見出し画像

【短編小説】赤月夜の薔薇

月は銀緑色に輝くのが普通であろうが、燃えるように赤く輝く月の頃は、凍てつく砂漠の夜を、襤褸をまとった白い人影が果ての果てまで一人歩くという噂が旅人達の間に行き交う。


紅黒くガサガサと蠢くサソリをブーツで捻り潰し、ターバンで口元を覆い直し、砂避けのマントをかき合わせて俯くと、男は足を早めた───次のオアシスまでもう少し───


さて、噂の白い人影であるが、月が赤く燃える夜、必ず一人の時にそれは現れるそうだ。そして必ず後ろ姿で現れ、こちらを振り返る事もなく、ただ目の前を歩くのみ。距離にして、十五歩というところか。出会った者は方向を変えればそれから遠ざかる事も出来るし、追い越す事も出来る。しかし追い越し振り返ってみれば、それはもういないという。


男は足早に歩く。さらさらとした砂地をブーツで埋め込み埋め込み砂を飛ばし、銀緑に輝く月を睨んだ。今夜の月は、ここ最近の中で二番目に大きい。天蓋の夜空の五分の三は占めるだろう。睫毛と目のクレーターはぎょろりとこちらを見下ろしている。


陰険な目つきの月を睨み返すと、ふと、オアシスもまだ見ぬこの砂漠に似つかわしくない、ほのかに甘い芳香が漂った。


芳香を辿るうちにしだいにそれは強まり、甘く熟れたものとなっていた。──と、急に砂嵐が沸き、辺り一面が逆巻く。ざらついた砂煙をやり過ごし、薄ら目を開けると、そこには芳香の発信源とおぼしき物が……砂漠のバラ……のような形状のものが忽然と姿を表した。


砂漠のバラと断言出来ないのは、それがいわゆる鉱物とは言い難い物だからだった。男は以前、書物で見た「植物」というものを思い出した。白黒の点描で描かれたあれは確か……「薔薇」という名前だったか。砂を固めたような目の前の「薔薇」は、鉱物とは思えないほど繊細で緩やかなカーブを描いた「花弁」を幾重にも纏わせ、すえた臭いと間違うほどの甘く熟れた芳香を放ち、やがてそれはぶるぶると震え出した。


───来てくれたのね、あなた。
震える「薔薇」が言う。
───知らぬ。お前は何だ。
───ああ……見捨てなかったのね、あなた。
───話を聞かぬ「薔薇」だ。なぜ震えている。
───振り返ってはいけなかったのです。
「薔薇」はさらに身をよじり震える。
───振り返っては、いけなかったのです!
───何の事だ。
───とても眩しかったのです。そして暑くて……わたくし、溶けて固まって、冷えてしまいました。
「薔薇」が身悶え、その花弁をぎゅっと閉口する。
───ああ、あなた。私は愚かでした……。
愚かでした、愚かでしたと叫びながら「薔薇」はがたがたと震え、やがて叫びはつんざく金切り声に引き絞られ、男の鼓膜を震わせる。震える薔薇を一瞥し、男はその場を離れ、再びオアシスを目指した。


約二日後。灼熱の太陽光線を背負いながらたどり着いたオアシスは、すでに過去形のものと成り果てていた。枯れたオアシス……眩暈を覚えるほど揺らめく蜃気楼……あれが真のオアシスか……?崩れかけた石壁の廃墟群を横目に男が息をつくと、その石壁に同化したかと見間違う程の即身仏が呻いた。が、骨と皮のその身から発する声は、か細く聞き取れぬものだった。
───震える薔薇を知っているか。
なりかけの即身仏に尋ねるも、返事はない。男はそのまま、うだる暑さに倒れ込むように、即身仏の傍らの石壁にもたれかかり、目を閉じた───


──男の瞼の裏には、手の中で震える薔薇ひとつ。砂色の薔薇は赤みを帯び、喜びにうち震えながら固く花弁を閉じては開き、閉じては開き、愛の言葉を何やら紡ぐ。やがて男はこらえきれず、口を開き───


───猛毒だ!
と誰かの声がぐわんと鳴り響き、はっと目を覚ますと、辺りはすでに暗くなっていた。カサカサと紅サソリが足元を這い上がり、男はそれを足で振り払い、潰した。
あの夢の声は、耳元で聞こえた現実の音のように、かすかな余韻が辺りに漂っている。ふと右を見やると、なりかけの即身仏は、すでに仏となっていた。その独特の臭気にはかすかに甘い匂いが含まれ、死と甘美は紙一重なのではと、男は思った。


即身仏の傍らで、男は背負ったリュートを取り出す。夜風にさらされながら、ぽつぽつと爪弾くそれは、心に音色を持たぬ男にとって、奏でるというよりはじくという表現がふさわしい。黒紫の緞帳を下ろしたかのような夜空には、銀緑色の月が冴え冴えと輝く。今宵の月は、些か控えめだ。夜空の八分の一……といったところか。


男は思う。リュートの背景を。男の過去を。育ての親と呼べる者が、孤独な男のもとにもかつては存在した事を。決裂の折にもぎとったリュートを、なぜか男は未だに持っている。おそらく男を彼たらしめる、唯一の物だからだろう。


男は思う。銀緑色の月を。月とはかつての地上の記憶を反映するものだと、旅の詩人より聞いた事がある。緑を帯びて輝くそれは、かつてこの地に、緑の何かが広がっていたという事だろうか。ならば、時に現れる、赤い月は、何を映した……?


そこまで思い至った時、虚空に浮かぶ月の存在感がいや増している事に違和感を持ち、ふと見やれば、月が赤く燃えていた。赤い月の夜───白い人影───


男から十五歩前に浮かび上がったその人影は、まるで先程から歩いていたかのように、歩き続ける。それにつられるように、男も腰を上げて人影の後にそっと続いた。


人影はかつてのオアシス……石壁の廃墟群を抜け、赤い月が照らす赫灼の砂漠を静かに歩む。さらさらと砂を踏む十五歩後の男には、人影は気にも留めず振り返りもせず、ただひたすら前を目指す。


もうどれほど歩いたろうか。男の感覚が正しければ、丸一日はゆうに越えている。この白い人影から遠ざかれば、あるいは人影の目指す方向から少し逸らせば、逃れるのは簡単だろう。このままどこまでも付いて行ってやろうと男は思っていた。が、彼の執念は、ここであっさりと潰えた。なぜなら、そこにあの「薔薇」がいたからだ───


白い人影は薔薇に目もくれず、あるいは気付かないのであろうか、歩みを止めず、立ち止まる男を置いていき、やがてふっと消失した。残された男は、もはや人影への興味を失い、「薔薇」に向き合う。


───来てくれたのね、あなた。
口を歪めて笑みを作る。
───そうだ。
歪めた口元は、やがて自然と笑みになる。
───迎えに来たよ。
リュートを投げ捨て、衝撃で古びた弦が、ビインと事切れ弾かれる。赤く月が燃え上がる。かつて罪に焼かれた炎の町を映し出す。白い人影は、戻らない。
────遅くなって、すまなかった。
喜びに震える「薔薇」を手に取り、そっと口に含んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?