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あなたは優しすぎて、その分だけだめなんだよ

病院の位置をご老人に尋ねられて、随分と遠かったから逆の方面に歩いていってくださいね、と教えたら、こっちであっているんだと思うんだよな、となかなか頑固だった。なので少し向こうに行くと交番があるので尋ねてみたらいかがでしょう、と問いかけるも浮かないご様子。ここに行きたいんですけど、と財布から住所が書かれた紙を出された時点で、わたしは思わず「あ、ここなら大丈夫です。一緒にいきましょうよ」と口に出していた。
歩いていると、老人はぽつぽつと、急に帰り道がわからなくなってしまう、ということ、いままでも何度かこういうことがあったことを話し出した。
「景色は覚えてるんだけど、つながらないんだよなぁ」と照れたように、でも少し怒ったように笑う老人の感覚が、そのまま小さなころあったことを強烈に思い出して、そうか、人は還っていくんだな、となんとなく思う。
最後の曲がり角になって、「ここは知ってる!」といいながらも逆の曲がり角を行こうとする彼を、「いや、ちょっと携帯で調べてみたんです。一回こっちのほう行ってみませんか?」と正しい方に連れていくと、「ああ、そうだ!そうだ!」と家の真ん前になって閃いたように笑っていた。

わたしは彼と色々な話をしながら、優しいということはなんて恐ろしいのだろう、と怖くなってばかりだった。「家内に「あんた、何やってんの!」と怒られちゃうね。随分前に亡くなっちゃったんだけど」と話す老人の優しさに向けた心の開き具合だとか、届けた先の、ずいぶんと立派な豪邸から大きな声で「本当にありがとう!」と何度も叫び続けていた姿の、優しさに対する崇拝に似た感謝。
普通人にいいことをしたら気持ちよくなるものだろうし、わたしのしたことはいいことに値することだと思うけれど、老人の姿が見えなくなってから、わたしは「あぁぁあ」とうめきながら全身が気持ち悪くなってしまった。
自分の優しさに開かれた心があまりにも怖かった。老人の財布につまっていた1万円札だって、豪邸だって、その気になれば、だった。ならないけれど、けれど困っている人に対しての優しさとは、そこまでの無防備を生んでしまうのだ。暗闇に落としこむのが、そんなにも容易いのだ。

わたしはわたしの優しさを、良いところだと思いながら疎んでもいる。中学生の頃、「あなたは優しすぎて、その分だけだめなんだよ」と言われたのがずっと残っている。
わたしはどれだけ今まで過ぎた優しさを人に向けてしまってきただろう。暗闇に最も近い優しさを、繰り広げてきただろう。なんのために?好かれたいために、だろうか。
病院近くの川を渡ったとき、「きれいですね、桜」とわたしがいったら、そんなものは何十年もみてきたのだ、というように「そうだね」と彼が言って、瞬間なんだか涙が出そうになった。彼が暗闇に飲まれないまま、健やかに奥様の元へ還ることをわたしは心から願っている。
普段しないけれど、誰もいなかったし、シャンとしている自分も嫌で、地面に座ってバスを待ち、街に出た。
昨日あった20歳前後の女の子は、酔いにまかせてわたしが優しさと想像力だけじゃ生きていけないんだって言ったら「なんでなんで」って、ほんとうに不思議がっていた。その時は億劫になったし、話すべきでもないから、なんだか適当に話をしたような気がするけれど、本当に、世界はもっと複雑で、闇はもっと近い。

「銀色のナイフで春を切り刻んで
今日はどんな味の退屈を食べたの?」

どうも最近、思い出すように昔好きだった曲ばかり聴いている。
忙しないから、かもしれない。
明日からまた仕事にむかう。退屈の味をずいぶん忘れてしまった。

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