ポスト・トゥルース新時代において"闇政治的"な悪意にどう対処すべきか

Twitterの下書きを書いていたらスレッドが長くなったので、noteでショートエッセイとして投稿することにした。以下、本文。

 僕がよく使っている用語として「闇政治的」(各々の利害関係に則した上で真実や倫理を歪曲させてでも自身の目的を優先させる)スタンスがある。例えば今のロシアプーチンがしていることはまさしく闇政治的であると言える。よく「大人の事情」とか計略とか言われるアレ。これはどれだけ厳密に分析したところでも悪意と呼べるものであると考えている。 
 しかしながら人類の長い歴史を振り返れば、我々は数多の計略の積み重ねによる血塗られた歴史の上に立っていることがわかる。そしてそれは現代においても同様に地続きになっている。今でも様々な闇政治的計略は軽いものから重いものまで日常茶飯事に行われているし、それで最終的に人命に関わる事も例外ではない。
 しかしそれが昨今、SNSメディア社会化により風向きが変わってきている。これまで声を上げても出版するかデモを起こすかマスメディアに取り上げられるかしなければ、市民の声や事実は日の目を浴びる事はあまりなかったが、SNSインフラの発達により、多くの市民による生きた主張や事実が公共の情報空間へダイレクトに届き、それが拡散されることによって多くの人々の目に止まる可能性が飛躍的に高まった。先程の例えのウクライナ危機に関しても、SNSの市民による生の映像や画像、音声などの情報と各種メディアのジャーナリズムの合せ技により、ロシアの主張の多くがプロパガンダであり事実と異なっていることが指摘され、国際的に厳しい非難に曝される結果となった。
 もちろんSNSは真実や倫理に対して正しく機能するときもあればそうでないときもある。その例が昨今問題視されている過剰なキャンセルカルチャーと言われる動きなど。SNSは人々の確証バイアスとエコーチェンバーにより、様々な感情を増幅させる作用がある。我々一人一人の身勝手な感情が、SNSで同様の感情を吐露した人々と共鳴し、また煽動され、大規模な誹謗中傷や名誉毀損、プライバシーの侵害などの違法な人権侵害を招いてきた。
 そうしたポスト・トゥルース新時代において、より正当性を持つ真実や倫理はどのようにして検証し正しく扱うべきか。我々現代日本人はこの問題を早急に議論し解答を見つけなければならない。
 とりわけ言論と表現の自由が憲法により保証された日本国内では、それと先程の人権や犯罪を規定する法律との倫理的法的衝突が度々起こっている。つまりそれらは並立すれば多くの矛盾を引き起こす論理構造になっているからだ。
 ただ、最終的には21世紀の人類としての人道主義に沿った倫理的議論により正しい解は見付かるはずだ。先程の闇政治的悪意は確かにその議論の進行を邪魔するのだが、それには古代より人類が築き上げてきた弁論による論証の手法を使うことで多くはその利害関係や悪意を表出させることができるし、責任の所在さえも議論と論証により明確に決議することができるだろう。
 こうした闇政治的な力学はこれまで自己責任的に回避すべきとされ、それが嫌ならば自らが闇政治的技能を身に着け強くあれば良いとする、際限ないパワーゲームの構図であった。そのため、いつしか人々は悪意を寄せ付けるような落ち度があるとして弱者を食い物にするような価値観が、文化的に醸成されてしまった。だが現代はそれで終わらない。全ての悪意や責任はSNSなどによる多くの人々の熱い議論により浮き彫りにされ、悪意や責任を持つ側を正しく断罪できる状況が整いつつある。
 現代のSNSは、古代ギリシアの大勢の人々が直接議論を尽くしたアゴラに近い機能を持っていると僕は考えている。そこでは様々な詭弁や誤謬が古代と同様に罷り通っているのだが、何れ我々自身もそのうような古代から培われてきた弁論での論証のための知識を学び、実りある議論ができるものだと期待している。
 現代人の身の周りには学ぶための知識に溢れている。いつしか、そのような正しい手法により様々な詭弁を弄したり証拠などを歪曲させる闇政治的悪意も、インターネットの広域的分散化と情報の双方向性により駆逐されていくものであるだろう。