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楽しいから学んでるの❤️の裏側の恐怖心

なんで自分は本を読んだり、講演会に行ってまで学ぶんだろう?学ぶことが知的好奇心を満たすからかな?

やっぱり新しいことを知るのって楽しいし、これからの時代は学んでおいて損はないよね。勉強代は最高の自己投資だし。

…でもなんでこんなにも不安なんだろう。学べば学ぶほど自分の知識の無さや能力の低さに気づいてしまうし。凄い人との格差がさらに開いている気がする。

学んでないあの人はなんであんなに幸せそうなんだろう?学んでないのに不安にならないのかな?

「ねぇねぇ?講演会とか本とか読んでるけどさぁ。それって楽しいの?」

そんな一言でドキドキ、もしくはグワーっと怒りや悲しみが混じった感情を想起させられたことはありませんか?いや、あるはずです。


今回は学ぶことの意味を考えたいと思います。

「学ぶことって知識を増やすことでしょ?」
「不安を取り除くこと?」

全部違います。学ぶとは自ら不安になることです。

唐突ですが、ちなみに今あなたは椅子に座っていますか?それともベットに寝転んでいますか?

椅子は硬いですか?それともフカフカですか?

最近は暑いのでできるだけ涼しいところで読んで頂きたいです。暑いか寒いか?

これらを少し言語化してみてください。

もし立っている人ならば左右に気をつけてくださいね。

さて、本題です。学ぶことについてあなたは今どう考えていますか?

例えば小学生に上がる時は「わぁ。小学生ってべんきょうしないといけないんだ。どうしよう。できるかなぁ…」と思いませんでしたか?

しかし、なってみると行われるのは、大体の人がみんなできる計算や文字の書き方で少し安心、それどころか「ちょっと自分偉いんじゃない?」みたいな勘違いを起こしませんでしたか?

私は大体分数辺りで勘違いをぶち壊されましたが(早い)あなたはどうでした?どこら辺ですか?数学が別れてからって人は凄いなって思います。(語彙)

どこら辺で見失っても同志は同志なのですが、それって自分の山をぶち壊された感覚ではないでしょうか?私は大学出てないので本や人からの知識になるので恐縮ですが、大学の授業から見失う猛者もいるそうです。

その理由は暗記でどうにかならなくなるからのようです。数学でもなんでも大学までは暗記でなんとかなるらしいのです。学がないのでわかりませんが。

それって仕事でもありません?例えば新人の頃は、わりと記憶力が良ければうまくいくんですよね。教えてもらった通りにすればOKだから。

あなたも新人の頃は「自分仕事できるタイプ❤️」なんて思いませんでした?それが年々周りとの差異に恐怖を感じ出す。なぜか?記憶力勝負じゃなくなるからです。

コミュ力やタスクを並列で進行する力、リスクとリターンを考えて決定する力が求められ出しますよね。それは記憶力ではどうにもならない。自分で考える力が必要になります。

そこに気づくか気づかないか?それがいわゆるできる奴できない奴の差だと思うのです。

わかりやすく言うと、身体能力はめちゃくちゃに高いボクシング未経験者がプロライセンスを持ったボクサーに調子に乗って挑むようなものです。確実に1ラウンドでKOです。顔はボコボコに腫れ上がるでしょう。

なんとなくわかりましたか?

ではなぜあなたもわたしも勘違いしてしまうのでしょう?

それはダニングクルーガー効果です。わたしのTwitterをフォローしてくれている人は見たかも知れませんが、

cydas.com

この図です。1を知ったら「私はもう完璧!知らないことなどない!」と思ってしまうことです。つまり初心者ほど完璧と思ってしまうことです。

新人が上司をアホと認識してしまうのもこのせいだと思いたいです。(違う)

筋トレもそうです。何も学ばずにひたすらに筋トレしまくる人は全然成長しません。それどころか筋肉を大きくしたいのに細くなっていきます。なぜならトレーニングは信号であり(体に成長を促すスイッチを押す)大事なのはその後の栄養摂取だからです。

アメリカのボディービルダーの中では有名な言葉で「筋肉はキッチンで作る」と言う言葉もあるくらいです。

ではなぜ成長しない人は成長しないのか?自分の知識が正解であると疑わないからです。だから学ばないとも言い換えられます。

無知の知って言葉を知っていますか?ソクラテスの言葉です。(哲学の父と言われている。)ソクラテスは知らないことを知っていると勘違いしない限り知があると考えました。

テレビのコメンテーターもそうではないでしょうか?専門家の方々が「私の専門分野ではないので」と口を噤むのに対して自称賢人が「黙るんですか?」と言い放つ。そんな場面をよく見ますよね。

知らないことを知らないと言えることはすごいことです。なぜなら知らないことを知っているからです。例えば新人の頃に「この件についてなんか質問ある?」なんて問われても、そもそもその上司の目指すゴールに対する経路がわからないので質問のしようがありません。

初めてのことをするときに質問や検索することなどできません。わかりやすく説明すると、初めて筋トレするときに検索で筋トレ 初心者 としか検索することはできませんよね?そうするとどこに気をつけるか?どのくらいやれば効果が出始めるのか?それらについて知る術はないのです。

それを知るのはもっと後になるのです。だから「あーこれやり出す前から知ってればもっと早く効果が出たのに。」と悔しくなるのです。やってないことは人間想像できないのです。

ところであなたはSNSをやっていますか?ここで言うやっていますか?とは発信していますか?という意味です。ROM専は違います。

やっていると思った方は周り(SNS上)を見て「あーいいなーこんなにフォロワーがいて。」と思っていませんか?

確かにこれからの時代インフルエンスはお金に換えられます。そもそもお金=信用です。

承認欲求は人間の最上位の欲求です。メンヘラは認められたいからメンヘラになり依存するのです。あの人に認められたい!は人間の原動力足ります。

しかし、それら(インフルエンサー)からあなたは漠然とした不安を感じたりしていませんか?なのに次の日にはケロッと忘れてSNSに投稿する。そしてまたSNSでのインフルエンサーを見て「こんなふうになれたらいいなー」って考える。

なぜそんなにもフォロワーが欲しいのか?それは正直なところ自分が何者でもないと知りたくないからです。自分の弱さを認めたくないのです。

自分の実力を知るのは死ぬほど怖いです。自分の今の地点を知りたくない。例えるならマラソンです。42.195kmを完走しようとしてるのに現在地点が2kmだと知ると絶望するでしょう。

それと同じことなのです。あなたはマラソンを走ってるつもりになっている。人生は別にマラソンではないのに。そもそも競う相手など何処にもいないのに。

そしてSNSで見るおっさんや自分の部下と同じくらいの年齢の他人はすごく見えるのに、自分の周りには自分以下に思える人物しかいない。そんなふうに感じていませんか?

自分もこうなってしまうのか。と漠然とした不安を感じている人も多いことでしょう。つまり未来の自分と重ねているのです。

この観測範囲のしょぼいおっさんと凄いインフルエンサーはあなたにとってはシャドーなのです。シャドーとは心理学的にいうところの自分の中で否定している考え、自分です。

自分が生きられなかった自分です。

例えるなら、勉強を死ぬほど頑張って内申点のために先生にも従う。そうやって生きて大学に行って社会人になり会社員として疲弊しているときに庭でバーベキューしているマイルドヤンキーを見て「あんな生き方したかったなー」と思うこと。つまりこの人にとってはマイルドヤンキーがシャドーなのです。生きられなかったもう1人の自分なのです。

否定している自分。なりたいものになったとしても逆サイドの自分のなりたかったものがありますよね?それは一度は否定していますが生きられなかった自分なのです。

しょぼいおっさんだってそうです。「こんなにも頑張って仕事しているのにしょぼいおっさんのせいで苦労している。しかもしょぼいおっさんは自分よりも給料が高い!」疎ましく思う反面生きたかった自分なのかもしれません。

そして私やあなたが学んでいる本当の理由は怖くて仕方ないから学んでいるのです。そこに綺麗事はいらない。怖いから学ぶ。するとまたさらに怖くなる。

それは当然のことなのです。

学べば知識が補完されます。するとわからなかったもの、見えなかった景色が見えるようになります。

例えるならDJですね。ものすごく簡単そうに見えますよね。ただ好きな曲を順番にかけるだけに見える。でも実際やるとテンポ、曲調、曲のキーによって繋げると、とんでもなく違和感を感じるのです。

このnoteだってそうです。文を書いたことがない人はほぼいませんよね?あなただってずっと読んだり書いたりしていたはずです。しかし、いざ書こうと思うと書けない。書けても全く面白みがない文章になる。

それはなぜか?やれると知っているは死ぬほど違うからです。そして学べば学ぶほど学ばなければいけない範囲は広がります。

つまり学ぶことによって自分の無知を確認しているのです。あなたや私が「今ここだけど大丈夫かな?」と思うのは自然なことなのです。

学ぶとは知識の補完ではなく、自分の知識の破壊です。破壊が行われていない時は確認しているだけなのです。自分の考えは合っているのか?他人から見て正解かどうか?をです。

そんなことに意味はあるのでしょうか?不安を消し去るための学びは決して学びではありません。不安をあけすけにすること。不安を拡大することが学びなのです。

冒頭で話した学んでいないのに幸せそうな人はなんなのか?今ならわかるでしょう。

例えるならサファリパークでライオンを見ているようなものです。目の前にライオンはいるがそれをリアルに感じていないのです。だから「わぁ!ライオン大きいー」などと言えるのです。

しかしあなたはサファリパークではなく、サバンナにいるのです。だからライオン(恐怖や不安)をリアルに感じるし、自己研鑽することができるのです。

筋トレはただのスイッチであるとお話ししましたね?そうです。学びも単なるスイッチなのです。人間は危険であると認識しなければ成長しません。

だからこそあなたが学んで不安になるのは正しいのです。あなたをダイブさせるための、背中を無理矢理押すためのスイッチなのです。

あなたもこれから一緒に不安になりましょう。それが正しい学びなのですから。

不安を解消するのは私のnoteでお願いします。

それでは、また、次回。

あどりでした。

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