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カンボジア現代史④ 民主カンプチア、そして暗黒時代

前回までのあらすじ

 インドシナ共産党カンボジア支部に起源をもつクメール人民革命党は当初は穏健な共産主義政党であった。フランス留学から帰ってきたポル・ポトとその同志たちは、激化する第一次インドシナ戦争の混乱に乗じてクメール人民革命党を乗っ取ることに成功した。
 カンボジア独立後事実上の独裁体制を敷いていたシハヌークは反政府共産主義勢力を「クメールルージュ」と呼んで弾圧した。その中にはポル・ポト率いるクメール人民革命党も含まれていた。弾圧を機にポル・ポトたちはジャングルに逃れ、地下活動を開始する。潜伏中にベトナムや中国を訪問し、闘争の本拠地を山岳地帯に移す中で「原始共産主義体制」による国家構想を膨らませる。また中国訪問後、ポル・ポトは党の名前を「カンボジア共産党」に変更した。中国と同じ共産党を名乗ることにより、ベトナムを追い越すという強い対抗意識があった。
 ポル・ポトの一派は農民反乱を機に武装闘争を開始するが、政府を転覆するような力はなかった。一方カンボジア国内では北ベトナム軍、米軍による戦闘が拡大しており、国民の生活を圧迫していた。政権内で反シハヌークの動きが高まると、米国は首相であったロン・ノルを支援してクーデターを起こした。クーデターの結果、シハヌークは中国に逃れ、反ロン・ノル闘争を呼び掛けた。
 今回は劣勢だったクメールルージュがいかにして全権を握り民主カンプチアを建国したのか、クメールルージュ政権下では実際に何が起こったのか、どのように大虐殺が起こったのかを書く。

第三章 民主カンプチア 歯車は狂い始める

3-1.それは北京から始まった

 1970年3月18日、シハヌークがソ連を訪問していた際にロン・ノル首相がクーデターを起こした。ソ連政府は即時帰国を勧めていたが、シハヌークは従わず、友好国である中国に逃れた。3月22日の記者会見では政権に復帰するつもりはないと言ったものの、翌日23日ラジオで国民にロン・ノル打倒のため立ち上がるよう国民に呼び掛けた。カンボジア共産党指導部のフー・二ム、フー・ユオン、キュー・サムファンの三人は潜伏先のジャングルから支持声明を出した。シハヌークは当初態度を決めかねていたが、北京にて周恩来と極秘会談を行い、ロン・ノル政権打倒のため、かつて彼がクメールルージュと呼んで弾圧したカンボジア共産党と同盟を組むことを決意した。ロン・ノルに対する復讐心、またクーデターにおけるアメリカの介入疑惑からシハヌークは長年の敵であった共産主義勢力と呉越同舟の同盟を組むことを決めたのだ。5月5日、カンボジア共産党とシハヌークはカンプチア王国民族連合政府を結成し、中国は即座に承認、そして政権奪還のため支援することを表明した。

毛沢東と会談するシハヌーク

 シハヌークが連合政府樹立のため動き回っていたころ、ポル・ポトも北京を訪問していた。しかしポル・ポトは表向きにはカンボジア共産党のトップを名乗っておらず、シハヌーク自身も彼が党の本当の指導者であることを知らなかった。表向きの指導者はジャングルに潜伏していたフー・二ム、フー・ユオン、キュー・サムファンの三人だった。連合政府樹立後もシハヌークは北京に滞在しており、共産勢力の実態は一層見えにくかった。カンボジア共産党側も積極的に真の指導者たちのことは表に出さなかった。73年にシハヌークはカンボジアの解放区を訪問するが、1万人規模のシハヌークの歓迎式典でもポル・ポトたちは表に出てこなかった。
 カンボジア共産党指導部は当初シハヌークに不信感を抱いていた。しかし国民の多くが解放勢力側に寝返りつつあった一方でシハヌークの国民人気は高く、利用価値があると指導部は判断したようだ。シハヌークもカンボジア共産党側が演出した表向きの歓待ぶりに共産主義と王政の結婚が上手くいったと思い込んでしまった。しかし実態としては力関係はカンボジア共産党の方が上であり、もはやシハヌークの権力は有名無実となっていた。この力関係をシハヌークも認識していたようで、ロン・ノル政権を倒したら自分はフランスでバラでも育てながら余生を送るつもりだと周囲に漏らしていた。

3-2.プノンペン陥落

 一方でロン・ノル政権側は常に劣勢だった。1970年10月、クメール共和国の樹立を宣言したロン・ノルは大統領に就任し独裁体制を敷いた。政権の腐敗はシハヌーク時代よりも酷かった。敵は解放勢力だけでなくカンボジア領内に侵入した北ベトナム軍、南ベトナム解放戦線もおり、米国による支援なしでは政府軍の維持もできないありさまだった。ロン・ノル政権側は謎の楽観思考を持っており現時点で国内で大暴れしているのはベトナムの共産主義勢力で、彼らさえいなくなってしまえば問題はないと考えていた。現実はもちろんそんなことはなく、日々激化する戦闘やロン・ノル政権に対する失望から多くのカンボジア国民がカンボジア共産党の解放勢力側へと渡っていった。1971年10月には国土の60%、人口の半分近くが解放勢力の支配下にあった。
 北ベトナム軍および南ベトナム解放戦線はカンボジア共産党による協力要請によりカンボジア国内で活動していたが、ベトナム共産主義勢力はカンボジア共産党にロン・ノル政権との和解を呼び掛けており、常に一定の対立があった。もともとカンボジア人の間で反ベトナム感情が強く、解放区でもたびたびベトナム人の排斥運動が発生していた。1973年、パリ協定により米軍はベトナムから撤退することを約束した。ベトナム共産主義勢力は南ベトナムに最後の攻勢をかけるためカンボジア国境地帯へ移動した。これにより反ロン・ノル闘争の主導権はカンボジア共産党に完全に移り、この戦争はカンボジア国内の内戦と化した。
 ロン・ノル政権側は米軍による爆撃を頼りにしていたが、米国側もインドシナの戦争への介入に嫌気が差しており、73年には爆撃による支援を停止してしまう。一方でこの爆撃自体も多くのカンボジア人が解放区側へ逃亡する原因にもなった。大した成果を上げることもできず、むしろ米軍による支援攻撃が解放勢力を強大にしていた。この爆撃でカンボジア共産党指導部はむしろ自信を強め士気を高揚させた。自分たちは世界最強の米国による爆撃を耐え抜き、着実に勝利へと一歩一歩前進しているのだと。
 物流が遮断され、支配地域のインフレ率が300%を超えてもロン・ノル政権は楽天的で、北ベトナムと交渉すれば解放勢力と和解できると考えていた。解放勢力の実態をつかみ切れていなかった米国はシハヌークと接触しようとするも、すでに自分は連合政府のお飾りに過ぎないと理解していたシハヌークは「もう遅い。米国がカンボジアの泥沼から抜け出そうと思うならクメールルージュと直接交渉するしかない」と切り捨てた。1974年6月、カンボジア共産党中央委員会は首都プノンペンへの最終攻撃を実施することを決定した。75年1月、解放勢力は3万5千人規模の部隊を動員、幹線道路、河川流通、空港を制圧した。
 米議会はロン・ノル政権への支援を完全に断ち切った。75年4月、ロン・ノルはハワイに亡命する。解放勢力はロン・ノル政権中枢は売国奴であり、解放後死刑にするが、それ以外の役人や軍人は政権と決別したなら歓迎すると事前に布告していた。もちろん解放後多くの労働力を必要としていた解放勢力側の嘘であったが、信じたカンボジア人は多く、彼らはプノンペンにとどまった。75年4月17日、ロン・ノル政府軍は完全降伏し内戦は終結した。プノンペン市民は内戦終結を祝い大喜びであったが、対照的にプノンペン入城してきた解放勢力軍はみな不機嫌で不気味なほどに押し黙っていたという。

クメールルージュの指導者たち
左端がポル・ポト

 プノンペン占領後、解放勢力はロン・ノル政権の閣僚だけでなく政治家、警官、軍人などを拘束し、700人以上の旧体制の人間を殺害した。しかしこれはこの後起こる惨劇の序章に過ぎなかった。全権掌握後国名は「民主カンプチア」に変更された。このころからポル・ポトは本名であるサロット・サルを名乗るのをやめた。ポル・ポトは政権内で一の同志、コード87、年長者など呼ばれていた。ポル・ポトは政権掌握後もジャングルから出ず、側近のペン・ヌートや長らく連合政府の代表を務めてきたキュー・サムファンを表向きの政権幹部として登用した。シハヌークは北京から帰国し国家元首の地位に復帰した。しかしこの地位は傀儡でありシハヌーク自身には一切の権限は与えられなかった。王族も多くが殺害され、シハヌーク自身も殺されかねない状況であったが、個人的に友好関係にあった中国からの圧力によりシハヌークは宮殿に幽閉されるだけで済んだ。


第四章 暗黒時代 こうして大虐殺は起こった

4-1. プノンペンからの強制退去

 解放勢力の勝利を歓迎していたプノンペン市民の喜びは長くは続かなかった。クメールルージュ政権は権力掌握後、プノンペン全市民に対して市外への強制退去を命じた。アメリカ軍の空爆があるから都市部から非難するようにというのがクメールルージュの兵士たちの言葉だったが、実際のところは地方の集団農場の労働力として必要だったのだ。4月のカンボジアは1年で最も暑い時期で、気温は40度を超えることもある。雨はほとんど降らない。病人、怪我人、障碍者、老人、子供、妊婦など関係なく徒歩での移動を強制された。水も食糧も与えられなかった。途中で倒れるものも多く道には腐敗した死体が転がっていた。当時のプノンペンの人口は200万人だったが、この首都からの強制退去だけで10万人が命を落とした。住民の多くは具体的な行き先を決められていたわけではない。北へ向かえなど曖昧な命令が強制され、1週間から1か月の間歩き続けなければならなかった。これは人々から抵抗の意思を奪うためというよりは、単純にクメールルージュ側で誰をどこでどのくらい受け入れるのか決め切れていなかったことが原因だ。しかし受け入れ先の集団農場に到着するころにはほとんどの市民に抵抗する気力も残っていなかったであろう。
 こうしてプノンペンはゴーストタウンと化した。ポルポト政権の幹部であったイェン・サリはのちにプノンペン市民強制退去の理由について「都市を完全に一掃して、すべての問題を解決した上で権力を握らなければ暴動が起こってまた権力を奪われてしまう」と説明している。ポル・ポト政権幹部たちにとって、都市とは腐敗そのものであり資本主義に毒された革命の敵の巣窟であった。プノンペンに到着する前からクメールルージュの軍は各地で都市を無人にして住民を強制移住させ、農民、労働者として再教育を施した。どこでどのように受け入れるかは決まっていなかったが、都市を無人化し住民を農村で再教育するというのは既定路線としてあったのだ。
 都市は悪と腐敗の象徴であり、資本主義に毒された「革命の敵」の巣窟である。それゆえ都市の住民をすべて追い出さなければ安心できない。警戒心を超え、もはや人間不信としか言いようがないが、クメールルージュ政権には国家転覆を図る敵がどこかに紛れているという病的な不信感が蔓延しており、それが最初に大々的に表出したのがプノンペン市民の強制退去政策であった。
 クメールルージュの政策の根底にはこの病的な不信感があると言ってよい。プノンペンがゴーストタウンと化したあともポル・ポトはたびたび住居を変え、党の幹部にさえ居場所を知らせていなかった。ポル・ポトの妻であるキュー・ポナリーは精神を病んでおり常にベトナムが攻めてくると泣いていたそうだが、ポル・ポト自身も国内に革命の邪魔をする敵が潜んでいるという不安に取り付かれていた。この不安はやがて国中に蔓延して、カンボジア人同士が殺しあう大虐殺へと発展する。

4-2. 旧人民と新人民

 大移動を終えた後も地獄は終わらなかった。移動先で旧プノンペン市民は現地の集団農場に組み込まれた。持ち物はすべて没収され、黒い人民服とサンダル、赤いクロマー(カンボジアの伝統的な首巻)、スプーン一個しか所有は許されなかった。クメールルージュ政権は国民を「旧人民」と「新人民」に分けた。都市や最後までロン・ノル政権支配地域に住んでいた国民は「新人民」と呼ばれた。新人民は絶えず反革命の嫌疑をかけられ、強制労働に従事させられた。

人民服

 旧人民も「完全な人民」と「準完全な人民」に分けられた。身内に新人民や処刑された者がいない労働者が完全な人民として特権を享受できた。身内に新人民がひとりでもいると「準完全な人民」となる。この区分は多少流動性があり、新人民が旧人民になることもその逆もあった。出身成分という制度が北朝鮮にあるが、内容としてはそれとほとんど同じである。クメールルージュ政権は北朝鮮とも古くからの友好関係にあり、国家の運営方針について大きく影響を受けたと思われる。
 新人民は各地で旧人民に冷遇された。皆が真っ黒な人民服を着て、手作業で田畑の開墾に従事した。朝の4時から夜の10時まで、土曜日や日曜日というものはない。農作業が終わったら水路の掘削、ダムの建設などの土木工事だ。これも機械を使わず手作業でやることを強制された。新人民は強制労働から逃げることができなかった。労働環境は過酷であり、また食事は1日2杯のおかゆのみであった。多くの人民が栄養失調となり餓死した

手作業での土木工事
機械の使用は禁止された

 新人民は革命の目的について知らされていなかったという。プノンペン陥落後、誰が権力を握ったのか、国をどのようにしようとしているのか知らされていなかった。クメールルージュ政権は自らを「オンカー(クメール語で組織を意味する)」と名乗っていた。オンカーは絶対であり、人民はオンカーに服従することを求められていた。このオンカーというものの実態が具体的には何か教えられることはなかった。新人民や一般的な旧人民にとってのオンカーとはサハコー(人民公社)のリーダーであり、盲目的に命令を遂行する義務が課せられていた。一方サハコーのリーダーにとってのオンカーは郡のリーダーであり、郡のリーダーにとってのオンカーとは地区のリーダーでありといった具合で、常に誰かに管理されていた。このオンカーのトップにはポル・ポトがいたが、人民のほとんどは組織の全貌やリーダーが誰かは知らなかったのである。強制労働は最初は新人民のみであったが、やがて旧人民にも課されるようになる。



4-3.命令 敵を密告せよ

 オンカーから「内なる敵を探せ。うまくいかないのは国の中に紛れ込んだ敵のスパイが妨害しているからだ」という命令が下った。民主カンプチアは建国後早くも行き詰っていた。アメリカからの食糧支援が止まり、カンボジアは食糧危機に直面していた。中国や北朝鮮、WFPなどの国際機関から食糧援助の申し出はあった。しかし「自主独立」に拘りがあったポル・ポトは外国からの支援を拒否し、自国で農業生産を増大させることで対応しようとした。そのために都市部に住んでいた新人民を労働力として徴用したのだ。「都市部で働かず甘い汁を啜ってきた人々」を労働力にすることで食糧生産を三倍にすることで食糧危機を解決、さらに労働を通して資本主義に毒された新人民を教育できると考えていたのだろう。ポル・ポトは国家計画に、カンボジア人が成し遂げた革命に自信を持っていた。だからこそ各地で死者が相次いでいるという現実を見たとき、国内や政権内に裏切者がいるからだと考えたのだ。
 裏切者の粛清は政権内、一般人民内ほぼ同時並行で進行した。表向きにカンボジア共産党指導部であったフー・二ム、フー・ユオンが暗殺された。フー・ユオンはポル・ポト政権の中では現実路線で、都市住民を農民にするのは無理があるとプノンペン攻略前から提言していた。はっきりとした時期は不明だが、クメールルージュが政権を獲得した75年のうちに、地方の集会で演説後、党の暗殺部隊の手で射殺されたらしい。
 フー・二ムは拷問の末に処刑された。供述書には「私はCIAとベトナムとソ連のスパイネットワークに属している」と書かれていた。あまりにも荒唐無稽な内容であるが、猜疑心に満ちたポル・ポトと指導者たちを満足させる供述であった。存在するはずないスパイ情報、指導者に対する暗殺計画、共謀者を自白するまで3か月間拷問を受けた。共謀者としてあげられた人々は失脚し、強制収容所に送られ、拷問を受け、政権が満足するような裏切りと共犯者を自白させられた。このようにして政権内の粛清が進んでいく。少しでもポル・ポトや政権幹部たちに逆らったら「革命の敵、ベトナムの手先、アメリカのスパイ」などレッテルを貼られて粛清の対象となった。

最大の政治犯収容所S21(トゥールスレン)
独房

 革命の敵探しは政権内だけに止まらなかった。「敵がいる、探し出せ、始末しろ」というポル・ポトの命令はピラミッド型の組織を通して下々まで忠実に実行された。末端の共同体では村人を監視する密偵組織ができて、村人を監視した。やがて密告活動は双方向になり、密偵ですら密告に日々おびえて暮らすありさまだった。人々は上からの命令に忠実になって「内なる敵」を探した。米を盗んだ、サボった、共同生活の不満を漏らした、オンカーからの命令を無視したなどである。察しのいい人なら分かるかもしれないが、「眼鏡をかけているからこいつはインテリ、反体制だ」というのは末端の相互監視の中で生まれた極端な事例のひとつである。ポル・ポトが「眼鏡をかけている者はインテリだから殺せ」と命じた記録は残っていない。カンボジア国内が上から下まで忠実にポル・ポトの「内なる敵を探せ」という命令を守った。敵を見つけるためにあらゆるレッテル張りが行われた。真面目に敵探しをしなければ今度は自分がやられてしまうかもしれない。そうした恐怖から人々はお互いを密告しあったのだ。

犠牲者たち

 あるカンボジア人は戦後こう語っている。「国民はポル・ポトの名前を知らなかった。私はポル・ポトの名前さえ知らなかった。今では皆がポル・ポトと言う。ポル・ポトが指導者で殺人者と。でも実際はポル・ポトは命令しただけだ。殺したのはカンボジア人同士だ

まとめ

 北京に亡命したシハヌークはクメールルージュと手を組んだ。ロン・ノル政権に国家をまとめる力はなく、ベトナムと中国の支援を受けたクメールルージュは少しずつ勢力を拡大、5年後にプノンペンを攻略し政権を奪った。
 政権奪取後、ポル・ポトは国名を民主カンプチアに変更した。ロン・ノル政権の閣僚、軍人、官僚などを殺害、プノンペンなど都市部の住民から財産を没収し、農村へ強制移住させた。
 カンボジアは食糧危機に直面していた。ポル・ポトは「都市部で怠けていた人々を農民に転用することで、外国からの支援に頼らず食糧を増産できる。食糧危機を解決し、資本主義に毒された人々を労働を通して教育することができる」という国家プランを描いていた。幹部の中にはそうした見通しが甘い上に急進的な政策に反対する者もいた。しかしポル・ポトは自分の考える革命像に自信を持っており、自分の政策が上手くいかないのは国内に革命の敵が潜んでいるからだと考えた。
 「内なる敵を探せ。うまくいかないのは国の中に紛れ込んだ敵のスパイが妨害しているからだ」ポル・ポトは命令を下した。カンボジア人は従順であり、忠実に命令に従った。政権内から末端の庶民まで「革命の敵探し」を通して粛清の嵐が吹き荒れた。クメールルージュの政策自体が急進的で、理想主義的なわりに行き当たりばったりのため餓死、病死してしまった人も多かったが、国民同士の密告合戦によって死んだ人の方がはるかに多かった。真面目に敵を探さなければ命令に背いた革命の敵として今度は自分が殺されるかもしれない、そうした恐怖からカンボジア人は国民同士で殺し合ったのだ。

参考文献

・『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』
・『ポル・ポトの悪夢: 大量虐殺はなぜ起きたのか』

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