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特急しらさぎ区間短縮と「教授の本棚」から見えてくる失われつつある大切なものの話

3月16日、北陸新幹線が敦賀まで延伸開業する。それにともない、かつて特急街道と呼ばれた北陸本線はその大部分が廃止され、特急サンダーバードと特急しらさぎの運転区間は大幅に短縮され、ローカル輸送に徹する新たな鉄道会社と北陸新幹線が輸送の柱となる。

一方、今私は「教授の本棚」という尊敬する先輩の新しい試みに飛び込んでいる。環境心理学の分野で約40年研究を続けてきた過程で集めた蔵書を、一般ピーポーである私たち参加者にランダムに送りつけ、一緒に「わからなさ」を体験しましょうという、合理性ゼロな企画(いやむしろマイナスかもしれない。ほめてます)。

速達性やわかりやすさ、経済合理性の象徴である新幹線と、その対極にある「教授の本棚」。2つを同時に眺めて感じたあれこれについて書き残したいと思う。

今の鉄道に感じるうっすらとした居心地の悪さ

券売機から指定されるルート以外選べない

先日、北陸本線とのお別れと称し富山へ旅行した(注:書き手は歴20年の乗り鉄なのです)。名古屋〜福井を特急しらさぎで、福井〜金沢を在来線で、そして金沢〜富山は第3セクターで移動。途中下車しながらノープランで目的地を目指したくて、特急券は福井まで、乗車券は名古屋から富山まで通しで買いたかったのだが、この切符の購入がとにかくストレスフルだった。みどりの窓口は長蛇の列でどれだけ待たされるか検討がつかない。そこで自動券売機で購入を試みた。特急券は難なく購入できたのだが、問題は乗車券だ。

にっくき自動券売機の画面(きっぷルールを知りすぎているが故に起こるイライラ)

この画面を見てまずトライするのは「乗換案内から購入」だと思う。これを押下して出発地:名古屋、目的地:富山と入力すると、「ひかり+特急しらさぎ+北陸新幹線(北陸本線ルート)」もしくは「特急ひだ(高山本線ルート)」の二択しか出てこない。いや、特急券はいらんねん!で、次に下の方の「乗車券」を押下して同様に入力すると、詳しいことは忘れたがとにかくエラー画面的なものが出て、購入に進めない。おそらく金沢以東3セクが関わるからだろうが、そんなもん客側は知ったこっちゃない。で、結局正解はどうだったかというと、最初の方法で北陸本線ルートを選択し、画面を進め続け、最後の最後に「乗車券のみ購入する」というボタンを押下する、というものだった。誰がこのUIでたどりつけるねん!!怒

やっとのことでしらさぎ指定席に腰をおろしたとき、ふと猛烈な怒りが湧いてきた。目的地を決めない自由な移動、寄り道や回り道をしながらふらふら楽しむ旅は、経済的合理性によって駆逐されかけている。なんで券売機に私の移動方法を決められないといけないんだ。気持ち悪い。

今の鉄道資産は本当にこれ以上活用できなかったのか

特急は北陸本線を最高速度時速130kmでぶっ飛ばしていく。大昔は交通の難所だった山岳地域も長大な北陸トンネルであっというまに通過していく。その後はまっすぐな線形で、とにかく速達という目的のためにポイント設備や追い抜き設備などすべてがそろっている。

大阪方面からの特急サンダーバードはおよそ30分に1本、米原・名古屋方面からの特急しらさぎは1時間に1本あって、最終列車も相当遅い時間に設定されている。オーバーかも知れないが、金沢まで新幹線が通っている今、マジで不便を感じている人なんていないのではと思う。

特急があまりに多すぎて在来線の本数がとても少ない、あるいは特急通過待ち時間が余分にかかるので、地元の人にとって不便だ、という問題はたしかにある。それでも、速達性確保に必要な設備は既に十分整っているにもかかわらず、総事業費1兆6,779億円(!)という巨額費用を投じてまで新たな新幹線線路を建設する意義はどこにあるのだろう?(しかもこの金額は金沢〜敦賀延伸にかかった費用だ) 2050年の北陸3県の人口は現在比24%減(222万人)と言われているのに、その頃には今建てたこの高規格すぎる路線は立派すぎる無駄なコンクリートの塊になってしまわないか?

垣間見える東京一極集中と東京民の奢り

途中下車した福井駅では駅ビルの開業準備がどんどん進んでいた。木材をふんだんにあしらった美しい現代風の建築デザイン。いったいこれは誰のための準備なんだろう?と、ふと思った。地元福井の人のため?もちろんそれもあると思う。でも、結局のところ「東京の皆さんに来ていただくため」なんじゃないかと、私には思えてならない(性格が底意地悪い自覚はある)。最も人口集中している東京からいかに人を呼び込みお金を落としてもらうか。そうでないと新幹線ができる意味がないじゃない、みたいな。

こちらはえちぜん鉄道の福井駅です

話が飛んでしまうが、大阪生まれ大阪育ち、名古屋に住みながら東京の会社で働くようになった私は、よく同僚から「東京に引っ越してこないの?」と言われ、そのたびに実はモヤッとしている。私はこの質問が大嫌いだ。その人が「東京に引っ越す=あなたにとって良いこと」という前提を持ってなければこんな問いは出てこないし、そんな前提は一方的で傲慢な押し付けだと思うから。「いや、そっちが来いよ」とつい心の中でファイティングポーズを取ってしまうのは、私が大阪人であるが故なのかもしれないけれど。

北陸新幹線にも、これと似たような文脈を感じ取ってしまうのは、私の思い込みだろうか。

東京〜福井は北陸新幹線延伸開業によって、最速2時間51分で結ばれるらしい。乱暴に言えば、福井県民にとってはこんな短い時間で"東京に"行ける!、東京都民にとっては3時間弱で行ける選択肢がまたひとつ増えたわ、という感じだろうか。でもいずれにせよ、東京の富に依存する構図であることに変わりないような気がするのだ。私はその垣間見える東京至上主義的なものに対し、居心地の悪さを拭えない。

もうひとつ、旅の最後にとても印象に残ったことがある。富山旅を楽しみすぎてしまった結果、帰りは時間をお金で買う羽目になり新幹線に乗らざるを得なかったのだが、ひとつひとつの家々や街並みを視覚が認識する前に猛スピードで後ろへ流れていってしまう。その圧倒的なスピードが人の営みを無視しているように思えて、それにもある種の傲慢さを感じてしまったのだ。

合理性に反旗を翻す試みに乗っかってみる

合理的・シンプルが正とされる世界の居心地の悪さ

私が勤めている会社は、規模はそれなりに大きくなってきたもののスタートアップ企業であり、創業者の意志もあって日本企業だけれど海外出身者が結構多い、ちょっと変わった会社だ。社内言語は日英二言語で、その場のメンバーによってフレキシブルに使用言語が変わる。
そんな会社で物事を前に進めるには、いかに問題をシンプルに整理してシンプルなストーリーにして外国人上司の頭に刻み付けるか、が勝負だ。英語という言語の特性も関係するのかなとも思う。語順ルールが明確に決まっている文法を持つために「誰がどうする、何を、どこに」が先に頭で整理されていないと話せないので、思考が勝手にシンプルになっていく感覚がある。

でも、シンプルにする作業は、たくさんのことを引きはがして捨てていく作業でもある。上司のよいリアクションを引き出すために、自身の経験や価値観に反して捨てていくことだってたくさんある。すぐシングルメッセージに落とし込めるような単純な問題なんてそもそもないし、問題は得てしていろいろな要素が絡んでいて複雑だから問題になる。

物事を無理やりシンプルにする、自分の母語ではない言葉でポイントを押さえて説明する。これをひたすら繰り返すうちに、気づかないうちに自分の心が疲弊している気がしてきたのだ。答えのない問いについてぼんやり考えたり、海外で自分の生きてきた世界と全く違う価値観に触れたりすることが好きな私にとって、世界は広くて一生かかっても自分には理解しきれないものであり、シンプルに分解するなんてできないもの。年齢を重ねていろんな場所に足を運び観察する経験が増えて、ますます私にとっての世界は複雑になってきている。そんなに単純にはなれない。

「わかる」「分けられる」は思い込みであり傲慢だったのだ

昨年「ほぐす学び」という試みに参加した。その当時感じたことはこちらに書いたものの、今自分で読み返してもわけわからんことを書いてるなと思うくらいなので、他の人からすれば意味不明のはず。先に謝っておきます。

ものすごく乱暴にこの試みを説明すると「これまで触れたことのないジャンル・学問の書籍に悪戦苦闘する行為を通して自分の脳みそを一旦ばらばらにほぐし、『わからなさ』の体験を通して、再度自分の知識や価値観を編み直そう」というところだろうか。

上の記事でも触れているが、初回の課題本「社会科学における場の議論」は特に強烈な体験だった。まず、母語なのに内容がさっぱり頭に入ってこない。自分の日本語能力がコテンパンに打ちのめされた。そして「場」という概念を伝えるには、これだけの言葉や数式を駆使してもまだ足りないのか、と気づかされた。

「教授の本棚」は、それをもう少しライトにした試みのように思う。教授の40年の研究生活が詰まった本棚から一部を拝借して、10冊ほどが個別に送られてくる。

どーん(重量級)
送られてきた書籍たち

本の楽しみ方は人それぞれ。明らかにわけのわからなそうなタイトルの本のページをえいっとめくって「やっぱりわかるわけなかった!」と悶絶するもよし、1980年代の印刷技術や装丁を愛でるもよし(←私です)、教授が黄色鉛筆でハイライトしている箇所だけ抜き出して、教授の当時の興味関心を妄想するもよし。

教授の本をパラパラと眺めているだけでも感じること、それは「世界は本当に広い」ということだ。資本主義が席巻するビジネスの世界では、「競争を勝ち残るためには『複雑な事象を分けて考え原因をつきとめ、わかりやすくシンプルな戦略を立てて実行すべし』」とされる。が、私たちの住む世界はどれほどの言葉を尽くしても表現しきれないほどに複雑だ。複雑な事象を分けようとする行為はそれ自体に無理があるし、何より傲慢な行為のように思えてならない。

経済的利益につながらないとわかっていてリソース投入できることが豊かさなのかも

私個人の話になってしまうが、30代後半になって、本当に物欲がなくなってきた。かばんも財布も化粧品もほとんど持っていないし、ブランド物にも全然興味がない(これは若い時から変わらない)。独身で一人気ままなこともあって、幸い今の待遇で不安なく生活できている。大学院も修了して、死ぬほど忙しかった日々も今や昔だ。そんなときふと思った。私ってどんな状態に「豊かさ」を感じるんだろう?楽しいな、充たされているな、と思った体験はこんな感じだ。

  • 青春18きっぷで目的地(広島)だけ決めて、寄り道しつつ名古屋から14時間かけて移動する

  • 大阪の実家から名古屋へ戻る際、青春18きっぷで紀伊半島を一周して12時間かけて移動する

  • 転職前に有休消化で2週間バンクーバーへ行き(成田発ウィーン・モントリオール経由という謎の格安航空券を使用)、ほとんど予定を入れずひたすら街歩きして過ごす

  • 読書会で答えが出なくてもいい対話の時間を過ごす

具体的な体験から振り返ってみるに、自分にとっての豊かさって「わからない」「めんどくさい」「時間がかかる」ことなんだなぁと思う。そうやってシンプル・時短・タイパ・合理性などなどから解放されることが、私にとっての豊かさであり幸せだ。最初の新幹線の話に戻すと、だから私は新幹線をそれほど好きになれないし、ローカル線が失われ新幹線というコンクリートの塊が広がっていく様は、物理的ではないが本当に大切なものが合理性に押しつぶされていくようで、賛同できないのだ。

わからなさ、非合理的なものは能動的にならないと手に入らない

「物理的ではないが何か大切なもの」は、弱い。誰かがそれを慈しみ守ろうと行動しなければ、合理性に簡単に駆逐されてしまう。私が「教授の本棚」に参加しようと思ったのは、この文章に心から共感したからだ。

経済合理性の中で仕方なく捨てられていく本がある。曖昧さを許さず「わかりやすい」ことのみが尊ばれる空気がある。そんな社会の潮流に向けて、本屋アルゼンチンからささやかな抵抗を始めます。その一歩が、「教授の本棚」なのです。

合同会社こっから「ニュース」より(https://kokkara01.com/news/882/)

こんな企画が世の中に必要なほどに、もう既に、曖昧なものや非合理的なものは能動的にならないと手に入らない社会に移り変わってしまっている。でも私は、合理性、わかりやすさのみが尊ばれる社会に、ささやかな抵抗をしたい。めんどくささや曖昧さが許されない世の中なんてくそくらえだ!

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