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古さが価値を生む場所は、人が新しさを感じた時の隙間にある

最近、時間を見ては建築関連のサイトを見ては調べている。最初はヴィンテージマンショとマンションのリノベーションから始まり、今は中古戸建のリノベーション、新築の戸建と、住宅に関する建築をサイトで見ることが習慣になっている。

建築家がどのような考えで空間を設計しているのか、それを文章と視覚で体験できることが思った以上に面白い。

その中で面白い現象に僕は出会う。

この現象は建築に限らず、あらゆる創作物に関係してくるのではないかと思える現象だった。それは、建築メディア「アーキテクチャーフォト®︎」に掲載されていた、ある住宅のリノベーションになる。

齋藤隆太郎氏と小島佑樹氏が主宰する建築設計事務所「DOG」が設計した、築50年の伝統的日本家屋のリノベーションだ。この家の姿に僕はとても不思議な魅力を感じ、驚いてしまった。

瓦屋根が立派な、日本家屋という響きがよく似合う家である。親子二人で住むには広すぎるということで、減築を行なってのリノベーションを行うことになる。

減築によって、それまで壁に覆われていた家の構造が露わになる。その姿がとても不思議だ。減築以前は室内であった空間が外に晒され、それまで壁や天井に覆われていた構造の柱や梁と同時に存在し、建物が新鮮さを作っている。だが、外から眺めた時に見える瓦屋根に変化はない。

それまでなかったはずの構造が露わになった室内空間(厳密にいうと目に見えない形で存在していた)が、まったく変わっていない瓦屋根と同時に存在する家の風景には、心を揺さぶる魅力が立ち上がっていた。

瓦屋根は外観が変わったわけではない。けれど、今や魅力的に映っている。なんなのだろう。この感覚は。

だが、僕がこの感覚を覚えたのは実はもう少し早かった。それはあるマンションのリノベーションの写真を見た時である。その写真が、初めて僕にこの不思議な感覚を教える。

長坂常氏のスキーマ建築計画によるリノベーション「Sayama Flat」だった。

スキーマ建築計画「Sayama Flat」より

昔ながらのマンション(戸建)によく見られる和室空間。現代の感覚で見ると、それらの和室は古臭く感じられ、魅力に乏しいものに映る。

だけど、この「Sayama Flat」では和室空間や和室のディテールが取り残されたまま、他の部屋は解体され無機質で粗々しい空間が露わになっている。この写真を見た時、以前までならまったく魅力を感じなかった和室や和室のディテールが新しい魅力を備え、「いいじゃないか」と僕の気持ちが180度変わってしまったことに気づく。

いったい、この現象はなんなのだろう。

古い空間は何も変わっていない。しかし、その前後で変わったことは、隣接する空間が姿を変えていること。「Sayama Flat」にいたっては、ただ解体しただけの空間と和室が隣接しているという、単純なことが行われただけ。だけど、僕には和室が新しく見える。

どうやら、古さはそれまで隣接していなかったモノと並ぶことで、魅力を生むという能力を持っているようだ。

そしてそれは、人間が価値を実感する仕組みと言い換えていい。古いモノであれ、新しいモノであれ、古いモノ、もしくは新しいモノを単体で見た時、人間は視覚がとらえた「モノ」の印象を心に刻む。つまり、古いモノ・新しいモノ単体で見た時に人間は、モノそのものに価値があるかどうかを判断することになる。

しかし、古いモノと新しいモノが隣接した時、人間が価値があるかどうかを判断するのは「モノ」ではないように僕は思えた。ではいったい、人間は何に価値を見出すようになるのか。

それは「差」ではないかと思う。

何一つ変わらない古い和室が、姿を変えた新しいコンクリート空間と隣接した写真を見た時、僕は「差」を感じた。古さの深さを感じるとでも言えばいいだろうか。その古さの深さは、新しい空間と隣接することで認識できた現象である。

たとえば、この感覚は同じような和室と和室を隣接させても感じられない。和室がそれまで隣接していなかった、まったく異なる空間と隣接するからこそ、和室という「古いモノ」と、壁が取り壊されコンクリートが露わになった「新しいモノ」を見た時に、その意識の隙間に大きな「差」が生まれ、その「差」の振れ幅が価値へと移り変わった。僕はDOGによる減築のリノベーションや、スキーマ建築計画のSayama Flatを見た時に感じた自分の心の状態を観察すると、そのような言葉として表現することになる。

先週末、録画していた「ファッション通信」を観ていても近しい感覚を覚えた。番組は数ヶ月前に行われた2020年秋冬ミラノコレクションの模様を放送していた。そこで、僕はジル・サンダー(Jil Sander)のショー映像を観る。その時「あれ?」と心の中で呟く。

僕はジル・サンダーの2020年秋冬コレクションを発表当時、写真によって見ていた。だが、あれから数ヶ月経った今、ジル・サンダーの2020年秋冬コレクションを見た時、数ヶ月前に見た時には感じられなかった感覚を覚えた。新しい魅力を感じられたのだ。同じコレクションを見ているにもかかわらず。どうやら時間の経過は、人間の感覚に変化をもたらすようだ。

もし、コレクション発表当時に書かれた数ヶ月前のレビューを読んだ時と、発表から数ヶ月経った時に書かれた同じコレクションのレビューを読んだら、どうなるのだろう。その二つのテキストにはおそらく「違い」があるはず。その「違い」を感じることができたなら「差」が生まれることになる。その瞬間、読み手は新しい価値を感じるのではないか。文章そのものではなく、二つの文章を読むことで初めて実感できた「差」に。

目が見たものから感じことだけが価値ではなくて、意識と意識の隙間に「差」を感じることも価値になっていく。どのようにしてその「差」を生むのか。

今見ているもの読んでいるものに価値が感じられなくても、もしかしたら、他の何かと一緒にすることで、これまで世界に存在しなかった新しい価値を生むかもしれない。

そうなると、何かを読んだり見たりした瞬間だけの感覚のみが全てではないことになる。世界はなんとも複雑で難しいものに思えてきた。それは「だから面白い」と簡単には言えないほどの、複雑さに僕は思える。

〈了〉

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