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母さんは君たちに手紙を書くことにした。

 初めてのお産をしたその日に、母さんは一通の手紙を預かった。それは、家の郵便ポストに届いたのではなく、ネット上の日記に投稿されたテキストで、生まれたばかりの君にあてて書かれたものだった。
 2001年2月、21世紀に時が移ってすぐのこと。手紙を書いたのは「ざっく」と名乗り、モー娘のあややや競馬について(そして時に母さんが書いた競馬の記事について)の評論めいた文章を綴っていた人だった。母さんはその人に会ったこともないし、その人の顔も本名も知らない。ざっく氏の日記がほどなくしてネット上から消えてしまうと、接点を持ちようもなく、今も生きているのかさえ知れない。
 新世紀を生きる君たちは、そういったネット上での繋がりの「軽さ」を、不思議とも思わないのかもしれない。だけど、対面で交わす言葉よりも、もう少し重ためのテキストをやり取りしていたざっく氏との繋がりが、切れるとも切れないともつかないままに途絶えてしまったことは、当時の母さんにはだいぶ残念なできごとで、今もふとした折に、ざっく氏の存在が意味ありげな「凹み」のように思い出される。

 ああ、前置きが長くなっちゃったね。
 ざっく氏がくれた手紙は、「こひつじくんへ」という投稿だった。
 母さんは初めての妊娠生活を「私の中の小さなおさかな」というタイトルのエッセイに綴り、メールマガジンとして発行していた。”こひつじくん”というのはつまり、母さんのハンドルネーム(ネット上のニックネーム、今の言い方がパッと思いつかない…アカウント名?)が”ひつじ”だったからで、マガジンの読者でもあったざっく氏は、ひょっとしたら生まれる前から心の中で君のことをそんな風に呼んでくれていたのかもしれない。
以下が、その手紙の全文だ。

こひつじくんへ

今日はちょっといいことがあってさ。それでも、本当のことをいえば、
やっぱり、ちょっぴり悲しいこともあった気がするんだけど。
ぼくは大人だからさぁ。胸んなかで唄をうたいながら、帰ってきたんだよ。

いいことが、もすこし、あるような気がしたんだ。
不思議だよね。

いつもそうなのかもしれない。
唄をうたえば、きっときみも元気になれるよ。
はは。それだけは、本当だから。おぼえておくといいよ。

で、ぼくのはなしなんだけどね。
いつもどおりにお仕事が終わる頃にさ、近くの小学校からね、聞こえてきたんだ。
チャイムの音がね、風に乗ってさあ、聞こえてきたんだよ。
知ってるかな。キンコンカンコンっていうあれさ、チャイムってのはね。

それで、なんていう唄だったかなあ。いつか習うと思うよ、学校でも。
おとうさんか、おかあさんに今度きいてごらん。
こういう唄なんだ。うたってみるね。わすれちゃったんだよ、なんていう唄か。

 夕焼け小焼けで日がくれて 山のお寺の鐘がなる
 おててつないで みなかえろ からすと一緒に かえりましょ

ね、いい唄だろ。きいたこと、ないと思うけどさ。
きみもいつかきっとね、先生とかさ、おとうさんとかさ、おかあさんとかにさ、
教わるんだよ、いろんな唄を。いっぱいいっぱい教わると思うよ。
うん。この唄もきっと教わるから。ね、ちょっとはおぼえたでしょ?

そうそう。だからね、この唄をうたってるつもりで、うちに帰ってきたんだ。
夜はまだまだ寒くて、吹いてくる風も冷たいんだけど、
ちょっとずつ暖かくなっていって。そう、3月ももうすぐだ、という日。

きみが生まれたんだ、って知ったんだ。

おとうさんがね、あいさつしてたんだよ、"ぱそこん"の中でさ。
ひつじさんのだんなです、生まれました、ありがとうって。

おかあさんはね、みんなに"ひつじさん"ってよばれてるんだよ。
そうそう、あの「めえぇ」ってなくやつね。まっしろの。好きでしょ?

ひつじさんはさ、あったかいでしょ。毛がくるくるってさ、セーターみたいだよね。

おかあさんも、そうでしょ。おかあさん、いつもあったかいでしょ。だっこしてくれて。

だから、おかあさんは、きみのためにいつもあったかい心でいられるように、
自分でも「ひつじです」って、あいさつするんだ。ぴったりな名前だよね。
それでみんなも、ひつじさん、おめでとねって、あいさつしたんだ。

あいさつっていえばね、びっくりしたよ。
ぼくは、きみのおとうさんって知らないからさ、びっくりしたよ。
いいおとうさんだね。いい、おとうさんだよ、きみはもう知ってるとは思うけど。

ああ、そのはなしはしたっけか。ごめんね。
ぱそこん、だよ。おぼえた?そっか。えらいな、きみも。

まあ、とにかくさ。そう。そういうことなんだ。
そう。おかあさんは、そんないいおとうさんと一緒になって、
毎日気分よく暮らせたんだね。だからきみが生まれることになった。
きみは生まれる前から、有名人だったんだから。ほんとだよ。

みんな、きみが元気で生まれてきますように、って祈ってたんだ。
おかあさんのこと、みんなで応援してたんだ。頑張れって。
おかあさんがいっしょうけんめいなの、知ってたからさ、みんな。

そう。そうだよ。
おかあさんは、きみのために、いっしょうけんめいだったんだよ、なんでも。
それは、ぼくも知ってる。ちょっとだけどさ。

ほんとは、みんながみてないところで、ううんと頑張ってた。
おかあさんは、がんばりやさんだよ。えらいんだ。
もちろん、おとうさんは、もうちょっとえらいんだけどね。
ううん。ちょっとだけさ。いっしょくらいかな、ほんとのとこ。

いつか、きっと言うんだよ、おかあさんや、もちろんおとうさんにも。
ありがとう、って。
ありがとうから、いろんなことがはじまるんだ。
その、つまり、なんだな、ぼくがきみにいいたいのは、そういうことなんだ。
きみはみんなに見守られて生まれてきたんだよ、って。

でも、いっつも、ありがとうって思わなくても、いいんだ。
はずかしいかもしれないからさ、ありがとうって言うのはね。
誰だって、てれちゃう。ぼくもそうだよ。大人なのにね。

でも、口に出して言えなくても、忘れなければいい。
みんなに言わなくたっていいよ、そのうち言えるようになるからさ。
だから、おとうさんとおかあさんには、ありがとうって。
がんばるからねって。そういう気持ち。気持ちだけでいいんだ。
ずっと、ずっと、忘れないでいようね。

それでさ、きみはひとりぽっちじゃないんだから。ね。
世界中の人は、みんないそがしそうにしてるけど、
うちにはおとうさんもおかあさんもいるしさ。
学校にいくようになれば、先生もともだちもいるんだよ。
いそがしいこともあるかもしれないけど、そこはわかってあげようね。
きみはかしこいんだからさ。
そういうことがしっかりわかる子なんだ、って、おかあさんひつじは思ってるんだよ。

きみも、あのひつじさんみたいに、あったかにしているといい。
風がつめたい日もあるかもしれないけどさ、唄でもうたって。ね?
おかあさんに、きかせてあげよう。
じょうずじゃなくてもいいんだよ、べつに。
そうすればとにかく、寒いのも、わすれちゃうんだから。
ほんとだよ。

そんなところかなあ。うまくいえないけどさ、いろんなこと。
勉強ちゅうなんだ。ぼくも。

でも、おとうさんも、おかあさんも、みんないつでも勉強ちゅうだから。

きみもいろんなこと、勉強していくんだよ、みんなそうなんだ。
自然にいろんなこと、おぼえたり、教わったりして、
いつかきみもさ、おかあさんに、いろんなこと教えてあげてね。
きみだけしか、みたりきいたりすることのできないこと、たくさんあるからさ。
たくさん、たくさん、あるんだよ。この世界には、たくさん、あるんだ。
きみは、いろんなことを教わるんだから、おかあさんに。
だから、そのおかえしにね、教えてあげてね、いつかきっと。

ぬかれちゃうかもしれないなあ、きみに。
がんばるからさ、ぼくも。がんばる。

ああ、いけね。遅くなっちゃったぞ。あしたも仕事なんだ。

じゃ、そういうことで。ね。
からすがなくから、帰ります。またね。(^^)

ざっく

「ZAKK THE LOVE 2001/ざっくのあーく」より

 この手紙をいつか君に渡そうと思いながら何となく月日が過ぎて、もう22年も経ってしまった。
 君だってざっく氏に会ったことがないし、これからも会うことはないのだろうけれど、世界のどこかで君のことを思い、お誕生を祝福してくれた人がいた、そういう世界に君は生まれてきたんだっていう証として、いつか君がとても辛い目に遭って、世の中が信じられなくなった時に、そっとこのテキストを手渡そうと思ってしまってあった。だけど、君は(母さんが知る限りは)多分そんな目に遭うことなく大人になり、今もはたから見ると楽しそうに生きている。
 君のあとに二人の娘も授かって、ゆっくりと流れる一日と、ざぁっと過ぎる一年とを連ねてきて、母さんは手紙の中に書かれていた事はすっかり忘れていた。「夕焼け小焼け」のメロディーと温かな言葉の感触だけを時々思い出すだけになっていた。
 なので、君たちに手紙を書くことにした。と宣言するこの文章を書き始めた時には、ざっく氏からの手紙について触れるつもりは全くなかった。これまで君たちと生きてきて感じたこと、やらかしてしまった失敗、貴い学び、そういった事々を、少しずつ取り出して手紙という形で世の中に出してみようと心に決めたなんてことをつらつらと書いていたら、ふとざっく氏から預かったままになっている手紙のことが頭をよぎったので、おそらく20年ぶりくらいに旧いハードディスクに保存してあったHTMLファイルを開いて(スクショを開くような感じかな)、全文を読んでみたのだった。
 思いのほか長かったテキストを、母さんは途中から溢れてくる涙と鼻水でぐしょぐしょになりながら読んだ。ふんわりとした淡い記憶しかなかったから、とんでもない不意打ちをくらった気分になった。けれども、このタイミングで手紙を読み返し、こんな形でようやく手渡すことになったのも半ば必然であったように思える。
 君たちと生きていくことが、そのまんまに「勉強ちゅう」の掛け替えのない時間であることを、手紙を受け取った時の母さんには理解しようもなかった。ようやく出産を終えたばかりで、当たり前と言えばそうだったのだけど。
 今読むと、まるで答え合わせのように、ざっく氏の言葉は「勉強ちゅう」だった時間を照らしてくれる。そして、それこそが、母さんがこんな風にテキストを残そうと考えた動機なんだと分かったんだ。

 そんな訳だから、君たちへの手紙という形式で、こんなテキストをnoteに上げることを許してほしい。次からは読まなくてもいいから。ざっく氏の言葉を借りるなら”きみだけしか、みたりきいたりすることのできないこと、たくさんあるから”、母さんの言葉に構うことはない。母さんにとって、君たちに伝えたいと思えることが、イコール世の中に伝えたい意味のあることなんだ。誰かが受け取って何かを感じてくれたらそれで十分だ。それが娘である君たちでなければならないなんて、母さんは考えていない。うっかり読んでしまって、嫌な気持ちがしたらいつでも言ってほしい。君たちもよく知っているように、母さんは時々ちょーしこいて、デリカシーのない言動をとってしまうことがあるから。苦情はいつでも受け付けるよ。

 有難いことに、君たちとの時間の終わりは今のところ全然見えない。
 ざっく氏の手紙にもあるように、これからも母さんに色々教えてくれたらうれしい。ずっとずっと勉強ちゅうだからさ。

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