風景私論①世界を愛しているとは、ナニゴトか?


伊達や酔狂でオナニー雑文を書き殴り日々恥も外聞もなくネットで(それも一部の知り合いに)公開しまた後悔を繰り返しているバカモンとしては、まだアルコールが足りない、破壊的な勢いが欲しい、などと嘆きながら、書き始める。

今日の日記,エントリーシートを一枚提出し、久々の目黒シネマで映画を見た。素晴らしい映画だった。映画を見たを“観た”と表記するのが正しいんだろうが、俺は“見る”で十分だと思ってる。高尚な文化行為と捉えてもいい。でも俺にとっては映画の与えてくれるパッション、創造性、(創造性などとぬかすが、何の創造行為もせず無為な生活を送る自分にとっては、ある種の「勘違い」と変換できるだろう)の類は、日夜生活している俺の知覚や心理状態を蝕むある種の病だと思ってて、特に映画にはそうあり続けて欲しいと願ってるから。一生モノの勘違いを、僕にください。笑

映画の感想はここでは置いといて。
俺は雑音が気になってしまうタチなのだが、今日はなぜか、おっさんの痰がらみの咳も、貧乏ゆすりを始終カマしてきやがる挙動不審野郎の衣擦れの音も、ある程度聞こえては来たが、ほとんど気にならなかった。なぜだろう、たんにやる気がなかったんだろう。どうでもいい日だったんだろう。などと、推理。

そんな自分の精神状態の一欠片から、幸福について考えてしまった。
幸福感を感じているときほど、この幸福的瞬間を守りたいと思えるときほど、ノイズが気になる。ノイズを排除したくなる。往々にして。
その「排除がともなう」幸福とはいったいどんな幸福だろうか。
それはデカい話、アイデンティティの持続、またそのアイデンティティの一貫性を感じているという幸福の形なんだろう。自分が自分としてあり続けられているという幸福感……
例えば、アベックとして結婚を予感している異性と歩いているときの高揚感、レストランで久々に集った家族親戚一同との朗らかな一日、旧友との久々の再会、また、労働や勉学とは完全に切り離された「自分のためだけに計画した、穏やかな一日」。
そのようなハートフル・デイズは本当に大切だ。誰もがそのような瞬間を糧に、波瀾万丈の人生を歩んでいる。間違いない。

俺は何を言っているんだろうか。そのようなハートフルな瞬間に「排除」などあるわけがない。
しかしそれは嘘だ。「排除」に満ち溢れている。「自分が自分であるための趣味」、例えば「映画をみるということ」。俺は現実逃避という言葉は嫌いなのだが、ある種の映画世界に自分の全体を埋没させ、その精神性や世界観なるモノを自身の肉体に完全浸透させてやろう、とまではいかずともそのくらいの意気込みで映画を見る。エーブイを見ているそれとは全く違うつもりでいるが、ある意味ポルノ的な見方とも言えるだろう。
それを完遂すべく2000円近い値段を払い、劇場の暗闇に脚を運んでいるにもかかわらず、オッサンの止まらない咳払いが聞こえてきたら、また上映中にイチャついた会話が聞こえてきたら、そりゃあブチ切れてしまうわけだ。
映画館の暗闇は、スクリーン上だけに映る「せかい」だけに埋没するためだけに造られている。当然だ。周りの観客の顔などどうでもいい。クラブやライブハウスでは別だ。周りの客とカラダぶつけ合ってなんかして、俺は楽しみたい派。笑

うーんその「排除性」みたいなもんは、日常的な、例えば家族団欒の幸福にも言えるわけだ。家族は大切だ。ほんとうに。しかしその幸福とは、家族という「堅固な殻」のハートフルな部分の現出(たまの帰省による団欒や、結婚式等の大きなマツリ)にそう感じ、家族という在り方に潜む束縛、抑圧を覆い隠している。それが家族を取り巻く年末年始や盆の儀礼的なあり方なんだと思ってる。
「伝統的家族観」は外側を否定する。家族なるものを存続させるために、ロクでもない異性と付き合ってはならぬ、また子供も産めない人と結婚など論外だ、“親孝行”のために兎に角稼ぎ続けねばならぬ、と言った無言の命令が付き纏う。残酷だ。でも俺は家族という形態を否定しきれない。なぜだ、わからない。たまに帰省した時の喜びは計り知れない。
ああ、人生は酔い続けねばならない。

結論。「排除がともなわない」幸福とは、一体何を指すのだろうか。俺にはわからない。(毎度無責任に投げて、申し訳ございませんorz)
でもそれは、俺が今日感じた「他人のノイズ」の気にならなさ、がある種のヒントにもなるような気がする。
抽象的な語句で纏めるのは強欲な現代人の大罪だと認識してはいるが、ある種の「外部」と「自分」を大別しないことが、まあ高次の“幸福”へと誘ってくれるのだろう。「自分は自分」という殻にこもりつづけるのではなく、(殻にこもるのも大事だと俺は思う)、俺はなんなのか、よくわからない、あの人の要素であり、またあの人が“俺”なるものの一要素でもある、という、捉え方。また、この風景は俺だけのものではなく、同じ位置から見ていようとも、あなたには全く違うものに見える、それは、互いの生きてきた文脈が全く違うから、互いに尊重していこう、そしてまた貴方の認識の一片に、少しでも触れてやろう、といった、捉え方。そして、この音楽、この目の前の風景、この夜風に取り憑かれているあなたと私は、ともに美しい、この瞬間が、たまらなく愛おしい、なんだ、我を忘れて、この風に気を取られていた、という、ステキな陶酔。つまりはあー、原始的な恋愛のあり方、なんというか、意味や目的に回収されない男女間の、いや性など超越し…etc
読点が多い。わけがわからない。

哲学思想的な文脈においても当然多様なレトリックの変調でもってその「幸福観」は表明されてきた。「無為の共同体」なぞいうガイネンを提唱した思想家もいる。なんの目的ももたない「共同体」の有り様。情だけの、パッションだけで繋がっちまう、なんつーか理想。極理想。しかし、そんな小難しい本を読む必要などはないし、そんな安い引用をしたところで、偉いクソ学者の猿真似になってしまうし、このクソ日記を読んでくれる人に嫌われてしまう、(メンヘラ)。
映画を見たい本を読みたい烈しい恋愛をしたい、そんな欲望、生まれたての欲望、うーむ、泥酔。ファック・ユー。
この瞬間を生きろ。“溶け愛”なんだよつまりは。読点が、増えていく。

最後に一句
酔うたとて 忘れはしないあの夜半を
そのシルエットの仄かな微動だけを

苦悶の数だけ増える読点
2023/04/22
鼻炎がひどい、散歩なんかやめるべき

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