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なぜ女性であるのか

女。

少女、女の子、淑女、女性。そんな言葉を聞いた時にどのような人物を浮かべるだろう。自分は色白で唇が赤く、黒髪ロング。白いワンピースを着た華奢な身体に儚げな雰囲気を持つ人物を思い描く。誰がどこから見ても少女であり女の子であり淑女であり女性だ。様々なファッションがある今はそんな人物は少ないけれど、きっと多くの人は「女性らしい女性」を思い描くのではないだろうか。

koharuさんの記事を読んで、共感の嵐だった。女性だから不幸、とか男性だから不幸、とかはないけれど、女性も男性も性別によって得をする事があれば痛みも抱える事はあると思う。男性の痛みは女性には分からないが、女性の痛みは男性には分からない。ただ、自身の肉体は女性だったから私は女性の痛みを知っている。記事を読んでからそんな事を考えて居たら、自身の性別について葛藤していた頃を思い出した。今回はそんな話。


私は「どちらにでもなれる人間」であったと思う。

思春期の頃、肉付きが良くなり男子とは決して異なる膨れていく自分の胸が嫌いでブラをつける事を拒み続けた。月のものが来たことが死ぬほど嫌で1年くらい親に隠し続けた。恥ずかしい、のレベルではない。ただただ嫌悪感。自分の肉体が気持ち悪い。周囲が互いに異性を異性として意識し出し、男子とばかり話せば良い顔をされず、かと言って女子達が話すファッションや男性タレントの話にもついていけない。少しずつ、少しずつ、氷が溶けるように気付かない間に周囲は変化している。

人が自身を「女」であると、「男」であると認識するのはいつからなのだろう、と誰かに問いたい。そんな気持ちに苛まれていた時には自分が「女」なのだと自覚していたのだろう。決してそれは喜ばしい出来事ではなかった。「男」になりたい訳ではないけれど、「女」でも居たくない。何者にもなりたくなくて、生きる事が苦しかった。

ただでさえ人見知りで話す事が苦手だったのに、そんな思春期を生きていた私はもちろん周囲と馴染めるはずがない。クラスで孤立し、自分ってなんの為に生きているんだろう、と思いながらずっと教室の隅で本を読んでいた。変化に敏感な年頃の周囲もその違和感に気付き出し、直接的ないじめはそこまでなかったが、無視され「そこに居ない存在」として扱われていた。

そんな日々が続いた中学1年生。通常なら席替えは男子が右で女子が左、という並びなのだが担任の意向によりごちゃ混ぜで席替えする事が決まった。窓際の目立たない席になり必要以上に関わらなくて済む、とホッとしていた。ボーっと教室の窓から外を眺めていた時に頭にペシペシと何かが当たる感覚がある。何かと思いパッと振り返ると前の席に座っていた人物が私にプリントを当てていた。気付かずごめん、と受け取るとその人物は優しい笑顔を私に向けた。その日からその人物は毎日、「そこに居ない存在」として扱われていた私に何度もちょっかいをかけてきたり話しかけてきた。


私はその「彼」に人生で初めての恋をした。


「どちらにでもなれる人間」それは、その時の人物が「彼女」だったとしても恋をしていただろう。初めて好きになった人物がただ「男性」だったから「女」で良かったと初めて思い、「女」である事を受け入れ、「女」として生きる事を決めた。振り返る事がある。仮に「彼女」だったとしたら?と。周囲の目を気にして隠し続けるかもしれない。もしくは同性愛者として生きるかもしれない。社会に揉まれた結果、女性として結婚しているかもしれない。少なくとも思春期の私は、「男」として生きる事を望んだだろう。

何度も性について自問自答し続けていたからこそ、性別というのはどうしても気になる。女性である事の違和感はなくなったが、今でも女性である事に痛みを覚える事はゼロではない。(現職は決してないが)好きでもない上司に食事に誘われ断れずノコノコとついていった結果嫌な思いをしたり、社会的な立場が低い事を実感させられたり、「女」という事を話題にして見下されたり。いくらでも不快を感じたことはあるし今後も付き合っていかなければいけない問題だろう。

それでも今は、女性である事を誇りに思っているし誰よりも女性らしい女性で居たい、と思っている。その理由は初めて恋をした人が男性で「女性」を求めていた事もあるし、その後何度か恋をしたけれど相手は男性で求めているものが「女性」だったから。何よりも今、私が好きな人の好きな人で居たい。

わたし、求められればいくらでも変われるよ

昭和元禄落語心中というアニメ(原作は漫画)でみよ吉という遊女の言葉なのだが、すごい分かる。求められる事に価値を感じる。求められているものなんだってなれる。仮に好きな人が女性だったとしたら、その人が求める人物に私はなるだろう。でも好きな人が「女性」を求めている事が分かるから私は「女」で居られるし自身の存在に誇りを持てる。この肉体で生まれてよかったと思える。本当の自分はどれなの?と言われる事があるが、どれも自分である。ただ、好きな人と共に居る自分が好きだ。それが本当の自分になって欲しい。どちらかと言えばそんな願望に近い。

自分、という存在には必ず他者も存在する。他者から求められたり他者から評価や意見を貰い自分という存在を認識していく。その繰り返しの中で、痛みだったものも、誰かに肯定されれば救いになったりもする。「女」である事が痛みだったけれど、好きな人が「女性」を求めてくれればくれるほど私は「女」である事が救いになっていくだろう。そして彼の被写体で居られるように、いつまでも綺麗で居たい。

因みに初恋の彼には3回告白して3回フラれたという話は飲み会の鉄板ネタである。

koharuさん https://twitter.com/inkyo_seikatsu
Title Phote by https://twitter.com/shigaaaa21

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