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ロマン主義のあとで何ができるだろう

この記事は、わたしが友人と配信しているポッドキャスト「たるいといつかのとりあえずまあ」内で行っている好きな短歌を紹介し詠み合うコーナーを書き起こし、要約したものです。今回は青松輝さんの短歌を取り上げさせていただきました。

「たるいといつかのとりあえずまあ」1月上旬のラジオ「ハンターハンターと投壜通信」

今回の歌
生きていたらときどき訪れる奇跡、たとえばシャワーに目を閉じること
/青松輝『4』(ナナロク社)


たるい)この上の句と下の句の飛距離が好き。「生きていたらときどき訪れる奇跡」って聞いて思い浮かべる、カーテンの隙間から見える朝日とか、テレビの星座占い一位とか、少しの幸福みたいなものじゃなくて、目に水が入って「うっ」てなることを「ときどき訪れる奇跡」とする考え方の転換というか飛距離に惹かれる。
なんだか、この歌は拒んでいると思うんですよね、「わかる〜」っていう共感を。
短歌ってそういうことなのかもってすごく思ったんだけど、誰もが共感できるエモさを歌うだけのものではなく、エモさの中に「この感覚はわたしにはわからない」って感じたり、逆に誰もが理解できそうになくても「確かにわたしにはわかる」って感じる、そういう距離感で作られるものなんじゃないだろうか。誰もに開かれていながら、それでもはっきりとした「わたし」があるもの、それでもはっきりとした「あなた」に向いているもの、そういう歌が、良い短歌っていうことなんじゃないか、と思ったんだよね。その「孤独感」と言えばいいんでしょうかね。「な〜、わかるよな〜」っていう共感を拒む感じ。

いつか)それはなんか大衆性を拒んでいるって言えるの。

たるい)大衆性って言ってもいい。そこに短歌、というか言葉を向けるべきじゃねえよなあ、と思っている。言葉?芸術?文化?全部。
この短歌の距離感、他の歌も結構そうなんだけどさ、この拒絶感が冷たくって、この短歌の装丁青一色なんだけど、なんかそことリンクしている。孤独から発されている感じ。

いつか)べつに共感を覚えて良いと思っているわけではないという事でしょ、必ずしも。

たるい)なんていうんだろう、ちゃんとその、この人の歌であろうとするあがきみたいなもの、ありがちにならないようにするための動きみたいなもの、そこに良さを感じているのかも。

いつか)これは、なんかその、その書いた人間に心を揺さぶられているの?

たるい)あ~、

いつか)この言葉の奥の人をみているの?

たるい)ぼくは、うん、人をみています

いつか)なるほどね、なるほど。この言葉が自分に与えられているものじゃなくて、この言葉を書いた、1個奥の人間をみているんだね。

たるい)うん…この人の、そうだね、人をみているかなあ。こういう短歌を書きたいと思うことに対して、そうだよな、そういう態度だよな、って思ったかなあ。
そう、だから、歌に直接共感するのではなくって、この短歌の飛距離が持っている孤独感?拒絶感?冷たさ?一人だ、っていう感じ。すごいそういう言葉を書く態度をいいなあと思っている。

いつか)自分の手札にないものを観ている感じがするの?

たるい)そういうわけでもないかなあ。

いつか)確かに冷たい感じはするけど

たるい)青松さんの短歌には、絶対に「わたしとあなたが一緒の世界にいてよかったね」っていう歌がないんだよね。例えば一番有名なやつだけど「数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4」というのも、恋人とわたしのコミュニケーションが半分とれなくなった状況っていうのが書かれているし、恋愛の歌はあるんだけど、全部ひとりなんだよね。冷たい。
なんか、短歌の面白みの一つはその冷たさを生んでいる距離にあるのかも。

いつか)距離か

たるい)「ときどき訪れる奇跡」に「シャワーに目を閉じること」が出てくるんやっていう。その風呂敷の広げ方と出口の狭さ、というところに他ならぬ青松輝さんがいて、あ、他ならぬわたしに届いたんだなあって思うんだなあ、っていう感じ?

いつか)なるほどなあ、何か離れた距離の間を想像することが豊かっていうことなの?そうとも違う?

たるい)う〜ん、間を想像することは豊かだなあ。う〜ん。いや、どうやって、どうやって「わたし」を獲得するのか、ということかもしれない。つまり「きらきらひかる」とか言っててても、ありがちな57577を作っても、「これがわたしなんだ」ということを見出すことができないじゃない。

いつか)やっぱりその自分のみる世界を提示するというところに強く惹かれるということなんですか?

たるい)う〜ん、自分を表現したいってわけでもないけれど…。
結局、意味の断絶がなければ言葉っていうのは伝わってしまうんですよね。

いつか)うんうん

たるい)音楽はたとえば不協和音を織り交ぜることで観客の気持ちよさみたいなのを敢えて崩していくことができるじゃない。で、言葉でそれを可能にするのは、通じる意味と通じる意味の間にある距離感だと思うんだよね。意味がつながっていれば音楽以上に簡単に理解できてしまう。日本語みんなわかるから、リテラシー高いから。
不協和音がない音楽は聞きやすいし、名曲もたくさんあるけれど、結局そういう特殊な和音だとか、耳慣れない和声を用いることによって、その作曲家がその作曲家であるということを意識できたわけじゃない。この名曲あふれる世の中で何ができるだろう、この圧倒的な才能が蔓延るロマン主義のあとで何ができるだろう、という中でドビュッシーやラヴェルやシェーンベルクっていう新しい和音の作曲家が生まれたわけじゃないですか。その感じというか。

いつか)なるほどね

たるい)かなあ、今喋っていて言語化されていくけどね。

いつか)それは、世の中に認めてもらうために?自分の幸せのために?

たるい)それは、この時代で、わたしがわたしとして美しくいるためにだろうなあ。わたしじゃなくなってしまうんじゃないだろうか。その、それこそナオト・インティライミになったりGreeeenにはなれないじゃないですか

いつか)ちくちく

たるい)まあコブクロでもいいんだけど

いつか)ちくちく

たるい)そこに自分を見出せないんですよね。わたしは。で、短歌っていうものは形式があるからこそ、そういう、いわゆるありがちみたいなところから、自分を解き放てる可能性っていうのをすごい秘めてるんだなっていうことを、青松輝さんの歌集を読んで思ったんだよね

いつか)なるほどね。それがいわゆる「とがり」とはちがうんだよね

たるい)「とがり」っていうと自分の事ばっかって感じかなあ。「とがり」っていいことだとおもうけどさ。

いつか)その、やっぱり難しいよね。「他ならぬわたし」っていう態度と「分かる人にだけわかればいい」っていう態度は似てるようで違う気がするんだよね。そこがすごく難しいなと思っている。表裏一体だと思っている。

たるい)表裏一体だなあ

いつか)ちゃんと自分の提示だけで終わってなくて相手がみえているかみえてないかみたいな話かもしれないけれど。
わかる人にわかればいいっていうのは、そういう楽しみがあることも重々分かった上ですごく傲慢で何かを放棄している気もするんだよね、責任を。

たるい)うん。いやでもさ、でも一方でなんだけどさ、あの、分かってもらおうと
するっていう動きはバレるよね。何かそれもはしたない気もするよね。

いつか)なるほどね

たるい)要は、うん、なんかこう、僕の中では、やっぱりその、あの、切実であるということが、真摯であるということが一番大事だと思うんだよね、要は、より広い人へって思うこととか、そういうのは第二義的というか、あんまり最優先にするべきではないというか、最優先にするべきは、自分がそこに本心か、というか

いつか)そうだね、そこだと思う本当に

たるい)なんかその本心の結果としてその人の作っているものが分かりにくくなるかもしれないし、すごい分かりやすいものになるかもしれないけれど、いずれにせよ自分じゃないものをやってしまうのが、危うい、というかまあそれはちょっと違う、よな、っていうところなんでしょうかね

いつか)いや、本当にそうだと思います。そこに着地するんだと思いますよ。

たるい)何を持って信念でバット触れているのか、っていうところは難しいけどね。

いつか)面白いねえ

たるい)今回もまた面白いですねえ

いつか)面白いなあ、え〜買います。

たるい)買うんかい

いつか)いいだろ。


今回の歌
生きていたらときどき訪れる奇跡、たとえばシャワーに目を閉じること
/青松輝『4』(ナナロク社)


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ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
/笹井宏之『ひとさらい』(書肆侃侃房)

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赤がすき ライブ帰りに来た道を雑にたどって待つ信号の
しっぽだけぶれてるphotoのそうやってあなたに犬がそばにいた夏
入り口へカートを取りに戻るときスーパーにいることがたのしい
加速して高速道路へなじむとき時はゆったり時だけをする
/岡野大嗣『音楽』(ナナロク社)


ポットキャスト「たるいといつかのとりあえずまあ」
作家の垂井真とオーケストラ奏者(Vn)の山本佳輝(ラジオネーム:いつかのコシヒカリ)。東京藝術大学で出会った1997年1月31日生まれのふたりが、お互いの活動の近況や面白かったコンテンツの紹介などを通して、今世をとりあえずまあ楽しもうとしてる番組


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