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世界政治同時進行世界史&日本史 狗奴国対狗邪韓国 修正1増補1 2024.2.18

 (邪馬台国の)東海が有り、千里で倭種が有る、と書かれて居ます。熊本県の長島からピッタリの表現です。チャンと狗奴国が在ります。何処がおかしいのでしょうか。
 日本書紀の垂仁記には、230年にやって来た、孫権軍に会ったと書かれて居ます。都怒我阿羅斯等については、此の人が王とは思えなかったので、東に移動したとも書いて有ります。247年頃起こった政変では、千人以上の死者が出たと有ります。神武東征でも、この様な表現は有りません。相当大規模な戦闘です。
 崇神天皇系の武烈記には、読んでられ無い程の表現が使用されて居ます。此の二つは、247年と478年の開きが有ります。途中には、358年の神功皇后の新羅征伐が在ります。神功皇后が新羅に行き居無くなると、崇神天皇系が、誉田別尊系に襲いかかったのでは無いでしょうか。そして、誉田天皇に摺り替えたのでしょう。
 狗奴国と狗邪韓国との鋭い対立が、浮かび上がって来ました。
 垂仁天皇と開化天皇系の狭穂姫皇后との長男の誉津別尊、別名日本武尊は、父の垂仁天皇が(呉の孫権軍と闘って居る)🟣👉(即位2年狭穂姫と婚姻、即位5年に彦蔵王の反乱で狭穂姫薨去、即位15年日葉酢姫と婚姻、四男一女を儲けて居ますので、最後の子の誕生は、最短でも即位20年となります。238年には誉津別尊が政務を行なって居ますので、狭穂姫の薨去は、223年以前となります。卑弥呼共立は古事記に298年と有ります。もう既に223年の頃は、険悪な雰囲気でした。彦座王の反乱では無く、崇神天皇が彦座王を襲ったのでは無いでしょうか。藤原不比等は崇神天皇系の車淑子の子で、日本書紀は、701年天武天皇崩御後の720年成立です。此位の書き換えはするでしょう。👈2024年2月19日修正)  🟣 母の狭穂姫がやっとの思いで、塀の上に、引き出した誉津別尊を置いて、焼き死んだのと、父の垂仁天皇を殺された🟣(狗奴国と戦えるのは、半島からやって来た、都怒我阿羅斯等だけでしょう。日本書紀には垂仁天皇の対戦相手の記載は有りません。👈同日増補)🟣恨みで、崇神天皇をやっつけたのでは無いでしょうか?何せ、千人規模の死者ですから。🟣呉の孫権軍を撃退しただけ有り、狗奴国は、かなり強かったと考えられます。鉄金山を守って居た卑弥呼は、敬意を持って、親戚の景行天皇を香春岳で迎えて居ます。👈同日増補🟣 邪馬台国系と考えられます。🟣出雲地方から鉄を取りに来た崇神天皇に殺害されたと考えられます。👈同日増補🟣 以て死す、と表現されて居ますので、中国では殺害された時に使用する表現を、使用して居ます。
 崇神天皇系は、🟣247年の👈同日増補🟣戦いに負け、九州から遥か離れた上州に避難したのでは無いでしょうか。
 641年に、天武天皇側の中臣鎌足が、態々、崇神天皇系の車淑子と結婚し、藤原不比等が、40年間も、日本書紀の編纂に関わった理由が判明します。
 日本書紀を編纂した蘇我氏系天武天皇子の舎人親王も怖がって居ます。
 不比等の四人の子供は、ペストで半年の内に死亡して居ます。やられたのでしょう。

 藤原道長・・・此の世をば、我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も無しと思へば

 近衛文麿の、大東亜戦争前の動きと合わせれば、判明します。

📛特別警告📛
小生は、大陸系です。情けって、何ですか? 小生には判りません。

 ⭕️正確な歴史を認識するって、恐ろしい事なのです。そして、強い軍隊を持つ事は、重要な事なのです。
 終わった事を、とやかく云っても得る物は有りません。此れからの将来方が非常に大切です。
 此れから、過去最強の縄文軍を作りましょう。👈同日増補⭕️



 

 


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