その外側に立つ
どうも、中村大樹です。「死ぬ気でやれよ死なないから」というのは擦られすぎた言葉ではある。「いや死ぬだろ」というのも定番の返しになってきている気がする。生存者バイアスとかね。
しかし、考えてみると、意外と冷静に死を観測出来ているから、確かに死なないかもしれない。
自分は死ぬ気のつもりでやっているだけで、実際に死ぬ気は無い。というのを意識出来ている人は死なないだろう。集合論的に正しい。ポーズはポーズだ、もちろんそれはまったく間違いではない。
その境界を認識出来ている人は、ブレーキをかけられると思うから。
危ういのは、その外側に立ってしまった時だろう。死が認識出来ないという事は、生も認識できないという事だ。つまり、境目が存在しないから、どちらにも確率的に存在している。
シュレーディンガーの猫
それを失ってしまう瞬間があるのだ。
その時は落ち着いて、しっかりと死を見つめる。
さて、辛い経験が多い人の方が優しくなれるだろうか?痛みを知っている人の方が優しいのだろうか?
私はあまりそうは思わない。
要は想像力の問題で、どのような経験からでも、その外側を想像出来る人は優しいし、それが一生出来ない人もいる、というだけ。経験が多ければ多い程、ケーススタディがあるという利点はあるが。
問題は、自分という領域の外側をイメージ出来ているかどうか。
領域の内側しか語れない人がつまらないのもそのせいかも。
それによって話の解像度がガラッと変わるから。三角形の内角の和を計算出来るかどうか。三角関数を使えるかどうか。ちなみに私は使えない。数学は中学生で挫折した。
世界を広くするのも狭くするのも自分次第だ、時には自分さえ邪魔になる。
自分もいなければ、より自由だ
あと何年かすれば私も、グループのキャプテンが今誰なのかもわからない様になるだろう。それでも、今この瞬間と数年間は忘れないんじゃないかな。
いつかは忘れてしまうだろうけど。
忘れたくない記憶となりたい理想像、すべてをかけても守りたいと思える誰かがいれば、人生は悪くない。
時間差で寂しくなるので帰ろう。
また次回。
100兆円欲しい