見出し画像

感度カンスト!触角(触手)が導く境地。

 パスカルが人間を「考える葦(アシ)」と評したことは的を射ていて、悩み考えてこそ発展できたのがヒトって生き物だ。
 ホモ・サピエンスの特性はまさに脳の進化にあって、筋力や牙を失ってでも“思考”という武器を獲得したことで種を拡大してきたわけだ。

 とはいえ考えるから苦しむのもまた人間。
 ヒト自身がまだ思考という行為に振り回されている証拠に、よく考える人間ほど自殺率や鬱発症率が高い事実がある。
 我々が精神病と名付けた心の傾きは、思考能力の強化に比例して増える。
 現状ただでさえ自殺者が増えすぎて困っているのに、これ以上人間が考え込むようになってしまったら‥‥あまりに恐ろしい。
 人間という生物においては、今よりさらに考える生物に進化するのは危険すぎる賭けだ。

 それでも脳は進化し続けて止まらないのに、どうすれば良いんだよ!
 そんな思考の迷宮に囚われた我々にブルース・リーは言うのだ。
「考えるな、感じろ!!!!」
 ヒトはヒトである前に生物。
 考える前に感じるもの。
 哲学の第一原理「我思う故に我あり」とは、懐疑主義を突き詰めたデカルトが到達した「この世の情報は何もかも疑うことができるけど、それを疑ってる自分自身だけは疑いようがなくそこに存在しているよね?」という話。理屈で疑いようのない感覚だから、これは真理に最も近い言葉なのだ。

 そう‥いくら考えても人間は結局、思考の源泉と解答の決定を「感覚」に頼っている。
 それなのに思考能力ばかりが発達し社会が複雑化していくものだから、処理能力を越えた情報に当てられ続ける!理解を越えた社会で我慢を続けていれば、いずれ精神が摩耗して人類全体が病んでしまうだろう(ちなみに日本においては現状、人口の2割以上が精神病に罹患済みだ)。
 だからヒトは自滅する前に戦争を起こし定期的に変革することで、政治上で生じた膿と大衆の気分を何度もリセットしてきた‥‥でももうじきその方法には頼れなくなる。科学文明は一度のあやまちで人類を絶滅させかねないほど成長してしまったからだ。
 突如、平和的に社会を継続していく必要に駆られてしまった人類!
 複雑な社会を乗りこなすコミュニケーション能力や感受性を一刻もはやく獲得し、何事もない日々を病まずに乗り切れるように進化せねばならない…
 そんなわけでヒトが安全に次のステージに成長するためには、この複雑で退屈な世界を解析し、刺激的に変えてくれる“感覚器官”を手に入れたいところだ!

 さいわい人類の脳は3万年前から小型化しつつ知能を上げ続けている…こうして洗練され続けた脳はいつしか性能を持て余すようになるが、大きな環境の変化が無ければ目や耳や鼻を巨大化させたり舌を増やしたり皮膚を光らせたりする必要もない。
 すると脳は感覚神経を最大まで研ぎ澄ませるのだが、今の人体では限界値は低い。
 だから性能の余剰を割り当てるための新たな器官を生み出すのだ。
 それは神経が密集した繊細な器官で、脳に近くて守り慣れた頭部から生えてくる。ついでに働きを髪の毛に邪魔されないよう外に跳ね出して…
 触角(触手)だ。
 それは動かすことで人間の6感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、磁覚)を補強し、世界から受信する情報量を劇的に増加させる高感度センサ。

 なにも算数が上手くなることだけが脳の進化じゃない。
 人は感覚を強化することで、もっと刺激的で繊細で、希望的で絶望的で、ユニークでホラーに世界を変えてしまうことができる。
 安心で退屈な社会生活では、誰もが望むことだろう。
 本記事では触角(触手)を獲得したことで進化した世界観を獲得した未来人に便宜上『触種(フィーラリアン)』と名付け、その生態を解き明かしていく。

世界を変える触角(触手)

 触種は6感同士を強化・統合し「感情の色」とか「動きのニオイ」とか「言葉の触感」とか「味の音」とか、我々が処理しきれない密度の情報をするりと呑み込む。

 ゾウはニオイで「量」を図ることができるし、
 犬は嗅覚・猫は聴覚で「距離」を知る。
 高度に発達した1つの感覚は、他の感覚に影響し共鳴するわけだ。
 となれば全ての感覚が鋭敏になった触手は、現生人類が“共感覚”と名付け特別視している“感覚の連結”を獲得する
 そしてその複雑すぎる体感を共有し実用レベルでコミュニケーションツールにしてしまう。

 特筆すべきは第6感「磁覚」の発達。これは方向音痴を根絶するだけでなく、あらゆる面で感覚的な取捨選択を手助けしてくれる。
 程度の差こそあれ動物は地球の磁場を知覚する能力があり、気候変動や災害の予兆を察知するが…アンテナ状の触角(触種)はその特性をとても強化するのだ。それほど鋭敏になると、電波や電子の働きすらなんとなく理解してしまう。 
 すると物事を思考する上で、環境や状況を無意識下で具体的に考慮できるようになる。
 向こう数時間の天気は的確に言い当ててしまうだろうし、幽霊や超常現象の正体は容易く見抜いてしまうだろう‥‥いわゆる「勘」と我々が呼ぶ、言語化できないほど大量の感覚と豊富な経験則が結実して生じる推理能力が、予知能力まがいの域まで超強化されるのだ。

 彼らはもう一つ超能力が使える。
 といっても無闇に力場を生じたり、テキストに置換された思考を他人から受信するような魔法とは違う‥‥“テレパシーレベルの超コミュニケーション能力)”だ。
 「彼女が何を訴えているのか言葉がなくてもわかる」「目配せだけでコンビネーションを発揮できる」程度のテレパシー(アイコンタクト・阿吽の呼吸)なら現生人類でも行使できる。だが触角(触手)があればこの能力をもっと高次元に昇華できるのだ!
 『触種』は全個体の感受性が極めて高いために言語を発達させずとも(なんなら退化しても)深いコミュニケーションがとれてしまう。人類としてはカンスト気味の感知能力を持つ触種同士であれば、触角(触手)同士を触れ合わせるだけで大概のコミュニケーションは事足りてしまうのだ。
 きっと現生人類の単純な感情や未整理な思考など面と向かえばたやすく読み取られてしまうだろう。

 生物は自分の感覚器官の性能の範囲でしか世界を知覚できないので、あなたの眼の前にはあなたが認識できていない情報が確実に存在する。
 しかし彼らは触角(触手)の獲得によって、隠された世界の情報をいくらか開放できたわけだ。
 すると人間は、大量の学習材料を手に入れて「天才肌」ばかりになる。
 触角(触手)を持つ人々は“感覚的に物事を理解する”能力が発達するので、何をやらせても飲み込みが早いのだ。
 とりわけ感性で戦う競技にはめっぽう強く、特定の運動種目や芸術分野で凄まじい実力を発揮する。
 『触種』は物事の心(コツ)を感じ取る天才なのだ。

 ところでこの記事では触種の持つ器官を触角と断定せず、いちいち「(触手)」と補足しながら書いている。
 これは触角と触手の区別が難しいためだが、そもそも区別する必要もない。
 ヒゲのように細く長い器官なら触角だし、筋肉量が増えて太く力強く物を掴むことができるようなら触手というだけだ。
 どんな形であろうと頭部についていることには変わりなく、神経の数も同じ。
 ただそれだけに、触手というほど肥大化したそれは器用で便利な代わりに、感覚は多少大味になるだろう。
 このため個体差が生じ、世界の感じ方は当然多少違う。
 こればかりはどんな人種もかわりないのだ。

触種たちが作る悲しくも美しい世界

 我々が触種たちの世界観を理解するのは難しいが、誤解を承知で触種という生物を言語で表現すると「理解力が向上したために、無知の知を悟った人類」ということになる。

 無知の知…「自分が何も知らないということを自覚している分だけ、知恵者を自称する連中より自分はちょっとだけ物知りなんですよ!」というソクラテスの言葉。孔子も似たようなことを言った。

 彼らの感受性は「他者(自分とは異質な世界観を持つ存在)の内面を感知してしまう」レベルまで発達している。
 自分と他者の違いを決定的に把握してしまうがゆえに「わかりあえなさ」を痛感するのだ。

 十人十色とはよく言ったものだが、これを心から理解できる人間はとても少ない。
 だから自分と異質な存在は嫌悪するし拒絶したくなるし矯正したり虐めたり殺したりしたくなってしまう。戦争だって起きようってものだ。
 それは現生人類の感覚がニブいばかりに、絶対的な真理や神という幻想を盲信してしまうことが原因だ。
 世の中には正しいものと悪いものがある(善悪二元論)という思考に陥ってしまう。これは人類に巣食う病だ。
 19世紀に「神は死んだ」かに思われたが、しかし唯一の真理や世界の目的を求める人間は未だに後を絶たない。神はしぶとい。
 「人間を支配し選別し善良な存在を祝福してくれる便利な存在(神)がいて、自分を見てくれている!」とか、「世界を説明するたった一つの道理があって、自分がそれを理解できる!」とかいう空想に身を任せている事自体が現生人類は社会動物としてまだ幼いという証明。
 無知ゆえに想像の予知がありすぎて大それた思い上がりをしてしまうのは、幼稚園児が「ウルトラマンになる!」「プリキュアになる!」「カブトムシになる!」と本気で言うのと同じ理屈の妄言なのだ。

 触角(触手)が生えることで神を失いようやく自立した人類は、
正義の実行を止め、相対評価を止め、
欲望のまま他人を支配しようとする試みをやめる。
不可能を悟るからだ。
 身の丈を知った触種は、絶対的に信頼できるのは自分の自意識しかないことを再認識し思い上がりを解消する。
 「我思う故に我あり」を生態レベルで理解するのだ。
 そして人類は「かつて人類が夢見た神の住む世界」を喪失する悲劇に見舞われる変わりに、無限に変化し続ける刺激的で美しい世界を手に入れる。

 いまはむかし、釈迦(シャカ)という僧がいた。
 彼は、多くの人間が釈迦の発言の言葉の意味を理解しただけで真理を得た気になってしまうことに頭を悩ませた。
 「言葉で理解すること」と「実感でワカること」には天地ほどの差があると知っていたた釈迦は、それらを区別するために「悟りを開く」という言葉を新造せねばならなかった。
 しかし現状、その域に達したのはごく一部の特別鋭敏な個体だけだ。
 ほとんどの現生人類は結局ニブすぎて、その境地に到達できないまま生涯を終える‥‥だが触種は違う。
 たしかに触種のスペックをもってしても「普遍的で絶対的な真理」を得ることはできないだろう。人間はどう頑張っても「感覚器官が感じ取れる範囲の真理」までしか到達できないからだ(触種はそれを体感的に理解してしまう)。
 だが確実に、釈迦や一部の人間が到達した「人間にとってローカルな真理を得る」域までいく者は増える。
 触角(触手)を獲得することは、「人間が悟りを開いた種族に成長する」ために必要な手続きの一つなのだ。

 触種の祖先になるのは、固有の世界観を持ち自意識と向き合い続けている精神の豊かな人間に違いないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?