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わかるだけで愛おしいから

しかし皮肉な話だけれど、考える暇もないというのはひとつの幸福だとつくづく思う。判断を保留するしかない、薄っぺらく生き抜くしかないほどの忙しなさは、ある場所をすり抜けると、複雑な紋様をみえなくさせて、ただ目の前の一喜一憂だけが全てだって思うようになる。だらしのない感性がわかりやすく殺される。
近ごろこんなことばかり書いているのは、忙しいことを自慢したいのかもしれないとおもって笑えてくる。でもほんと、それ以外心に書くことがないのも確かなのである。
とかいいつつ今日は、ひょんなことから小さい頃の友人とやりとりが進んだ。好き勝手に話し続ける彼女との距離感は遠くて、だからこそ相手も安心してというか、何かを許して歯止めなく自分勝手で、それがたまらなく愛おしかった。
人のことが考えられないくらい自分勝手だったり、みずからの心の歯止めが効かなくなって体調に異変が出たり、その逆だったり、軸が煤けてしまって自分でもわからなく動いてしまう人を、ずっと愛おしくおもうのは、まずわたしがそうだからだし、自分の意志で生まれたこの世じゃないのに、心まで操れるわけないとおもうから。
「今だけ全て忘れて 笑わないで受け止めて 照れていないで」
機会あってこの曲を聴いて、あまりに有名な歌すぎて自分とは無縁だと思っていたけれど、この歌詞は相当すきだな、普通に、と思う。だって結局そんなふうに思いながら、わたしたちは本当のところで触れ合うことになる。少なくとも、わたしはその時この言葉みたいに、言い訳みたいに言葉をかさねるだろう。だから、「大袈裟だけど受け取って」なのだ。
もちろん、わたしがわたしのために書く、これらの言葉たちもまた、そうなのだ。

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