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二ではない(365日Screen100)

何かを語ることに意味はあるだろうか?

誰が誰に何を語ろうというのか?

もし何かが語られたとして、
それは何かを求めてのことだろうか?

それを語ることに
なにかの目的があるのだろうか?

何かを語るとは、
その内容が受け取られることを
求めているのだろうか?

それともそれは
ただ地下で熱せられた水が
温泉となって吹き出すような
一種の自然現象なのだろうか?

表現は何かを求めているのだろうか?

波動世界に真実としては
その波動の発振源に近づけば、
もうそれだけで
その波動自体がすでに情報であり
波動自体が自らを表現していて、
特にに伝えるなどということはないだろう。

しかし
語られるのが言葉ということになると
それとはまったく別なことが起こる。

たとえば、
林檎がどのような味であるかを、
そしてその味が
みかんの味とはどう違うのかを
言葉で伝えることは難しい。

それは「甘酸っぱい」といえば、
それが苦かったり、辛かったり
する味ではないことを示すだろうが、
ともに「甘酸っぱい」であろう
林檎とみかんの味の違いを
伝えることはない。

この惑星での
主要な情報伝達手段とされた言葉は、
それほどにも制限された手段だ。

そしてだからこそ、
ここには情報伝達の意味があるとも言える、

それは特に意図せずして
誤解と乱反射が発現する通信手段だからだ。

たとえば、
アドヴァイタ(非二元論)という
話題がある。

これは簡単に言えば、
いかに多様な現れ方をしていようとも、
すべては「二ではない」という観点だ。

しかし、
すべての本質は「二ではない」
という論点について語るために、
言葉が語られなければならない。

森羅万象、
現象世界のあらゆる多様な現れは
すべて「二ではない」
ということを語るために。

自己と他者、主体と対象
といった概念を基盤として構築された、
多種多様性が大前提である波動領域で、
すべて「二ではない」という主題が
語られなければならないわけだ。

これはよほどの物好きでなければ、
興味をもつことすらありえないほどの、
珍妙な主題とも見える。

だがこのアドヴァイタ(非二元論)が
いま密かなそして熱い注目を
集め始めているのも事実だ。

なぜか?

それは
「自己」と「他者」のゲームの振り子が
ひとつの極点にまで振り切ったからだ。

エネルギー場には
これまでのゲームのルールを
そのまま延長したいエネルギーがない。

エネルギー表現は
存在するエネルギーに見合った
新しい表現の形を取らなければならない。

そこで出てくる話題が
すべて「二ではない」という主題だ。

元の木阿弥、
本卦還り。

次の夢に見方を決めるための、
「ご破産で願いましては」……。


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