男のやさしさは、本当にやさしさになっているのだろうか?

男は、加害者であることを忘れてはいけない。それは、実際に加害性があるかどうかではなく、加害の経験があるかどうかではなく、男であることとこの社会との相性を忘れてはいけないという意味である。

それは、ゲームの世界で、戦士は魔法が使えないことを忘れてはいけないということと似たような意味を持つ。男に生まれるということは、加害性を否が応でも持たされてしまうということである。

こんなことを書くと多くの男の人からは反発を受けるのであろう。こんなこと考えずに済むのであれば、心もざわつかずに暮らせるのに。私自身にそう思いたくなる気持ちがないわけではないが、女性が見ている世界と男性が見ている世界の違いを知ってしまうたびに、こう考えずにはいられなくなっている。

このような考えにしっかりと向き合い、その加害性を持つことに、加害性に苦しむ男性という人物を描いた小説がある、それが大前粟生さんの『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』である。

この小説は、最近映画として公開され話題になっていたので、聞いたことがある人もいるかもしれない。映画は残念ながらまだ見れていないが、小説は、やさしさと加害性という相反するものについて、丁寧に考え込まれた小説だった。

そして、その表題作とともに、収録されている作品もまた、やさしさについて、加害について、男と女について、考えるきっかけとなるいい作品ばかりだった。

たとえば、収録作の中にこんなセリフがある。

たかが結婚で私のこと変えられると思うな。

『たのしいことに水と気づく』の主人公の一言だ。

結婚=人生の転換点と考えられがちで、ビッグイベントで、人生の節目とも言われる、この結婚に対して、主人公はこう考える。

たかが結婚、と。

もしかしたら、多くの男性は(そして、自分への反省も込めて)結婚をすると、相手を変えていいと思ってしまうのかもしれない。国の制度によって、相手の苗字を奪うことが当然とされている状況に甘んじて。

それは、よく考えてみれば、あまりにも暴力的な行いだ。結婚するまで何年間も持ち続けていたものを、捨てることを余儀なくされる。あまりに不思議な制度である。

そのような国の「後押し」もあるせいで、男性は、結婚とは女性を変えることである。と思っているのかもしれない。少なくとも、思っていやしないかと自問したい。

結婚したら仕事をやめて欲しい。なんて言葉は今や時代遅れになっているのだろうか、それはわからない。ただ、少し前までは当たり前に言われてきたことだ。

女性が、結婚を機に仕事をやめたいと思うこと、女性が相手の苗字を名乗ることを嬉しいと感じること、そういった感情は、人それぞれあっていいことだと思う。

それよりも、男性が、それを、その制度に乗っかって当たり前のように、自分ではなく相手が仕事をやめることを、自分ではなく相手が苗字を変えることを、そして、もしかしたら、生き方を変えることを、要求できると思っているとしたら、恐ろしいことだ。


この、「たかが結婚」といった主人公には、ずっと待ち続けている失踪した妹がいる。その妹を待ち続けるために、妹と暮らしていた部屋を引っ越したくないと思っている。妹と折半していた家賃を、アルバイトを増やし手でも、一人でなんとか払い、妹の帰りを待ちたいと。

それは、主人公にとって、祈りかもしれないし呪いかもしれない。結婚相手はそれを見ていられなくなった、開放してあげたくなったのかもしれない。ずっとそこに留まり続けようとする、時間が止まったかのような生活をする相手を、すくい出したくなったのかもしれない。

それは、優しさなのかもしれない。相手への思いやりなのかもしれない。それでも、その優しさは、本当にやさしいのだろうか。

男は、そのやさしさを本当にやさしさで始められているだろうか。その根本には加害性が含まれていないだろうか。これまで見てこなかったものを改めて見る必要がある。私はそんなふうに感じている。


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