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読解における教師の最後の役割

冒険家の皆さん、今日もラクダに揺られて灼熱の砂漠を横断していますか?

さて、今日は、読解の授業では「かつての教師が行っていた言語に関するさまざまな説明や支援などはICT で代替できるようになっている」という事実を踏まえて、現代ではそれは必要なく、むしろ「言語的に明示されていない意味などを説明することが人間の教師に残された最後の仕事なのではないか」ということを書いてみたいと思います。たとえば元ネタが分からない時にその意味を教えてほしいということです。

【なぜ読解限定なのか】

まず最初にどうして「読解」の授業なのかということですが、会話や作文や聴解の授業に関してはまだまだ幅広い部分で教師の役割が必要だからです。

たとえば、自動翻訳の機能が向上したと言っても、翻訳結果をそのまま覚えて使おうとしてもうまくいかないことがよくあります。先日も僕が「電子ファイルを保存する」と言ったつもりで、通じなかったことがあります。その理由は「保存する」というつもりで「救出する」という意味のヒンディー語を使っていたからです。これは翻訳のために入れたオリジナルの英語の save が多義語で別の意味に取られてしまったからだと思います。

また会話の場合は一人で練習することができませんから、話し相手なども必要になります。教師自身が話し相手にならなくても話し相手などをオーガナイズするような役割は今でも必要でしょう。

しかし、読解はもっと個人的なスキルです。もちろんグループであればピアリーディングなども沢山できますが、そうした協働学習がなければ読解力を身につけることができないというわけでは決してありません。協働学習のストラテジーを使わずに読解の勉強をする場合、以前は言葉の意味を説明したり教材を準備したりするのが教師の重要な役割でしたが、上にも書いた通り、それらはさまざまなコンテンツや読解支援ツールなどの出現によって必要なくなってしまいました。言語としてはっきり明示されているものなら、もうその意味などを教える教師は必要ないのです。

【僕の体験から】

しかし問題は、多くのコンテンツにおいて「明示されていないもの」が理解できなくてそのコンテンツ自体が理解できないということがしばしば起きてしまうことなのです。

今日これを僕が書こうと思ったのは、例によってインドの映画を見ていた時に分からないことがあったからです。ブログでは何度も書いている通り、Netflix を見る時には日本語の字幕とヒンディー語の字幕を両方同時に表示することができる拡張機能「LLN」を使っているのですが、これを使えばクリックひとつで字幕の言葉から辞書を引くこともできます。従って言葉の意味などはもうほとんど先生なしで自分で調べることができるのです。日本語学習者にとっては「rikaikun」という名前のGoogle Chrome の拡張機能も非常に有名です。また DeepL などを始めとした非常に精度の高い自動翻訳も読解支援ツールとしては非常に効果的です。

しかし、それでも時々一人ではうまくいかないことが出てきます。それは外国人が辞書などをひいてもわからないものの、その社会には一般に知られている常識などのことです。

先日僕が見ていたインド映画「Tuesday and Friday」にこんなシーンがありました。その映画の主人公が一人でレストランで食事をしていると、それまで誰も座っていなかった目の前の席に突然美しい女性が現れます。服装などはいかにも女神のような感じ。その女性は恋愛についてアドバイスをした後、突然消えてしまいます。その神様のような女性は主人公に「チャンドマニ」と呼ばれていました。

この「チャンドマニ」という謎の女性はこれまでその映画の中には出てこなかったので、おそらく「チャンドマニ」と言えばインド人ならみんな分かるぐらいの有名人なのではないかと思います。あるいは有名人ではなくて神話に出てくる人物とか神様なのかもしれません。ところが人の名前としてもとてもたくさん使われているようで、僕が Google で簡単に検索した限りではどれが元ネタなのかが分かりませんでした。

これは僕が洋書を読んでいる時にもよく起きることです。例えば今はハインラインの『夏への扉』の原書を読んでいるんですが、この中にも「海兵隊は上陸していた」といきなり脈絡なく出てくる部分があります。
「He shut up and went away. I told Pete again to take it easy, the Marines had landed.」

それまで海兵隊なんてこの小説には出てこなかったので、これも何かの元ネタがあるのだろうと思いますが、簡単にググっただけではよく分かりませんでした。

同じような例は他にもたくさんあります。例えばこの本の中にも「ムハンマドは山の方に行かなければいけなかった」という部分があります。これはおそらく「ムハンマドが山にこちらへ来いと言ったが、山はこなかったのでムハンマドの方がいかなければいけなかった」という逸話を元にしているものと思います。

別の場面では「それは不可能だ」と言われた主人公が「コロンブスもそう言われたよね」と切り返す画面があります。これはもちろん不可能と言われても実現できたというコロンブスの実話を下敷きにしていて、つまり「それでも自分はできる」ということを言っているわけです。

しかし、こういったネタが引用されている文章は、辞書を引くだけでは全く分かりません。

同じような事は有名な元ネタを参考にしているところだけではありません。例えば 「Skater Girl」という別のインド映画を見ていた時にも、他の人のレビューを見て、初めて主人公が不可触民だと知ったことがありました。不可触民というのはご存知の方も多いかもしれませんが、インドのカースト制度で一番下のレベルの人たちです。映画の中では確かに貧しい暮らしをしていることは映像からも分かりましたが、言語的には不可触民という描写はありませんでした。ですので僕自身も他の人のレビューを読むまではこの主人公が不可触民だったとは分からなかったのです。台詞の中に「この場所は上のカーストの人達のものだから」といって主人公が遠慮してしまう場面がいくつかありましたが、後から思うとこの部分などから不可触民だとインドの人はみんなわかるのかもしれません。

また、この映画の中には主人公の少女が淡い恋愛感情を抱く同級生が出てくるのですが、彼の手首にある紐がクローズアップされるシーンがあります。僕は「カースト制度のトップのバラモンの人たちは紐を肩からかける」ということは知っていたので、その描写は「その少年はバラモンではない」という意味かと思っていたのですが、結局、後で少女が父親から「上位カーストのバラモンと関わるんじゃない」と言われるシーンがあり、実は僕の解釈が間違っていたということが分かりました。ちなみにこのシーンもオリジナルのセリフは「彼らはバラモンだ」だけで、そこには「不可触民である自分たちが関わってはいけない」という含意がインド人には分かるのだと思いますが、日本語訳はわざわざ「上位カーストのバラモンと関わるんじゃない」と説明的になっていました。要するに、そういう言語的に明示されていない部分を説明する役割がICTによる読解支援ツールではまだ難しいのです。

これは上の方で書いたコロンブスやムハンマドのような元ネタとは違いますが、言語的に明示されていない内容を教える人が必要という意味では、教師の役割としてやはり共通しているのではないかと思います。

こうしたことは数学や物理学などの普遍的な原理を扱う科目では必要ありませんが、、語学教師という仕事をする上では、必ず必要になります。なぜかと言うとその言語を学んでいる人はその言語の背景にある文化などの知識も持っていないことが前提になっているからです。

人間の教師にはこうした大切な役割があるのですから、それ以外はどんどん読解支援ツールを活用して、学習者が自律的に読解力を身につけられるように支援していきたいものですね。

そして冒険は続く。

【参考資料】

むらログ: YouTubeを語学教材にする拡張機能「LLY」
http://mongolia.seesaa.net/article/475952184.html

むらログ: 教材に辞書が組み込まれている時代
http://mongolia.seesaa.net/article/476629405.html


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