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コロナと共に生きることを受け入れる

本日は、2020/4/15(水)。私が住む神奈川県を初め、7都府県に緊急事態宣言が出されてから1週間が過ぎた。コロナショックと言われるこの状況が私たちの生活に実際に脅かし始めたのは、2月の下旬ごろだったと思う。そこから、「瀬戸際」「この週末は」のような「元の生活に早く戻るために、今耐えましょう」と言うような表現が続き、しかしながら結局のところ、決してこの忍耐は「今」だけでは済まない状況であると認めざるを得ないだろうという見通しを人々は少しずつ受け入れつつあるように感じる。

おそらく多くの人と同じように、私も「自粛疲れ」「コロナ鬱」などといった状態に何度もなってきては、持ち直し、ということを繰り返してきた。ニュースを見て、政府の対応に苛立つことや、大打撃を受けている業種の方々の声を聞き胸を痛めること、医療現場の人々の苦労とその過酷さに思いを馳せること、多々あった。元々、人の感情に共振しやすい性質を持つ私は、強い無力感や苛立ちの感情を受け取ってしまい、苦しい気持ちになることも多かった。それでも、今の自分にできることを探し、できる範囲で行った。コロナで打撃を受けた地域にフォーカスしたふるさと納税、飲食店でのテイクアウト、遠方に住む昔馴染みの飲食店へのデリバリー依頼、売り上げが減ったビッグイッシュー(世界的なホームレスの自立支援システム)への定期購読の申し込み、軽症者の療養施設への体温計の寄付など。しかし、それらが焼け石に水だという自覚は日に日に増してきている。もちろん、やらないよりはやった方がいいと思う。しかし、それでどうにかなる状況では、おそらく、ない。

コロナ関連のニュースを見て元気になった、という人はあまりいないと思う。それは伝える側(だけ)に問題があるのではなく、状況が過酷だからだ。それでも不思議なことに、心身ともに疲れている時ほど、テレビやSNSで際限なくコロナのニュースを探してしまう。読んでいて楽しくなるわけでもないのに、おかしな中毒状態だ。それでも、少し前向きなれる日、例えば体を動かそうと運動靴を履いて外に踏み出した時、こんな時だからこそと普段作らない料理を作った時、普段しない部分の掃除をした時など、思い出す言葉がある。「津波てんでんこ」。wikipediaによると、「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」という意味。緊急時には、人を守ると周囲を気にしすぎると結局共倒れになってしまうことがある。それぞれが自分の命は自分で守るべしと頭を切り替えることで、結果的に多くの人が助かる、という意味。さながら、今は「コロナてんでんこ」なのではと思うことがある。

もちろん、コロナウイルスは津波のように数分単位で迫る危機ではないため、もう少し、他者とと共に逃げられる道を模索できるだろう。しかし、政府の十分な補償も見込めない、感染拡大や医療崩壊はおそらく止められないと思う今、さながら、ゆっくりと、しかしこれまで見たことのないような大規模な津波が遠くからこちらに迫ってきているような状況だ。多くの産業が壊滅的な状況になるだろう。しかもこれは日本だけの話ではなく、世界的な現象である。経済的な話に限定したとしても、とんでもない事態である。

「Afterコロナ」という言葉が出始めたのは、おそらく3月下旬ごろだった気がする。しかし、それと時をほぼ同じくして、「Withコロナ」という言葉も目にするようになった。コロナウイルスの難しさの1つ目は、感染者に対して現在は対処療法でしか太刀打ちできないこと。感染を防ぐワクチンや治療薬が見つかれば、季節性のインフルエンザ同様の対処で済むが、そうではない。一定割合で重傷者、そしてその中から一定割合で死者が出てしまう。そして、難しさの2つ目が、潜伏期間の長さと感染しても無症状者が一定割合で存在すること。つまり、元気な(無症状)感染者が次々に人にウイルスを拡散させていってしまう。こんなこと、今や誰でも知っている。この2つの条件が整うと何が起こるか。それは、止まらない感染拡大、そして死者の増大、ひいては医療崩壊、医療崩壊に起因した別要因での死者の増大。地獄である。しかし、この2つの難しさのうち、1つ目については希望があった。ワクチンや治療薬は、いずれ出来るだろうという見通し。それができれば、ようこそ、Afterコロナ。しかし、私は、2つの情報に触れたことで、Afterコロナはしばらくは到来せず、Withコロナになるのではないかという覚悟を持ち始めた。

一つ目は、ウイルスの突然変異に対応したワクチンを次々と開発しなければならないため、いつまでもいたちごっこになるのではという情報(https://s.japanese.joins.com/jarticle/264871)。そして、ワクチンが開発されたとしても、国民全員が接種されるまでに非常に時間がかかるという情報。(https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=852867555198442&id=100014256153736)。共に、もしかしたら反証の余地はあるのかもしれない。感染症学の専門家でない私には、確定的な判断はできない。しかし、それなりに信憑性はある情報のような気もする。そして、これらを補強するかのように、ビルゲイツは2015年に行われたTED Talkで、「もし1千万人以上の人々が次の数十年で亡くなるような災害があるとすれば、それは戦争というよりはむしろ感染性の高いウイルスが原因の可能性が大いにあります。」と述べていた。(https://www.ted.com/talks/bill_gates_the_next_outbreak_we_re_not_ready/transcript?language=ja#t-50980)彼の先見の明に驚かざるを得ない。私は、これらの情報から、Afterコロナの到来を待ちわびるよりも、Withコロナの生き方を模索した方が、結果的に失望が小さく出来るのではないかと判断した。

Withコロナが実際にどのような時代になるのかはわからない。しかし、戦時中と同じ理不尽さや不条理が待ち受けていると腹を決めていた方が、「思ったより酷くなかったな」と思えるかもしれない。そんな風に、コロナと共に生きることを受け入れた私は、そんな気分と共振出来るかもしれないものを探した。そして、本屋で手に取ったのは、「アンネの日記」だった。

まだ、はじめの数ページしか読んでいない状態なので、感想を述べるには早すぎるだろうが、この本には、どんな過酷な環境であっても侵害できない日々の感情の豊かな煌めきというものがあることを証明してくれている気がする。社会がどうであっても、美味しいものを食べれば幸せになるし、人間関係に悩んでみたり、新しいことにワクワクする気持ちを持つ余地は、実は残されている。

リアリストの私は最悪を想定することが癖であるため、Withコロナ到来を覚悟してしまっているが、これは外れる可能性もある。外れた方がどう考えてもいいに決まっている。しかし、もし当たってしまったとしても、社会がどうであったとしても、限られた命・時間を大切に過ごしたい。そこで揺らめく心の動きをどこかに残したい。それが、noteを始めた動機です。




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