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戦争と私

 いろいろ書きなぐっていますが実は自分は戦争や軍隊と実生活ではあまり縁がありません。それでも祖先はあの時代を生きてきたので無関係というわけではありません。

父方 - 南洋群島

 父方の家は兵庫県北部、但馬にあった。そこそこの資産家で地主であり、牛車を駆使して今で言う運送業を営んでいたという。しかし曾祖父が遊び人で土地の多くを失い祖父の代にはかなり苦しかったらしい。
 祖父は明治の生まれ、日露戦争の少し前に生まれたらしくハレー彗星を目撃した(明治43年)というのが自慢だった。出っ歯だったが身体は達者だったようで、甲種合格で兵役にとられた。兵隊姿の写真を見せられたことがある。もっとも計算すると大正後半ごろになり、平和な時代で戦地にいくことなく除隊した。兵庫県なので篠山の第70聯隊だったと思うのだが、軍縮で連隊区の境界が変わって鳥取聯隊に配属された可能性もある。
 除隊後、当時日本が委任統治していた南洋群島を所管する南洋庁に就職した。県庁に伝手があり、その縁で得た職らしい。大学にいくような余裕はなかったのでもちろんキャリア官僚ではなかった。はじめはいわゆる雇員として非正規扱いだっただろう。しかし勤務態度は良かったようで長く勤めることができた。国立公文書館に残っている戦時中の職員名簿をみると「南洋庁属」とあって下っ端ではあるが官吏のはしくれ(判任官)に昇進していたことがわかる。
 祖母が遺した手記によれば、昭和のはじめに南洋群島から一時帰国したタイミングで見合いをし、そのまま南洋に渡ったそうだ。当時の任地はパラオで、七人兄弟の三番目で次男だった父はそこで生まれた。生活は豊かではなかったものの食べるには困らなかったようで、フルーツや魚はふんだんに手に入った。現地人の子供とも仲良くしていた、とあるがこれは飽くまで祖母の主観で実際どうだったかはわからない。
 宮仕えの常で祖父もたびたび転勤した。パラオからヤップ、サイパンと移り住んだ。父が通ったのはサイパン国民学校だった。その当時の集合写真を父が指しながら「この人とこの人は玉砕して」とこともなげに語ったのが強く印象に残った。

 祖父は兵役経験者のいわゆる既教育兵だったが戦時中に召集されることはなかった。南洋庁職員だったことが考慮されたのか、単に年齢が高かっただけなのか、あるいはその両方だったのか。サイパンはのちに米軍の上陸をうけて住民とともに南洋庁職員も多くが犠牲となったが幸い祖父は東京勤務を命じられて帰京することになった。まず祖母が父を含む子供たちを連れて本土に向かうことになり、輸送船に乗り込んだ。当時すでにアメリカ潜水艦が跳梁しており、祖母は子供たちにそれぞれ乾パンを持たせて万一の漂流に備えたが、途中潜水艦騒ぎはあったものの無事本土にたどり着くことができた。祖父も遅れて帰国した。その少し後にサイパンやテニアンに米軍が襲来する。

 祖父は東京にあって、パラオやヤップ、トラックなどの南洋庁本庁・支庁と連絡をとったが人や物のやり取りはすでに不可能になっていた。祖母と子供たちは疎開生活を送っていた。日本が降伏すると南洋庁は廃止され、祖父は職を失った。一家揃って但馬に帰郷し、その後はかかなり苦労したらしいがそれは別の話である。

母方 - 中国大陸

 母方の家はもともと広島にあった。従兄弟が調べたところによると江田島だったらしい。だが祖父は若くして関西に出て、そのあと滅多に帰郷しなかったらしい。そのせいか広島とはほとんど縁が切れている。なにか確執があったらしいが詳しくはわからない。
 祖父は、今でも名前をいえば誰でも知っている財閥系の商社に就職した。祖父は専門学校(現在の高専や短大に相当)を出ており当時では高学歴に属したが、大学出がごろごろいる財閥系商社では見劣りした。それでも部長にまで出世したので、かなりの遣り手だったようだ。のちの話だが、母は高校を卒業したあと祖父の会社にコネで就職した。祖父とは別の部署、別の事務所に配属されたがある日、母は使いを頼まれて祖父が働いている事務所に向かった。書類を受け取った母は「印鑑を」と言われて困った。「書類をもらってくればいい」とだけ聞いていて印鑑が必要とは思っていなかったのだ。そこで母は思い付く。この事務所には自分と同じ苗字の人間がいるじゃないか。母は祖父の席に行き「ハンコおして」と書類を差し出した。渋い顔をしながら言われるがままに判をおす祖父を見て、部下が「われわれは部長のハンコをひとつ貰うのにすごく苦労しているのになんであの子は簡単にハンコがおしてもらえるんだ」と驚いたという。

 閑話休題、商社に勤めていた祖父は戦前、中国の天津に派遣された。すでに日中戦争が始まっていて、日本の商社の活動は軍の活動と表裏一体だった。仕事の内容については詳しく聞いていない。しかし軍が必要とする物資の調達に関わっていた可能性は否定できない。当時、軍の仕事をすることは忌避されるようなことではなく、むしろ推奨されることだった。その一方で軍の支援を得て商談を行うようなこともあっただろう。
 こちらの祖父も家族を任地に連れて来ており、母は幼少期を中国大陸の天津で過ごした。小学校は天津の日本人学校に通った。食事は中国ふうだったようで、一部の中華料理は「昔さんざん食べさせられて飽き飽きだ」と毛嫌いしている。やはり召集されることなく商社マンとして終戦を迎えられたのは、近眼だったというのもあるが軍の仕事をしていたからではないかと思っている。

 日本が降伏したとき、祖父は出張中で天津を離れていた。のちに社内報に掲載した手記が最近見つかったが、それによると日本人だとバレたらどんな目にあうかわからない状況でとにかく家族と合流するために相当苦労したようだ。鉄道や大きな道路を避けて回り道をしながら同僚と徒歩で天津をめざした。うっかり日本語で話しているのを聞かれても危険なので連絡もできなかった。天津の留守宅では全く連絡がとれず不安に襲われたが、数ヶ月後になってひょっこり現れてようやく安心した。引き揚げがまさに始まろうとしていたタイミングで、おそらく優先扱いで帰国した。いったん江田島の実家に落ち着いたようで、母は半分沈んでいた軍艦を目撃している。詳しく聞こうと思ったが面倒くさがって話を打ち切られてしまったので艦名まではわからない。

 戦後、祖父が勤めていた商社は財閥解体のため分割され、そのひとつで祖父は働いた。しかしやがて合併してもとの木阿弥となる。既述の通り部長にまで出世したが、その後の隠居生活で蓄えた資産も食い潰され、主がいなくなった家は先年売却された。

おわりに

 8月15日なのでいつもと趣の異なる記事を書いて見ました次のネタを考える時間稼ぎでもあります。
 ではまた次回お会いしましょう。

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