ゲームは「平等から差別を」作り出し、儀礼は「差別から平等を」作り出す(レヴィ=ストロース)

レヴィ=ストロースは、ゲームと儀礼をそのように比較・対照している。

ニューギニアのガフク・ガマ族は、最近フットボールを覚えたが、両軍の勝ち負けが正確に等しくなるまで、何日でも続けて試合をするという。それはつまり、彼らがフットボールという競技を「ゲーム」ではなく「儀礼」としてやっていることを意味する、というのがレヴィ=ストロースの解釈である。

レヴィ=ストロースによれば、ゲームは「離接的」である。つまりゲームは「平等」の状態から出発し、勝敗を通じて、結果的に「差別」を作り出す。ゲームを始める時点では平等だったはずの競技者やチームが、終了するときには勝者と敗者に分かれている。

これとは対称的に、儀礼は「連接的」である。すなわち、もともと離れていた二つの集団の間に結合(ユニオン)や霊交(コミュニオン)を作り出す。ゲームに勝つことは、象徴的に相手を「殺す」ことだが、儀礼においては、いわば「全員が勝者になる」のである。

レヴィ=ストロースは、ゲームは「構造」から「出来事」を作り出すものだ、とも言っている。競技者によって共有される限られた規則の集合から、無数な数の勝負(試合)が生まれる、それがゲームだ。それとは対称的に、儀礼は「出来事の集合」を素材として加工し、そこから「構造的配列」を作り出す。「遊び=演技」が出来事を用いて、聖と俗、祭儀執行者と信者、イニシエーションを受けた者と受けていない者など、非相称性をもつ参加者を勝者の側に入れてしまう、それが儀式だが。

この意味でゲームは「科学」に対応し、儀礼は「神話」や「ブリコラージュ」に対応する。レヴィ=ストロースは、科学者とブリコルール(ブリコラージュを行う者、器用人という訳もある)を「情報」に即して対比している。ブリコルールは「前もって伝えられている情報を、寄せ集める」。それに対して、科学者は「つねに今までなかったもう一つの情報を引き出そうとする」。情報理論やサイバネティックスを意識したような言い方だ。

ちなみにレヴィ=ストロースの「構造」対「出来事」──ゲームでいえば「規則」と「一つ一つの勝負」──の区別は、記号学者ブレモンの「シェーマ/シークエンス」の区分や、ゲーム研究者フラスカの「ゲーム/物語(またはルドゥス/ナラティブ)」の区分と完全に重なる。ということは、いわゆる「ゲーム的リアリズム」の問題系までが、「構造と出来事」で説明できてしまうわけで、構造主義の射程はかように長い(ただしこの点について、デリダによる異議申し立てがある)。

遊びやゲームと儀礼を連続したものとして理解することは、さほど珍しいことではない。むしろ文化人類学の「王道」といえるだろう。しかしその両者をこのようにきれいなシンメトリーで捉え直したのは、レヴィ=ストロースの慧眼である。

ここで私が感じる疑問は三つ。

(1)儀礼としてフットボールをするガフク・ガマ族は、いずれそれを「スポーツとして遊ぶ」ときが来るのだろうか。彼らが「遊び」の観念をもっていない、とは考えにくい。むしろ、彼らも独自の「遊び」の観念をもつが、フットボールにはそれを適用していない、と考える方が自然だ。ならば、ガフク・ガマ族にとってのフットボールが「遊び」へと移行するのは、いかなる理由と条件のもとでなのか。

(2)われわれが生きる現代社会は、「ゲームの結果(勝敗)を通して生まれる格差や不平等」をどのように処理しているのか、あるいはいないのか。それは儀礼なしに処理できるものなのか。またはわれわれの社会も、何らかのかたちで「儀礼やそれに類するもの」に頼っているのか。

なおここでのゲームは、フットボールやスポーツなど「狭義のゲーム」だけでなく、経済活動(投資)や政治活動(選挙)や社会活動(試験)を含む「広義のゲーム」、つまり勝負事全般を指している。

レヴィ=ストロース風にいえば、「〈熱い社会〉に儀礼はいらない」ということになるのかもしれない。また差別や不平等をドライブにしなければ、資本主義というシステムが成り立たないのも周知の通りだ。しかし他方で、現代の社会学者や宗教学者は、「全員が勝者になる」ような儀礼的時空間は、十分すぎるほどに世俗化した現代社会においても必要だし、実際にたくさんありますよ、と答えそうな気がする。

(3)儀礼ではなくゲームによって平等を実現することはできないのか。どの部分、あるいはどういう状態を指して「平等」と呼ぶかにかかっているような問いだが、私は、ゲームはある種の平等を実現する、あるいは、ゲームによって実現される種類の平等がある、と考えている(それについていくらか書いたこともある)。

ゲームの一つの特性に「繰り返されること」がある(一度しか行われない遊びは遊びではない)。ゲームを繰り返す度に、われわれは「平等なスタートライン」に何度も立ち戻っていることになる。「初期化」や「リセット」がその都度、平等を実現しているともいえる。他方、レヴィ=ストロースのいう「儀礼」は、無数に繰り返されるものではないらしい。彼の言葉を借りれば、それは「特別の試合」で「あらゆる勝負の可能性の中からとくに選び出されたもの」である(つまり儀礼は遊びではない)。無数に反復されることで達成されるタイプの平等もあれば、そうでないタイプの平等もある。儀礼が達成する平等は後者のようである。これは、よくもわるくも、ゲームと儀礼のシンメトリーに亀裂を入れる論点かもしれない。