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小野不由美『東亰異聞』

小野不由美さんの『東亰異聞』を読みました。小野不由美さんと言えば、久しぶりに『十二国記』シリーズ待望の新作が出た事で有名ですね。私もいちファンとして、遅読ながら新作を読み進めております。


そんな新作を読むにあたって、少し前におさらいとしてこれまでのシリーズを再読していたのですが、その中のとある巻の後書きで軽く触れられていたのが、この『東亰異聞』。再読してみるものですね。以前読んだ時は特に何も感じなかったけれど、今回は俄然興味を持ちました。ってわけで、即購入。どうやらこれが、彼女の初作品だったようですね。 

何に惹かれたかって、本の紹介で表現されているワードが魅力的なんですよね。『帝都・東亰』『夜が人のものである時代は終わった』『魑魅魍魎が跋扈』『人の心に巣くう闇をあやしく濃密に描いて、官能美漂わせる伝奇ミステリ』


ただ、ミステリとして楽しむよりは、上記のワードから漂う濃密な雰囲気を味わう作品かと思います。時は明治。通りには馬車が行き交い、ガス灯が立ち並び、洋館風の邸宅に住まう洋装の人物も出てきます。反面、江戸の雰囲気を色濃く残しており、無理に世の中を変えたところで簡単に変わるわけはなく、むしろ歪みが出てしまう……そんなお話です。夜のシーンが多く、どろりとした闇の雰囲気の表現が印象に強いです。


で、話の随所に出てくる黒衣(くろご)の人形遣いと、文楽(浄瑠璃)人形娘。このお二人の掛け合いや雰囲気が、官能美を漂わせております。人形遣いが人形娘を愛でる様と、それに身を委ねる娘はなんとも妖しい。そしてこの人形娘が、絶妙なバランスで不思議な可愛いさを醸しております。二人の掛け合いは、芝居がかった風で、人形遣いが時に愛を語り時にからかい、娘もまたつれない態度ながら愛を表現します。それでいて動きは可愛いらしく、しかし口調は『アレ、~』『~じゃわいなァ』などと歌舞伎や浄瑠璃でも使われる独特の口調。そんな人形娘の魅力が詰まった、個人的にお気に入りの台詞は……

『えい、憎らしい。もうお前さまのことなど、知るものかえ。どうなと好きにするわいな。わしゃァお前のために、竪なものを横にもせぬわ。嫌じゃわいなァ 』



そしてここからはネタバレ感想です。



読後に思い返すほど印象的だったのは、三つ。一つは上記でも述べた通り、人形遣いと人形娘のシーン。一つは、物語後半で描かれる、お家騒動の種明かしシーンの舞台描写の美しさ。そして最後の一つは、新聞記者の新太郎と、大道芸界隈の便利屋である万造のやり取り。こうして魅力を挙げてみると、やはりミステリの部分というよりは、この物語に漂う雰囲気を形作る、枝葉の部分の方が際立ちますね。


お家騒動の種明かし自体は面白かったのですが、人の心の闇を存分に感じるわけではなかったです。というのは、理屈はわかっても、深く共感出来なかったからです。こんな考えに至る人もいるんだ……いや、いるかな……?まぁ、だからこそ『夜の者』に相応しいのだろうな……という感じ。むしろそのシーンの描写や演出が好きでした。


種明かしの舞台となったのは、月の出る頃、満開の桜咲く上野公園。この公園一帯は徳川将軍家の菩提寺として長く繁栄してきましたが、明治維新を経てしまえば、政府から見れば『朝敵の聖域』。戦争で廃墟となった後は、文明開化を象徴して、上野公園のほか博物館や植物園、博覧会の会場なども設けられた……そんな風に作中で語られます。まさに明治が江戸を踏みにじって、『たわめられた』の図。そんな江戸の怨恨を吸い上げて、白く幻想的に桜の花は咲く。そんななか、物語の役者達は故人を偲ぶという名目で、集められます。場所は上野公園内の凌雲院。鷹司家の幕を張り巡らし、紫の絨毯が敷かれています。お家騒動の種明かしとして物語は佳境に入るなか、紫の絨毯や役者達の上白い桜のはらはらと舞い落ちる様が、美しく感慨深く、随所にさりげなく描写されます。小野さんはこういった情景描写が素敵ですね。くどくなく、控えめに、でも歴史や人物の心理をなぞるように要所要所ですっと入り込むような、そんな描写。


ところで、人形遣いの正体には驚きました。万造って登場当初こそ、実の名は誰も知らない、とか怪しげな説明で胡散臭い人物のイメージだったんですが、新太郎とのやり取りを重ねていくうちに、事件を追いかける側の人物だといつの間にか思ってました。飄々とした感じもないし、むしろ控えめに新太郎の好奇心に付いてきてくれてる感じ。いやもう、小野さんに完全に騙されました……。


そんな万造を演じた人形遣いですが、最後には常(ときわ)に『夜の者』の素質を見出だして、常を人形にしてしまいましたね。そしてあの人形娘もまた、かつては人間だったようですね。推測ですが、彼女は「八百屋お七」だったのではないかな……?「お七」とは、江戸で起こった火事の際に避難先のお寺で吉三郎と出会って恋をし、彼にもう一度会わんがために、放火騒ぎを起こした女性……井原西鶴の『好色五人女』ではそのように描かれており、江戸時代に起こった実話がもととなっています。

そして『夜の者』とは、願いが昏(くら)いか明るいかは別として、純粋にただひとつの願いで満たされた者の事だと、人形遣いは言います。そしてそれは人形娘も同じです。彼は娘について、こう表現します。

「惚れた男会いたさに、添い遂げようとも手に入れようとも、どんな欲(まざりもの)もなく、ただ一目会いたいと、その幼い願いだけに満たされて、お前が人であることを踏み越えて魔性に昇華されてしまったように」

……これって、かなりお七の性質に近いですよね。

そして最終章である第四幕は、お七の衣装を着た人形娘から始まります。この時の娘は珍しく寡黙で、人形遣いの愛撫のような手入れに、されるがままです。その時に発した言葉のひとつに、

『翅(つばさ)が欲しい羽根が欲しい。飛んで行きたい。知らせたい』

という台詞があります。お七といえば放火ですが、浄瑠璃の演目としての『伊達娘恋緋鹿子』では、お七は放火しないようです。じゃあどこが見せ場かというと、火事でもないのに火の見櫓(やぐら)に登って鐘を鳴らすシーンです。なんでそんな事をしたかというと、彼を助けるため。吉三郎とその主人は、色々あって、盗まれた宝刀を期限内に探し出さないと切腹させられてしまう事になってしまいます。その期限が明朝に迫った時、ようやくお七は宝刀の在処を知りますが、時はもう夜。伝える術がありません。翌日を待っていては、明朝に処刑されてしまいます。そんなわけで、吉三郎に伝える一心で、なりふり構わず火事を告げる鐘を鳴らすという行動に出たのです。その時のお七の心情を、人形娘は台詞に乗せたのでしょう。

もちろんお七に限らず、作中で娘は様々な浄瑠璃演目の女性を演じるので、その台詞のみでは彼女がお七を演じているに過ぎない、ととれるかもしれません。しかしお七の事に関してはこのシーン以外にも二ヶ所、作品中で触れられているのです。

一つは、第三幕開始時。浄瑠璃の演目『冥土の飛脚』で、自分に惚れた男が罪を犯してまでも自分を求め、最期には二人とも捕まってしまうという悲劇の女「梅川」を演じる人形娘。しかし人形遣いは、そんな哀れな女を演じるのは似合わない、と評します。そんな意地悪に対して娘はそっぽを向きながらも、対抗します。

『供に冥土へ旅するならば、そりゃあ慮外の幸せというもの。お前さまはお三輪をご存知ないかえ』

ここでいう「お三輪」とは、また別の演目の悲劇の女性ですが、へそを曲げてしまった娘に対して、くすりと笑って謝った人形遣いの言葉が、こちら。

「お三輪も、お七もね。なるほど、その通りだ。考えの足りないことを言った」

……娘が口に出したのは、お三輪だけです。お七の事なんて一言も言ってない。なのに、人形遣いは敢えてお七まで引き合いに出してきた。それってつまり、そういう事じゃないでしょうか。


そして決め手は物語の最後、ついに常(ときわ)が人形遣いにより、人形にされてしまいます。それをうっとりと見入って人形娘が発した言葉がこちら。

『ほんに、吉三(きちさ)さまもかくや』

吉三というのはおそらく、お七の恋したお相手、吉三郎の事かと思います。吉三郎の代わりとなるお相手が出来て、娘も満足そうですね……。作中では人形となった常(ときわ)が話す事はありませんが、きっとその後は人形遣いのもとで、娘と一緒に様々な浄瑠璃を演じたり、睦言を言い合ったりなんかして三人で楽しくやるんじゃないでしょうか。読み手からすればなんとも仄暗い幕引きではありますが、常(ときわ)にとっては苦しみから解放されて、案外良い事なのかもしれませんね。(そこに彼の魂があるのかはわかりませんが)


人形=お七説を述べるのに、かなり長々と説明してしまいました……作品の魅力の本筋から大きく逸れてしまいましたね。


最後にこの作品で印象に残ったのは、万造のとある言葉と、物語の最後で描かれる、後の東亰の姿です。作品の序盤で、明治の世となり何かと規制が厳しくなってきたという事を、万造と新太郎は語ります。そこで万造は、ぼんやりとした不満と考えを述べます。

長いので割愛しますが、要は、昔みたいに、曖昧なものを曖昧なものとして楽しんでいたかった、という話です。大道芸の中には胡散臭い見せ物や趣味の悪いもの、詐欺まがいのものもたくさんある。それらは明らかに嘘くさい。でも嘘くさいからって、それがいけない事だと非難され、規制されるのはなんとも窮屈だ。嘘くさいのは皆承知のうえで、でも嘘か真かわからない、そんな曖昧さを人は楽しんでいたのではないか?世の中の嘘と本当を完全に分けるのは確かに安全だけど、それじゃ面白みに欠ける。ましてや嘘を規制してしまうと、誰もが本当の事のように、平気で嘘をついてしまう。これは、嘘か本当か曖昧にする事とは、同じように見えて全く別物だ。

万造の正体を知った上で読み返すと、本音をだいぶオブラートに包んでいるかと思いますが、これ読んでハッとしました。もちろん私は安全な世の中の方が安心しますし、ないものねだりのようにも思えますが、それでもやはり、曖昧なものを曖昧なままで楽しんでいたい、という部分にはいたく共感しました。というか、小野さんの理想なのではないでしょうか?『十二国記』シリーズだってシステマチックな世の中ではありますが、妖魔に怯えながらも人々は生きているし、妖獣なら飼い慣らして共生している。私はホラー小説は苦手なので小野さんのホラー作品は読んだ事ありませんが、ホラーを書く事自体が、曖昧なものを肯定しているようなものですしね。


『東亰異聞』の最後……後の東亰は、建物の一階部分に相当する高さが水没して、人々は舟で移動するようになります。そしてほとんどの時に霧がたちこめており、夜に限らず、昼さえも霧に乗じて魑魅魍魎は跋扈するようになりました。しかし人々は、そんな状況を割りきって受け入れています。そんなものは強盗や病気と同じ災難のようなものだ、と。これって、万造が上記で語った言葉を、理想化した世界のように感じます。しかもこの後の東亰で語られる雰囲気は、どこか穏やかでのほほんとした風情すらあります。そしてこの辺読んでると、『水の都』とか『霧のロンドン』のイメージが浮かんできて、異国情緒感じました。

そんなわけで、曖昧なものは曖昧なままで良しとする終わり方で、私としては非常に好みの終わり方でした。というか、作品全体を通してそんな雰囲気がありますね。ミステリっぽくないのは、そのせいかな?まあ、謎は謎のままな部分が多いので、ある意味ミステリーとは言えますね……。そういう部分もひっくるめて、とても味わい深い素敵な作品でした。

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