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その「幸福感」は、プライスレス。

 お母さんのお仕事は何ですか?君たちはそう訊かれたら、何と答えるのだろう?ひょっとしたら「主婦です」って答えるのかもしれない。色々やってそうだけど一言で言い表すのは難しそうだし、あまりお金にはなってなさそうだし。くどくどと説明するのが面倒で、ひとまず「専業」とはつけずに主婦としておけば間違いではないだろう、なんて。

 もし君たちが母さんを「主婦です」って言っていたら、以前の母さんはひどく落ち込んだかもしれない。今なら、主婦って言えるほど立派に主婦業をこなしているわけでもなし、「遊び人」ってことにしておいてよと言うかもしれない。その方が面倒だからイヤだよって言い返されそうだけど。

 社会生活の中では、何かにつけ職業はと問われる。選択式であれ記述式であれ、これまで母さんは自分を「主婦」としたことはない。「パート・アルバイト」も多分ない。自営業とかライターとか講師業とか、時には団体役員とか、やや後ろめたい気持ちを抱えながら、そういうことにしてきた。社会の一隅を占め、家庭にあっては稼ぎ手の一人であらねばという強いこだわりがあったからだと思う。
 男女雇用機会均等法が制定されたのが1985年。母さんが中2の頃だった。新聞や学校で男女平等という言葉に触れることはあっても、実際はそうではない。そういうスローガンの存在こそが、実態はそうでないことの証左なのだけど、そんな風に世の中を見られるほど大人じゃなかった。家の中も理不尽に思える不平等ばかりが目についた。
 それでも高校生の頃には、「おたかさん」こと土井たか子党首率いる社会党が参院選で自民党を破り、政界での女性の躍進がニュースで大々的に報じられ、母さんは胸を躍らせた。政治家になろうとは思わなかったけれど、女性である自分もしっかりと社会に出て仕事をする、男性と互角に渡り合えるようにならなければと強く思っていた。

 ままちゃんの反対を押し切って四年制大学に進学した母さんは、運よく国家一種試験に合格し、大学卒業と同時に公務員になった。一年半後に父さんと結婚した時には、お互い公務員としてキャリアを積むことを前提に、別居のまま婚姻届を出した。翌年の春には父さんの方の職場で配慮してくれたのか、母さんの勤務地での同居がかなった。それなのに、その次の春に母さんはたった3年で公務員を辞めてフリーのライターに転職した。
 当時、父さんはいい顔をしなかった。ダブルインカムでゆとりある暮らしを思い描いていただろうから当然のことだ。そんな父さんに対して、10年で収入は元に戻すからと母さんは一方的に宣言した。

 転職して2年半後に一人目の君を出産。フリーだったから細々ながら在宅で仕事は続けられた。ただ、仕事の依頼は徐々に減り、さらに2年後の二人目育児がスタートする頃には開店休業状態となっていた。代わりに、子育て支援団体での情報誌づくりや広場運営の活動にのめり込んでいったのだけれど、これらはほぼボランティアだった。君たちを連れて、地域の色んな場所に出かけて、様々な経験や学びを得たけれど、収入はほとんど増えなかった。所属していた団体はNPO法人となり、団体としてもやりがいと共に報酬を提供できるよう常に模索し続けていた。母さん個人もやりがいとお金と両方が得られる仕事を探して、地域情報誌での記事作成や里山でのレンジャーなどに携わってみた。だけど、どれもまとまったお金を得られないまま継続が難しくなった。
 生活費は父さんから定額でもらっていたけど、自由になるお金はあまりなかった。というより、欲しい物(それらには君たちに着せたい服や、読ませたい絵本などもあった)は、自分で稼いだお金で何とかしたかった。父さんに黙ってキャッシングを利用したこともある。少額でも決まって翌月には苦しくなるから使わない方がいいと分かっていても、そして頼めば父さんはきっとお金をくれると思っていても、お金が欲しいと言う事の方が難しかった(ちなみに、最後にキャッシングを利用したのはもう10年以上も前の事だから安心してほしい)。

 三人目の君が生まれ、いよいよ官舎が手狭になり、家を建てることになった。そこでより一層、お金を稼がねばという外圧内圧が強まった。フリーでもNPOスタッフでもなく、まとまった給料を貰える仕事を探した。そこで就職したのは、奇しくも最初に勤めたのと同じ省庁が管轄する研究所で、女性研究者のワーク・ライフ・バランスやキャリアアップを支援するためのセクションだった。任期付きの特別研究員という待遇だったけど、大卒で公務員となった当時の月給をここで超えることができた。公務員を辞めてちょうど10年。形はどうあれ宣言通りの収入が得られるようになったこと、そしてその給料の額を決める際に、子育て支援活動に携わってきた期間が実績として評価されていたことが何よりも嬉しかったことを憶えている。

 研究所での任期が終わり、市役所で非常勤の仕事に就いた。男女共同参画指導員という尤もらしい職だったけど、給料は半減した。それでも週3日勤務で自由に休みが取れて、イベントやセミナーの企画といった仕事の内容は面白かった。休みの日には子育て支援や性教育など地域での活動をした。仕事、志事、私事(どれも「シゴト」だ)のバランスが一番良かった時期かもしれない。ずっと続けていたかったけど、目の病状が悪化して思うように仕事がこなせなくなり、4年で辞めることにした。
 その後はNPOの代表を4年務めつつ「赤ちゃんが学校にやってくる!」の事業を県域に拡げた。勉強しながら性教育の活動も少しずつ進めた。あまりお金にはならなかったけど、精神的な報酬は大きかった。それまで地域になかった大切なものを、自分の手で創り出せているという実感と自負を得ることができた。

 いつしか父さんはお金のことを言わなくなった。イヤ、ホントは言っていたけど、母さんが聞き流せるようになっただけなのかもしれない。
 ともかく、社会にも家庭にも母さんの居場所がある。お金だけではないギブアンドテイクの営み、照らし合う関係性によって、今日も生かされている。その事実に対して、後ろめたさを抱えるのではなく、感謝の気持ちを伝えていきたいと思う。それが女性であることや状況に甘えた居直りだと、言いたい人には言わせておけばいい。女性活躍なんていう言葉が自分の在り方を苦しめるなら、誰かの目に輝いて映らなくていい。
 そんな風に思えるようになったのは、数年前、とある研修の宿題にかこつけて、父さんにもらったある言葉からだった。その宿題とは「あなたが周囲に与える良い影響について、身近な三人の人から聞きなさい」というものだった。母さんはその一人に父さんを選んだ。問われた父さんは30秒くらい考えて、一言「幸福感かな」と答えた。君たちは、この時の母さんの気持ちが想像できるだろうか。父さんはあまりにサラリと答えたので、”周囲”の中に父さん自身が含まれていたのかどうか、それは分からないのだけれども。

 そうそう、ドラクエの職業に「遊び人」ってあったよねと思って、ゲームに詳しい友だちのもっくんにその特徴を聞いてみた。弱くて足手まといで、戦闘中に踊ったりして役立たずだけど、レベルが上がるとそれだけで「賢者」に転職できるそうだ。賢者は攻撃と回復の魔法が両方使える最強キャラだけど、剣士や僧侶といった他の職業からは「さとりのしょ」というアイテムがないと賢者には転職できないらしい。
 お金が欲しいと思いつつも、生活のために嫌でも働かなくてはならないという状況になったことはない。ご飯の心配をせずに、その時々にやりたいことをやってこれたのは、ひとえにパートナーとしての父さんが稼ぎ続けて生活を支えてくれたからだ。家族というパーティーの中で、母さんを遊び人でいさせてくれた父さんに感謝しつつ、レベルアップしていきたい。「幸福感」という魔法をかけ続けられるように。そして、美味しいものが大好きな父さんに(もちろん、君たちにも!)、ご馳走を振舞えるくらいに稼げたら最高だよね。

2024年4月25日 蠍座十六夜の月の晩に

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