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ゲームという異世界にアクセスすることについて探る (#5)

<#4のつづき> 

 また出演者も、60分間通じて映っている者と、5秒間強烈な敵役として映っている者、どちらも役作りに長い時間をかけ、体を鍛え、台本を読み込み、一字一句色々な辞書を引いて調べ、そうやって一人の人生を身に付けて、表現しているのだと考えられます。すなわち、製作者にとっては、意図的に作り出したものではなく、偶然の産物をうまく収めて視聴者に伝えている。もしくは、その瞬間を極めて精巧に再現することに努めて、視聴者に真実と事実に湾曲のないの歴史を伝えようとしているのだと考えるべきでしょう。もちろん、見せ方というものはあるでしょうから、前後関係など、改変してみせることはあると思います。 

 今述べたことにもう少し付け加えるならば、60分出演の主人公よりも、5秒でその役の人生の輝きを絞り出して表現した役者の出演した映画に出会ったとき、そこで放たれていた輝きに魅かれて、その映画のファンになったり、主人公がより引き立てられて、主人公役の人に好感をもってファンとなる場合も少なくないでしょうし、当然、5秒で輝きを放った人のファンにもなるでしょう。また、作品に対する感動も、これまでのものとは一線を画して違うもので、よりひきつけられてしまったという経験も少なからずあるかと思います。

 その限られた枠の中から、「空気」、「空間」、「音」、「時間」を感じ取れた時、製作者と同じ解釈、世界観に到達したのだといえましょう。しかし、表現力に優れている製作者ならば、意図的に真実と事実を湾曲して、誤解させることを目的に切り取り伝えてくるかもしれないが、この場合は、そのような視点を持ったものが見た世界を、動画を通じて伝達されているのであって、その中身を抽象的かつ客観的に動画全体を捕らえることのできる視聴者ならば、そこに込められた意図と真実に気が付き、本来あるべき理解と世界観に到達しているでしょう。

 すなわち、動画においては、抽象的かつ客観的な視座を持っていることを前提にして、限定された枠の中から空気、空間、音、時間を取得できたならば、製作者の表現した世界を把握していることになり正確に始点と結末を得ているということになります。他方で、そこに視聴者自身が一人の人間として抱える感情が加わったとしても、始点と結末の間の解釈に違いに過ぎなく、始点と結末そのものに変化は生じないと考えられます。本と違うところの一つは、視覚情報と聴覚情報として提供されているものを膨らませて、想像力に使う力を別のところ、映り込んでいないところにまで、さらに当てはめることができるようになっているというのをあげることができます。

 しかしながら、本は、作者が見たと思われる描写を文字で精巧に表現しており、動画は、製作者が見たと思われる場面を成功に再現して視聴者に伝えるために必要な枠の中に収めて提供している。このことは、何よりも素直に受け止めておくべきことで、即座に批判すべき点とはなりません。ただし、そもそもその世界の中に無かった場面を真実であるかの如く捏造し流布した時は、批判の対象ではなく受け取り拒否、すなわち受け入れるべきではない情報の対象とするべきでしょう。

 もっとも、幻想が如く願望を再現した創作世界であることが明らかで、かつ事実ではない偽物であるということが前提ならば、それは、読者と視聴者のためのほんのひと時、精神から楽しむべきものであることを否定すべきではない。それでもなお、何事も人間の尊厳などとの関わり合いから、善悪、限度と限界があることは肝に銘じておかなくてはなりません。それは、どうしてか。現実の世界で、実際に創作世界で起こったことを予言の如く再現し悪用しようとするものが少なからず出てしまうからです。しかし、現代は、拡張現実として表現可能であり、仮想現実空間を構築してその中に出現させたアバターを通じて疑似体験を可能にしています。それは、抑止効果として大きな影響力を期待できるところがあるので否定すべきものとはなりません。そして、これを可能としているものの一つが、ゲームといえましょう。

 さて、次は、ゲームの始点と結末について考えてみようと思います。

<つづく> 


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