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松脂(まつやに) シロクマ文芸部

閏年は奇妙な事件が多い。

そのマンションはひっそりとしていて、廃墟だと言われれば信じたかもしれない。古いマンションの古びた一室。そこに真新しい被害者がいた。
その指先は松脂の匂いがした。
投資会社を経営する被害者に松脂を扱った記録はなかった。部屋からもそのような形跡は発見できていない。
この部屋は借り受けたもので、彼の自宅ではなかった。
別居中の妻はパリ滞在中で、帰国した形跡はない。
この冬の時期、松脂は分泌されないことを考えると、誰かが持ち込んだか、あるいは自らそのような製品に触れたとしか考えられない。
 
死体が発見される前日、一人でクラシックのコンサートに出かけていることがわかった。
パリ交響楽団の公演は大盛況で、チケットは取りづらい状況だったらしい。別居中の妻の存在が俄かに浮かび上がるが決め手はない。
妻の知人のオーケストラ団員を被害者が楽屋に訪ねていた。しかし会えずに住所を残していったことがわかった。この経緯を考えると、チケットはここから出たものだと考えるのが妥当だろう。

さらにもう一つの可能性が浮かび上がった。被害者は高価な楽器を共同購入し、それをレンタルすることで利益を得るという投資ビジネスを展開していた。
ストラディバリウスやアマティやグァルネリウスなどの名器は一台数億円の値がつく。それを購入するにあたり、出資者を募る訳だ。
そのレンタル先を探すのは、さほど難しいことではなかった。
このような手法は航空機で既に用いられているが、楽器は維持経費がさほどかからない上に、売却しての資金回収が容易な上にロスも少ない。

周知のように、バイオリンのような弦楽器を弾くための弓には馬のシッポの毛が用いられる。それに松脂を塗ることで抵抗を高めて音を出している。
しかし、そのパリの楽団員はその日、被害者を訪ねてはいなかった。
一方、事業への投資者は名だたる富裕な人物ばかりで、その周辺まで洗い出すとなると、かなりの時間を要しそうな空気だった。厭でもこれが我々の仕事だ。
 
しかし、意外なところから犯人が判明した。CASKいわゆるお酒を貯蔵するための良質な樽は使い回されるのが常である。シェリー酒を貯蔵していたものを、その後ウイスキーに用いるようなことは頻繁になされている。この樽にも松脂が使われることがあることがわかった。
被害者が扱っていた樽の使い回し業は堅実に利益を上げていた。
そこに関わっていた中間業者の一人が被害者を樽に詰めて運び出そうとしたが、体が大き過ぎて入らずに断念していた。その時、指に松脂が付着したものと思われた。取り分を減らされたことに腹を立てての犯行だった。
倉庫から樽を持ち出すところが、カメラに捉えられており、盗難の被害届からこの犯行が明らかとなった。何が幸いするか、全く見当もつかない。
 
もしかすると、演奏家も妻から何某かの命を受けて来ていたのかもしれない。この二人の関係は解明できてはいないが、別居していることにそれなりの理由があるのだとすれば、この事件の一番の幸運は妻に転がり込んだのかもしれない。
    1256字


小牧部長さま
今週もよろしくお願いいたします。


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