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多文化主義と複文化主義

冒険家の皆さん、今日もラクダに揺られて灼熱の砂漠を横断していますか?

さて、今日は多文化主義と複文化主義の違いについて話してみたいと思います。これは僕の個人的な経験で、カナダとハンガリー、つまりヨーロッパはずいぶん違うと思いますし、また今いるインドでも、とても見え方が色々違うのでそれについてお話をしてみたいと思います。

まず、多文化主義というのはネガティブなニュアンスで聞いたことがある人はあんまりいないみたいなんですね。今朝の「むらスペ」のライブ配信の時もそういう人はほとんどいなかったようです。ただヨーロッパの方では多文化主義というのは、もう、ちょっとネガティブな意味で言われることもあります。

ただ、ヨーロッパについて話す前にまずカナダですね。僕が昨年までいたカナダですけど、Wikipedia にあることを話してみると、1964年に演説の中で初めて「多文化主義」という言葉が使われていたそうです。政府の公式な政策として掲げられたのは、1971年の報告書の中にあるらしいです。今ではもうカナダの憲法の中にも「多文化主義」というのは明記されています。

どうしてカナダでこういうことがあるかと言うと、もちろん英語系の住民とそれからフランス語系の住民がいるからですね。最初は「二言語二文化主義」で、つまりバイリンガリズムだったんですが、しかしカナダ西部のアルバータやブリティッシュコロンビアなどはフランス語系の住民がほとんどいなくて、その代わりにアジア系の住民とか、それからカナダでは first Nations と言われてますが、いわゆるインディアンとかエスキモーとか昔言われていた人たちの方がフランス語系の人よりもはるかに多かったので、やっぱりその「二文化二言語主義」というのはちょっと変なんですよね。それで「多文化多言語主義」という表現に変わってきたという、そういう経緯があります。

カナダの場合は、この「多様性」は国是で、第一のモットーとして支持されているので、その流れで「多文化主義」と言われることもあります。

一方で複文化主義の方なんですが、複文化主義というのはヨーロッパの方でよく使われている言葉です。ヨーロッパの文脈では、「多文化主義よりも良いもの」として扱われることが多いですね。この複文化主義について多分一番中心的な文書というのはやっぱり CEFR だと思います。ヨーロッパ共通参照枠ですね。なのでここからちょっと引用してみたいと思います。

「複言語・複文化能力とは、複数の言語を用いる力-ただし力のレベルはさまざま-と、複数の文化の経験とをもつことで、社会的なエージェントとして、コミュニケーションおよび相互文化的インターアクションに参与するための、一個人の能力を指す。そしてこの能力の存在のあり方は、複数の能力が縦列または並列しているのではなく、複雑でより複合的に存在している」


ここで見れば分かるように、最初に申し上げた多文化主義というのは「社会」のあり方だったわけですが、複文化主義というのは「個人」の能力と明記してあるんですね。つまり一人の中に複数の文化があるという事です。

こういう考え方の理由で、つまり僕自身、一番中心的な文化としては日本文化がもちろんあるわけですが、モンゴルにも8年住んでいたことありますし、言語で言うとモンゴル語の他に英語もそれなりにはできます。でも日本語よりはできません。今ヒンディー語も勉強中ですし、役に立つレベルじゃないですがハンガリー語とかベトナム語も勉強したことはあります。挨拶ぐらいはできますね。

さて、CEFRの本文に書いてあったことの中で、「個人」であるということの他にあと二つポイントがあるのでそれについても説明します。

一つは「力のレベルはさまざま」っていうところです。つまり僕の場合は日本語がもちろん一番強いわけですけど、英語やモンゴル語やヒンディー語とかもちょっとはあるんですが、全部がネイティブレベルに達している必要はないというわけです。挨拶ぐらいだったらベトナム語とかハンガリー語とかも今でもできます。ヒンディー語だったらもうちょっとレベルの高いこともできます。英語だったら仕事でも普通に使っているくらいですね。だけど日本語ほど英語やモンゴル語は使えません。そういう感じです。そういうのが「レベルは様々であってもいい」っていうことです。

もう一つは、もう1回引用しますが、「この能力の存在の在り方は複数の能力が縦列または並列しているのではなく」という部分ですね。つまりバラバラにあるのではなくて、一つの能力が他の能力のベースとして使われたりすることがあるということですね。例えば僕がヒンディー語で話したりする時も、「ここでは挨拶をした方がいいけど、こっちでは挨拶は別にしなくてもいいかな」とか、そういう判断というのは他の日本語とか英語で培った経験から来ていたりするわけです。

その三つが複文化の大事なことですね。

それから、ドイツのメルケル首相が「多文化主義は完全に失敗した」と発言したことがあります。で、これについてよく間違って理解されていることがあるんですね。で、その前提にやっぱりこの多文化主義と複文化主義の違いが知識として必要なので、ここでもそれについてちょっと説明しておきたいと思います。

まずその前提として、「エスノセントリズム」というのがあります。これは「自文化中心主義」といわれることもありますが、例えば日本人の場合は「日本語の文化が一番良くて、他の英語とかヒンディー語とか韓国語とかそういうのはけしからん」という考え方です。これが自文化中心主義で、それに対してこの多文化主義というのが出てきたわけです。マルチカルチャリズムとか言いますが、自文化中心主義よりは、多文化主義の方がいい。このことはメルケル首相も認めていることです。では何で「多文化主義が失敗した」と言ったかと言うと、これは「多文化主義よりも複文化主義の方に移行すべきだ」というそういう文脈で言っているんです。これについてハフィントンポストの2017年の記事が非常に分かりやすく説明しているので、そこを引用してみたいと思います。

「しかし、これらの定住した移民は、ドイツ語が話せないなど社会に溶け込めず、失業率の高さなどが社会問題となった。2009年には外国人の失業率は12.4%とドイツ人の2倍、中途退学率も13.3%とこれもドイツ人の2倍となっている。

こうした現状に対し、メルケル首相は「多文化主義は完全に失敗した」と発言し、そのために「(多文化社会をつくり移民を"放置"するのではなく)移民が社会に溶け込み、社会が彼ら/彼女らを受け入れる状況を生み出すために、ドイツはもっと努力しなければいけない」と国民に呼びかけたわけである。

これは、移民政策に反対する、という意味ではない。この時「ドイツ語が下手な人を門前払いするようなことはすべきではない」とも発言している。ドイツ社会と移民が互いに受け入れ合うべきだというのが本音だ。」


ここでも明確なように、メルケル首相が「多文化主義は完全に失敗した」と言ったのは「だから自文化中心主義、つまりエスノセントリズムに戻りましょう」という意味ではありません。その正反対で「複文化主義に移行しましょう。もっと進化しましょう」という意味で言ってるわけです。これがヨーロッパの考え方なので、そういう意味で多文化主義が否定されることがあります。ただ、さっきも申し上げましたように、カナダなどでは多文化主義というのは今でもかなりポジティブな文脈で使われているので、その文脈とこのドイツの 「多文化主義は完全に失敗した」というのを一緒に見ると、「じゃあやっぱりエスノセントリズムの方がいいんだ」という風に、つまり「移民とかは排斥してマイノリティはいじめた方がいいんだ」とそういう風に解釈している人が、もう Twitter の方には結構いるんです。しかし、それは間違いです。メルケル氏が多文化主義を否定したのは「もっと上の複文化主義をめざしましょう」という意味であって「エスノセントリズムに戻りましょう」という意味ではありません。

この後、インドの複文化主義についても話したかったんですが、すみません、時間がもうなくなってきましたので、今日はここまでとさせていただきます。皆さんご視聴下さいましてありがとうございました。

そして冒険は続く。

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【参考資料】
日本語教師のためのCEFR
https://amzn.to/3cK4MNR

メルケル首相「多文化主義は完全に失敗」ー今この発言に注目すべき理由
https://www.huffingtonpost.jp/yuki-murohashi/merkel_b_9063112.html

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