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Withコロナで食糧危機がやってくる?

人はどんな状況にも慣れるもので、緊急事態宣言にも、外出自粛にも、オンライン飲み会にも慣れてくる。そして、Afterコロナではなく、Withコロナとして生きていくことになるかもしれないことを受け入れ、その事実に慣れてきている人も私の周りで少しずつ増えていっている気がする。

そんな中で、「食料品の値段が跳ね上がるのでは?」と生活に直結する影響について言及している知り合いがいた。そういえば、同じようなことを誰かも言っていたなーと思い、調べてみたところ、確かにすでにこんな影響があるらしい。

「大規模な移動規制や物流混乱の広がりを受け、一部の国が小麦や米などで輸出制限措置を導入した。」とのこと。正直、移動規制や物流混乱があるにしても、輸出は輸出国と輸入国どちらにとってもメリットがあるから成立していたわけだし、自国で消費できる量には限りがあるだろうし、いずれはこれまでと同じようなかたちに落ち着く気がするが、確かに一時的にはそういうこともあるだろう。

少し脱線するけど、コロナ騒ぎが起こって私が強く認識したことの一つに、「人間も無力な生き物の一つに過ぎない」ということ。コロナ騒ぎが起こる以前から、地震や台風などの災害下においては、どれだけ対策を重ねたところでどうにもならないことがある、非常に無力な存在であることは認識していた。だけど、現在のように世界中で同時に同じ危機に直面していることを考えると、例えどんな大富豪であっても、例えどんな知性を持った人であっても、できることは限られている無力な存在だなぁと思う。

一見、悲観的に聞こえるかもしれないが、この気づきはむしろ私に安らぎに近い感情をもたらした。例えばある日突然、コロナにかかり(あるいは地震がやってきて、台風がやってきて)、アッサリと命が尽きてしまうかもしれない。流行りの「100日後に死ぬ○○」の「○○」には私の名前が入るのかもしれない。もしかしたら、今すでにカウントダウンが始まっているのかもしれない・・・と。でも、よくよく考えてみれば、それが100日後なのか1000日後なのか1万日後かはわからないけど、「○日後に死ぬ私」なのは間違いのない事実なのである。ただ普段はあまり認識していなかっただけで。

いつか死ぬのなら、特にそれが迫ってきているとするのならば、世間体とか「こうあるべき」みたいなものに縛られて生きるよりは、より自然体に生きていたいと思う。コロナによって、外出自粛や営業休止要請などの様々な抑圧を多くの人が受けている状況ではあるが、Beforeコロナの「こうあるべき」とは違った価値観や柔軟性が求められていることを思うと、それによって新たな生き方を模索しやすくなっている部分もあるのではないかと思う。少なくとも私は、コロナを通じて自己抑制の一部を外せた部分がある実感がある。

話を元に戻すと、このような社会情勢の中、イチ生き物として「自給自足」ができる生き方ができる人って強いなぁと思った。お金の価値は相対的なもの(例えばドル円とか)だから、どんなにお金を蓄えていたってそれが紙屑になることは可能性としてありうるけど、人がひとり食べていける食糧の価値は、少なくとも自分の胃袋を満たすという意味においてはゼロになることはありえない。

そんなわけで、私はベランダでパクチーを育て始めた。

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とはいっても種から育てたわけではなく、苗を買ってきて鉢に移し替えただけ。初日から収穫して、ミネストローネにのせたりしてみた。

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彩りも鮮やかで、とれたての新鮮さもあり、なんだか嬉しい。朝起きて1番に水をあげるのも、小さな日々の楽しみになっている。しかも、苗は確か150円ぐらいで非常に安い。スーパーの野菜売り場でパクチーを買うよりも安いかもしれない。これだけでは飽き足らず、今日こんな本を買った。

この本によると、どうやら、4月や5月は苗の植え付けをするのにちょうど良い季節らしい。早速近々、ミニトマトとナスの苗を買ってこようと画策中。食糧危機が本当にやってくるのか、そしてその影響がどの程度のものになるのかはわからないけど、そういうことを度外視したとしても、新しい楽しみができたこと自体が嬉しい。


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