Rapunzel

香苗は考えざるをえなかった。自分の思い描いた未来について。そして、その経過について。彼女を追い詰めているのは彼女自身だった。それは彼女も嫌という程わかっている。それでも彼女はその考えから逃れることができない。そして、次第に自分の中で大きくなっていく、重い鉛のような感情のことを思うのだ。隆史には、おそらくこの感情のことを話すことはないだろうと思う。わかってもらえないだろうと諦めているわけではない。ただ、なんとなく隆史にそういった感情を説明するのは間違っているような気がしているのだ。隆史とは、もう出会って十年にもなる。結婚してからも五年だ。それでもお互いの距離感みたいなものは意識しないといけないと香苗は思っている。私にしかわからないこともあるのだ。そして、それは私にとっても必要なことだ。香苗はそう考えて、自分を納得させる。
リビングまで裸足で歩く。足裏の冷たさがダイレクトに皮膚に伝わり、自分の体温を急激に下げているような気がする。床暖房をつけないとこんなに床は冷たいんだと香苗は思う。昼間はずっと床暖房をつけてるから冷たさを感じることはない。リビングはいつもよりがらんとしているように見えた。なぜだか明かりをつける気がおきない。真っ暗なリビング。そして、ただその場で足の裏の冷たさを感じている。

香苗が病院に通うようになって、隆史は明らかに感じが変わった。特にどこがというわけではない。いつも通りの生活は続いていたが、どこか全体的にピリピリしていて、香苗へのあたりが強く感じられた。隆史の仕事は比較的残業が多く、日付がかわってから帰宅することもよくあった。そういった時でも香苗は隆史の帰宅を待って、夕食を一緒に食べるようにしていた。特に二人の中にそういった決まりがあったわけではない。また、関係性をおもって意識的にやっていたわけでもない。ただ、なんとなく香苗は一人で食事をすることに違和感を感じていただけだった。待つことは香苗にとっては自然な行為であり、当たり前のことだった。だから、隆史の帰宅が連日遅くなっても、特に不満に思うことなく食事の下準備だけをして待っていた。隆史がどう思っていたのかはわからない。それでも隆史はよく待っていてくれてありがとうと言ってくれた。その言葉を期待していたわけではない。でも、香苗はその隆史の心遣いが単純に嬉しかった。しかし、最近では香苗が待っていても隆史は何も言わなくなった。むしろ迷惑そうな顔をし、不機嫌そうに食事をとるだけだった。


ちょっとしたことだった。こういったことの端々に、香苗は隆史の変化を感じるようになった。その変化は予想以上に香苗にはこたえた。自分が彼を追い詰めている事実が、そして、結果的には自分自身を追い詰めている事実が、香苗にはつらかったのだ。
香苗が病院に行くと隆史に話した日、隆史はあからさまに苦い顔をした。
「病院なんて行く必要なんてない。そんなに焦らなくても大丈夫だよ。」と隆史は言った。
意味がわからなかった。焦るとか焦らないとかそういった問題ではないのだ。香苗にとっては今やらなければいけないことであり、それは二人にとって極めて重要なことなのだ。だから、時間の問題でも何でもない。香苗は何も言えずに、その場に俯いた。
「隆史くんはいらないの?子供。」
「そういうことじゃない。わざわざ病院に行く必要がないって言ってるんだよ。」
もう話しにならない。そう香苗は思って、もうこれ以上の話しはしないようにした。それからだった。香苗がお互いの距離感のようなものを考えるようになったのは。

冷蔵庫をあけて、ポット型をした浄水器を取り出す。コップに注いだ水に冷蔵庫の光が反射して万華鏡のように見える。相変わらず足の裏は冷たくて、香苗の体温はゆっくりと奪われていく。コップを持ってソファまで歩く。暗くても外から入ってくる明かりでソファの場所は十分にわかる。それから水をようやく飲む。そういえば特にのどなんて乾いてなかった。なんで、リビングまで来たんだろう。そうやって、ソファの上に足をあげて、体育すわりみたく座る。そうだった。また、あの夢を見たんだ。いつものあの夢。


あの時のことは、香苗も未だに心の整理ができていない。理由だけではない。あの時に浮かんできた感情も含めて、香苗自身うまく飲み込めてなかった。あの日は何の変哲もない、いつもの日だった。いつも通りマンションの廊下を自分の部屋のドアまで歩いていると、ふとプラスチックでできた大きなケースが目に入った。横に大きなロゴが入り、蓋には伝票のようなものが貼り付けてある。それは隣に住んでいる老夫婦が頼んでいる、宅配スーパーからの配達物だった。毎週一回、栄養士によって厳密にコントロールされた献立をもとに、必要な野菜や食材が自宅に届く。このサービスを利用すれば日々の献立に迷うこともなく、健康的な暮らしが手に入るというふれこみのものだ。老夫婦はこのマンションに入居した当初からそのサービスを利用しているらしく、毎週のようにそのケースは置いてあった。だから、そのケースは香苗にとっては見慣れた風景だった。うらやましいな、自然に言葉にでる。毎月の家計をなんとかやりくりしている香苗には頼みたくても頼めないサービスだ。箱の脇から緑の葉先が見えた。何かの野菜だろう。自分たちがこういったサービスが利用できるようになるのはいつになるだろうか。通院費だってバカにならないのだ。今はスーパーの安売りの食材で、何とか凌ぐしかない。どんなものが入っているんだろう。香苗は急に中身が気になった。どうせ無農薬で栽培された野菜やらブランドがつけられた牛肉が冷凍されて入っているんだろう。私たちには縁がないものだ。そう思いながらも、自然と手が動く。箱を開けてみると、中には様々な食材がぎっしりと詰められていた。豚肉、牛肉、卵、大根に人参、ほうれん草。なにせ一週間分だ。所狭しと食材が詰め込まれている。その中に見たことのないような葉物の野菜がひとつ入っていた。なんだろう。香苗は気になって手に取ってみた。ほうれん草とも小松菜とも違う。もっと小ぶりで葉は短く、土っぽく感じた。おそらくは海外の珍しい野菜なんだろう。私には関係ない、そう思ってそっとケースに戻そうとしたが、次の瞬間ある思いが頭に浮かんできた。
このまま持って帰ってしまおう。
なぜだがわからない。そんな見たこともない野菜、食べたいわけがない。それでも、幸せそうに暮らす老夫婦の顔がちらついた瞬間、自分たちの生活の平坦さを考えた瞬間、その思いが浮かんだ。一つぐらいわかりはしない。配達ミスとして処理されるだけだ。香苗は、静かにその野菜を自分のトートバッグに入れ、箱の蓋をしめた。そして、そのまま自分の家へ入っていった。

それからは惰性だった。香苗は週一回、老夫婦のもとに届く宅配ケースの中から食材をとり続けた。盗むものは決まって野菜だった。肉でもよかったのだが、野菜の方が種類も多くて目立ちづらいというものあり、自然と野菜ばかりを盗んだ。特にあの見慣れない小ぶりな野菜があった場合には、その野菜を狙って盗んだ。美味しかったのだ。初めてケースから野菜を盗んだ日に、香苗はその野菜を炒め物にして食べた。その野菜は少し苦味があるものの、ほんのり甘みがあって非常に食べやすかった。おそらく自分で購入することはできないだろう。だからか、自然とその野菜に手がのびた。


しばらくすると、香苗はある夢を見るようになった。しかも、夢を見る日は決まって野菜を盗んだ日だった。関係があるのかわからない。それでも、香苗はその夢を見るとどうしたってきまりが悪くなった。その夢は、いつも森の中から始まった。その森は、高い木が多く、鬱蒼としていて暗暗としている。大きな木には蔦が絡みつき、まるで蜘蛛の巣のように木々が張り巡らされていた。その中に一つの小さな建物が立っている。それは古びた物々しい洋館で、何十年も忘れ去られたような、その周りの時間がとまってしまったような建物だ。建物の背は高く、塔と言っても違和感はない。上部には大きな窓がついているが、それ以外には窓はついていない。出入り口らしいものも見当たらない。香苗はその森の中をゆっくりと歩いている。草や蔦が多くて、ゆっくりとしか歩けないのだ。それになんだか地面もぬかるんでいるようで、歩くたびに足が飲み込まれるような感覚がある。なぜ私はこんなところにいるんだろう。そう思うが、もちろん答えなどでるわけもない。ただただ、その場所がもつおどろおどろしさに恐怖を感じるだけだ。しばらくそうやって歩いていき、なんとか洋館にたどり着く。近くに来てみると、思った以上に高さがあり、唯一の窓にはどうやっても届きそうにない。建物の周りを歩いてみるが、やはり入り口らしいものは見つけられない。入れそうにもないな。そう思って、帰ろうと見上げると窓が突然開く。中からゆっくりと人影が姿をあらわす。香苗は急な出来事に驚き、反射的に逃げようとするが、足が震えてうまく動けない。そうこうしているうちに、その人影が何か言葉を発する。その声は非常にか細く、香苗には聞き取れない。香苗は怖がりながらも、振り返ってもう一度きこうとする。
「助けて…。」
なんとか聞き取れた言葉は助けを求めるものだった。香苗は、目を凝らしてその声の主を確認しようとする。窓の奥は暗くて、人影しか見えない。
「どうしたの?大丈夫?顔をみせて。」
香苗はそうやって声をかける。聞こえた声は明らかに女性の声で、弱々しくて寂しそうに聞こえた。だからか、香苗は気になってもう一度声をかける。
「大丈夫?」
すぐには返答がないが、人影は香苗の方を向いている。どうやら香苗のことを認識しているようだ。
「閉じ込められているの?大丈夫?」ともう一度優しく声をかける。
とその時、今まで月を隠していた雲が動き、月明かりがあたりに降り注いだ。そして、ようやく香苗は人影を詳細を認識する。その人影は香苗だった。香苗自身だった。いや正確にはまったく同一人物とは言い切れない。髪型が違うのだ。髪の毛は量が多く、ウェーブしている。また、ひどく長くて、窓から見える限りでは腰よりも下まで伸びているように見える。香苗は、普段からショートカットで肩までさえ伸びていない。だから、同一人物とは言い切れない。明らかに顔つきは香苗そのものだが、姿形は香苗ではない。
香苗はハッと息を飲む。その香苗にそっくりの人物は香苗を睨むように見ている。なんでそんな目で私をみるの。香苗の胸は得体のしれない恐怖でいっぱいになる。自分の内面をえぐりとられるような、まるで自分で自分の首をしめているような、そんな気がしてならない。お前は何をしているんだ。お前は何をしているんだ。繰り返し訴えかけるようなその目。やめて。やめて。私は悪くない。悪くない。悪くない。


次の瞬間に目が醒める。激しく動悸がし、息がつまるような感覚が喉元にある。首まわりにはじっとり汗をかいてて、背中も汗でびっしょりだ。こんな真冬の寒い時期にこんなに汗をかくなんて。そして、香苗はこの夢がどのような意味を示唆しているのか、考える。どうしたって野菜を盗んだ罪悪感からこのような夢をみるのだろうと考えてしまう。だが、いくら考えてもはっきりと答えが出るこはない。あくまで夢は夢でしかない。
しかし、今日の夢はいつもとは違った。今日の夢はいつもの夢の途中から始まったのだ。しかも、香苗は建物の中にいた。そう、香苗はいつも見ていたあの人影になっていたのだ。建物の中にいた香苗はひどく悲しい感情を胸に抱えていた。どうやらこの場所にいることが苦痛でしかないようだ。出たくて出たくてたまらない。そういった感情が彼女の心を埋め尽くしていた。ただ、何かそこを逃げてはいけない、そこから出てはいけない、そのような感情の縛りも同時に心にあった。誰かに厳しく言いつけられたのか、約束なのか。その場所から決して離れてはいけない、その思いも強く感情を支配していた。彼女はそのジレンマから激しい負の感情を作り出していた。出たいけど出れない。まるで、迷宮に迷い込んだように、そのジレンマは彼女を強く締め上げているようだった。そして、その葛藤からか、いつしか彼女は誰かがこの場所に来て、自分自身を助けだしてくれることを夢みるようになっていた。誰でもいい。誰か私を連れ出して。助けて。そして、彼女はひたすらその機会を待っていた。
そんな思いで眠れない日々を過ごしていると、下からガサガサと草をかきわける音がする。もしかしたら誰かがこの建物に近づいているのかもしれない。私を助けに来てくれたのかもしれない。期待に胸を膨らますが、同時に不安も生まれる。私はもう何年もこの建物から出ていないし、人と話もしていない。私はうまく助けを請うことができるだろうか。私は今の自分の気持ちを正しく伝えられるだろうか。しかし、何年も待ちわびた機会なのだ。ずっと待っていたタイミングなのだ。そう思い立って、建物の唯一の窓をあける。ゆっくりと。月は雲に隠れ、月明かりは薄暗い。もともと薄暗い森の中だ。ようやく木々が判別できるくらいしか明るさがない。音のする方向をみると、何者かが草をかき分けて前へ進んでくる。影の形からやはりそれは人のようだ。よかった。ようやくこの建物の中から抜け出せるかもしれない。彼女は、小さな、しかししっかりとした声で呼びかける。
「助けて。」
その声はまるで自分の意思を超えた魂の声のように感じた。私が私の思いで話している言葉ではない。どこか違う存在が自分に話させている言葉、そんな感じがした。そして、香苗は香苗を認識する。雲がぬけて月明かりが建物に近づくその人物を照らした時、香苗は近づいてきた人物、自分を救ってくれるかもしれない人物が、自分自身だったことを知る。その事実は彼女を大きく動揺させる。彼女はそのことをどう受け入れればいいのか判断がつかない。この日のために伸ばしてきた髪の毛が、今はやけに重く感じる。私を救うのは私自身?どうして?私は私自身さえも救うことができない。なのにどうして?

すっかり体は冷え切ってしまった。持っていたコップをテーブルにおいて、ゆっくりと立ち上がる。相変わらず床は冷たくて、足の裏にしびれを感じる。靴下を履いてもしばらくは寒くて眠れないな。そう考えるが、それでも香苗はそのままでいいとも思う。カーテンをあけて、外をみる。8階から見る空は、しんとしていてなんだが空気が固まっているように感じる。あの夢は何なんだろう。ぼんやりと考える。私は私のことをきちんと理解していないのかもしれない。私は私の思いを正しく理解していないのかもしれない。なんとなくそう考える。窓をあけてベランダに出てみる。寒さが身体中に刺さりこんでくる。寒い。でも、なんだか緩やかな心地よさも感じる。車が走り抜ける音が聞こえて、遠くからクラクションの音がする。私は私自身を理解してあげないといけない。ほんのすこしでいいから。そう考える。上を見上げると星が綺麗に見れる。こんなところでもこんなに綺麗に見れるんだ。そろそろ寒さが限界。中へ入ろう。コップを片付けて、隆史くんも寝ている布団に入ろう。そう香苗は考える。そして、明日もう一度、隆史くんとゆっくりと話し合ってみよう。正直に。そう思って寝室まで歩いていく。

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