「肴ですか?」
「から寿司、私はあれが好きなんですよ」
「あー、あれですか。米の代わりにおからの――どうしてでしょうね。米所なのにおからなんて」
「だから、いいんです。米に困らないところでは贅沢な寿司ですよ」
今日は車を置いて帰ればいいやと、日の高いうちから腰を据えて飲み始めた私。
もっとNさんから戦犯として処刑された父上のこと、本間中将や今村陸軍大将についてNさんはどう思っているのかきちんと聞いておけばよかった……、そんなことを冷酒が回って来た頭で思い巡らしながら、無性にから寿司が食べたくなった。
本間中将も今村陸軍大将も食べたであろうから寿司。
「あの世に行く前のオヤジに食べさせてやりたかったよ」と、Nさんがボソッと呟いたことがあるから寿司。
堀部安兵衛がただの飲兵衛でなかったように、Nさんもまた畑のNさん、入墨者のNさんとは違った一面を持っていたに違いないとあらためて思う。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?