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スション提督の第一次世界大戦 - Admiral Souchon in WWI

 古い書籍などではゾーヒョンと表記されていたドイツ帝国海軍のスション提督は一般には第一次大戦冒頭での地中海支隊司令官として知られていますが、実は戦争中それだけにはとどまらない興味深い活躍をしていました。最後は後味の悪いキャリアの終え方になってしまいましたが、波乱に満ちたスション提督の戦歴を知ってもらえましたら幸いです。

第一次大戦まで

 ヴィルヘルム・スション(ゾーヒョン)Wilhelm Souchon はドイツ・ザクセン王国第二の都市ライプチヒで1864年6月2日に生まれた。当時ドイツ帝国はまだ存在しない(1871年成立)。フランスで新教が禁止されたためドイツに逃れてきたいわゆるユグノーの末裔で、その苗字は「スション」とフランス語式に読むのが本来のものだという。

ヴィルヘルム・スション


 海軍士官を志し1881年に海軍生徒となった。同期生にはのち高海艦隊司令長官となるヒッパー Franz von Hipper (1863-1932) がいる。1884年には南西アフリカ植民地(現ナミビア)の占領に参加している。1904年4月には東アジア巡洋艦戦隊司令官プリトヴィッツ中将 Curt von Prittwitz und Gaffron (1849-1922) の参謀長をつとめた。まさに日露戦争の最中であり8月10日には黄海海戦が生起して一部のロシア軍艦がドイツの租借地青島に逃げ込んで抑留されるという事態も起こった。長江を遡って現地の高官と対談したり、オランダ領東インドを訪問したり、義和団事件後ドイツ海軍軍人として初めて中国皇帝と西太后に謁見するなど見聞をひろめた。最後に日本を訪問したあと帰国した。
 1907年10月には戦艦ヴェッティン SMS Wettin の艦長となり1909年9月にはバルト海司令部の参謀長となった。1911年4月10日に少将に昇進、10月には高海艦隊第2戦隊副司令官に就任する。

地中海支隊司令官

 1913年10月23日、スションは前年編成された地中海支隊 Mittelmeerdivision の司令官に就任した。翌1914年6月23日にサラエボでオーストリア皇太子がセルビア人民族主義者に暗殺され、7月28日にはオーストリアがセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が始まったとき、スションはオーストリア領ポーラで支隊旗艦である巡洋戦艦ゲーベン SMS Goeben のボイラーを修理させているところだった。
 開戦の知らせを聞いたスションは修理作業を中断させて至急出港を命じた。ドイツはまだ正式には参戦していなかったが、それも時間の問題でしかなかった。ポーラはアドリア海の最奥に位置している。英仏が参戦すればアドリア海の出口は簡単に封鎖されてしまうだろう。その前に外海に出なければならない。ボイラーの不調という不安要素をかかえたままゲーベンは出港する。
 ブリンジシではイタリア当局が言を左右にして石炭の搭載を許さなかった。イタリアはドイツ、オーストリアと同盟を結んでおきながらこの戦争では中立を選んだのだ。タラントで麾下の巡洋艦ブレスラウ SMS Breslau と合流しシチリア島北岸のメッシナに入る。ここで在泊していたドイツ貨物船から2000tの石炭を搭載することができた。
 7月30日、イギリスの海軍大臣チャーチル Winston Churchill (1874-1965) は地中海艦隊司令長官ミルン Berkeley Milne (1855-1938) に対してフランス領アルジェリアからフランス本土に向かう1個軍団を搭載した船団を保護するとともに、出現する可能性があるドイツ艦隊の行動をできるだけ妨害せよと指示した。この命令の中の「優勢な敵との交戦は避けよ」との文言がのちに問題になる。巡洋戦艦3隻を主力とする地中海艦隊は当時マルタに停泊していた。
 ミルンはドイツ艦隊がまず地中海西部でフランス船団の襲撃を試みたあと大西洋への脱出をはかるとみて、巡洋戦艦2隻(インドミタブル HMS Indomitable、インデファティガブル HMS Indefatigable)を中心とする部隊を率いてマルタを出撃、西に向かった。トラウブリッジ少将 Ernest Troubridge (1862-1926) には装甲巡洋艦を主力とする部隊を預けてアドリア海の監視封鎖を命じた。

地中海支隊と追跡するイギリス部隊の進路


 スションはフランス領アルジェリアの攻撃をめざしてメッシナを経ち西に向かった。8月3日夕方、ドイツがフランスに宣戦布告したという知らせをうけてアルジェリア海岸の艦砲射撃を決意する。翌4日早朝、本国のティルピッツ海軍大臣 Alfred von Tirpitz (1849-1930) からコンスタンティノープルに向かえという指示を受け取ったがスションは予定通り砲撃を行なうと決め、ボンとフィリップヴィルに砲撃を加えた上で東に向かった。
 9時30分、スションの支隊はミルンの巡洋戦艦と遭遇する。しかし英独のあいだにはまだ戦争は始まっていなかった。互いの隊列は何事もなかったかのようにすれ違う。ドイツ軍のベルギー侵入をうけてイギリスがドイツに宣戦布告するのはこの日の夕方のことだった。イギリス艦隊はドイツ支隊を追跡したが振り切られてしまった。ミルンはドイツ支隊に遭遇したこととその位置は報告したが、彼らが東に向かっていることは報告せず、したがって本国ではドイツ支隊が大西洋への脱出をはかっているという判断を変えなかった。チャーチルはミルンに対しドイツ支隊がフランス船団を攻撃した場合は交戦を許可すると伝えたが、正式参戦の前にそのような行動をとるべきではないと閣内で反対されたため取り消した。
 翌5日朝、ドイツ支隊はメッシナに戻ってきた。このときまでにドイツとイギリスは戦争状態になっていた。中立を守っていたイタリアはドイツ支隊に対し24時間以内の出港を要求した。その一方でメッシナ港を監視するイギリス艦隊はイタリア領海の外にとどまらざるを得なかった。ミルンはインドミタブルを石炭補給のために返し、代わりにインフレキシブル HMS Inflexible を加えた巡洋戦艦2隻体制でメッシナ港の北出口をおさえた。ドイツ支隊が西に向かうと考えていたからである。東出口を監視していたのは巡洋艦グロスター HMS Gloucester だけだった。
 スションは与えられた時間を石炭補給に費やした。イタリア当局の非協力により石炭搭載作業はすべて人力で行なわなければならなかった。当地に寄港していたドイツ商船船員の助けも得て6日夕方まで作業を行なったが搭載できた石炭は1500tにとどまりコンスタンティノープルに向かうには不十分だった。ティルピッツからは新たな指示が伝えられており、それによるとオーストリア艦隊にはドイツ支隊を支援する余力はなく、一方でトルコは中立を維持しているのでコンスタンティノープルには入れない、ということだった。しかしスションは敢えてコンスタンティノープルに向かうと決めた。オーストリア艦隊と合流してもアドリア海に封じ込められるだけであり(実際そうなった)、コンスタンティノープルに向かうことで「その意志に関わらずオスマン帝国にその歴史的な敵であるロシアと黒海で戦争にいたらしめる」ことができると考えたのだ。
 ミルンは仮にドイツ支隊が東に向かったとしてもアドリア海入り口で待機しているトラウブリッジの部隊で対応可能だと考えていた。ドイツ支隊には弩級艦とはいえ巡洋戦艦1隻だけしか含まれていないのに対しトラウブリッジは旧式とはいえ装甲巡洋艦3隻を擁していた。
 6日夕方メッシナを経ち東に向かったドイツ支隊は監視していたグロスターに追跡された。知らせをうけたトラウブリッジもあとを追った。ボイラー不調にも関わらずドイツ支隊はトラウブリッジよりも優速だった。主砲の射程でも速力でも劣っていることからトラウブリッジはまともに対戦してもドイツ支隊は自由に交戦距離を選ぶことができ、自隊の射程外から一方的に叩かれるだけだと考えた。「優勢な敵との交戦は避けよ」という指示も念頭にあった。トラウブリッジは翌7日の日出時間帯に東側に位置するドイツ支隊に対して麾下駆逐艦で接近して雷撃を加えるほかに成功の可能性はないと判断した。しかし駆逐艦の多くはすでに石炭が不足しており全速での戦闘はできない状態だった。トラウブリッジは追跡を断念した。
 グロスターは追跡を続けたがミルンはまだドイツ支隊が西に向かうと考えていたため距離をあけるよう指示した。しかしグロスターには支隊がエーゲ海をめざしているのは明らかだった。グロスターは距離を縮めブレスラウと戦闘になったが、ミルンはギリシャ南端のマタパン岬で追跡を打ち切るよう命じた。
 日付が変わって8日になったころ、ミルンは3隻の巡洋戦艦を率いてようやく東に向かった。しかしその日の午後、オーストリアとイギリスが戦争状態に入ったという誤った情報が本国から届き(実際は12日)、ミルンはアドリア海の入り口を封鎖するためにアドリア海に向かった。9日、ミルンはようやく本国から「ゲーベンを追跡せよ」という明確な指示をうけたが、ドイツ支隊がコンスタンティノープルに入るとは考えなかったミルンはエーゲ海の入り口でドイツ支隊が出てくるを待ち受けた。
 ドイツ支隊はエーゲ海の島陰で石炭の補給を行なった上で10日の夕方にはダーダネルス海峡の入り口にまでたどり着き、オスマン帝国政府から領海に入る許可が得られるのを待った。親ドイツの陸軍大臣エンヴェル・パシャ Enver Pasha (1881-1922) が強く主張し許可が得られ、ドイツ支隊はコンスタンティノープルに入港した。しかしオスマン帝国は依然として中立国であり交戦国であるドイツの軍艦がとどまり続けるのは問題があった。2隻のドイツ軍艦をオスマン帝国に譲渡するという解決策がまとまり、16日に正式に引き渡されゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム Yavuz Sultan Selim と、ブレスラウはミディリ Midilli とそれぞれ改名された。この解決策にイギリスはむしろ安堵したと言われる。ドイツ地中海支隊が中立国のオスマン帝国に編入されることで脅威がひとつ取り除かれたと考えたのだ。
 しかし当時オスマン帝国の対英感情は悪化していた。オスマン帝国はイギリスで2隻の戦艦を建造しておりまさに完成するところだったのだが、8月3日にイギリスが一方的に接収すると通告したのだ。イギリスは実際には宣戦布告前であったが実質的には戦時であるとみなしてこうした挙に出たのだが、しかし契約主であるオスマン帝国は中立国である。しかもなんの補償も提示されず国費を投じて建造した待望の戦艦を奪われた形になってしまった。そこにドイツがやや型落ちとはいえ巡洋戦艦1隻を譲ってくれることになりその対比は目立った。なおイギリスが接収した戦艦はエジンコート HMS Agincourt、エリン HMS Erin と命名されてイギリス海軍に編入された。
 トラウブリッジは軍法会議にかけられたが「優勢な敵との交戦を避けよ」という指示があったことから無罪とされた。ただし残りの戦争期間中前線指揮からはずされることになる。

オスマン帝国艦隊司令官

 オスマントルコ帝国では1909年以来イギリス海軍から顧問団を招聘していた。顧問団長はオスマン海軍の近代化と改革に取り組むことを任務とする一方で艦隊の指揮をとることになっていたが、ドイツに親近感を持つ青年トルコ党が主導権を握る政府の非協力もありなかなか成果が上がらなかった。伊土戦争やバルカン戦争で近代化が中断されたのも痛かった。これらの戦争でオスマン海軍は敗北を喫していた。
 8月15日、オスマン帝国はイギリスとの顧問団契約を破棄した。顧問団長リンパス中将 Arthur Limpus (1864-1931) は9月15日に離任した。9月23日、スションは代わってオスマン艦隊司令官に就任する。オスマン艦隊に編入された元ドイツ艦艇のドイツ人乗員はオスマン海軍の制服を着用した。
 10月27日にオスマン帝国は黒海の入り口であるダーダネルス、ボスポラス両海峡を封鎖する。29日、スション率いるいまやオスマン帝国海軍の旗を掲げたゲーベン改めヤウズを中心とする艦隊がオデッサ、セバストポリ、ノボロシースクなど黒海沿岸のロシアの港を攻撃した。与えられた損害は大きくはなかったが明らかな敵対行為だった。11月2日、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告する。
 セバストポリをめざしたトルコ艦隊は18日霧の中で5隻の前弩級戦艦からなるロシア艦隊と遭遇する。個艦の能力では優っていたものの衆寡敵せず短時間の戦闘で濃霧を利しての離脱に成功した。12月10日には黒海北東岸にあるロシアの港バトゥムに艦砲射撃を加えた。トルコ北岸トレビゾンドに陸兵輸送を護衛した帰途の26日、ボスポラス海峡の入り口で機雷に触れ損傷する。ヤウズが入渠できるサイズのドックはトルコに存在せず、ケーシングで損傷部を覆ったうえで破口をコンクリートで塞ぐという応急処置でしのぐしかなかった。まだ修理が終わっていない1915年4月1日、オデッサ砲撃をめざして出撃した巡洋艦が機雷に触れたため救援に出撃した。
 4月25日、ダーダネルス海峡のガリポリに連合軍が上陸する。オスマン海軍は北のロシアと南の英仏軍の両方に対応せざるを得なくなった。ヤウズは南方ダーダネルス方面に出撃したがイギリス戦艦と短時間砲火を交えて退避した。今度は北方セバストポリにロシア艦を求めて出撃、5月10日の朝、ボスポラスをめざしていた2隻のロシア戦艦と遭遇し短時間の砲戦ののち交戦を打ち切った。結果的にロシアはボスポラス攻撃を断念する。
 ガリポリ方面では上陸した連合軍部隊がなかなか前進できず連合軍艦隊も拘束されていた。イギリスの潜水艦がマルマラ海に侵入しオスマン帝国の旧型戦艦を撃沈するという事件も起こったが早急に突破されるおそれは少なく膠着していたと言っていい。むしろこの時期問題になりつつあったのはロシアと黒海東岸で対していたコーカサス戦線だった。双方が海路を通じて陸兵を送り込んだり補給を行なおうとするかたわら相手の作戦を妨害しようとする、その過程で小競り合いが起きて互いに損害を出した。1916年1月8日には就役したばかりのロシア戦艦インペラトリーツァ・マリヤ Imperatritsa Mariya とヤウズが交戦した。これは黒海で起きた唯一の弩級艦同士の海戦になるが痛み分けに終わった。なお1月9日には最終的に連合軍がガリポリから撤退している。
 オスマン帝国艦隊の活動を制約したのは石炭の不足だった。1917年に入るころには艦隊の活動は事実上停止に追い込まれてしまった。スションはこの間1915年5月27日に中将に昇進し、1916年10月29日にはドイツ帝国で最高の勲章プール・ル・メリット Pour le Mérite を受章している。

アルビオン作戦

 1917年9月4日、スションはオスマン帝国艦隊司令官の地位をルボイル=パシュヴィッツ Hubert von Rebeur-Paschwitz (1863-1933) に譲って帰国し、高海艦隊 Hochseeflotte に所属する第4戦隊 IV. Geschwader の司令官に着任した。カイザー級弩級戦艦 5隻を擁する第4戦隊は高海艦隊のなかでも有力な部隊のひとつだった。スションは戦艦フリートリヒ・デア・グローセ SMS Friedrich der Große を旗艦とする。フリートリヒ・デア・グローセは3月まで高海艦隊旗艦をつとめていた。

フリートリヒ・デア・グローセ
SMS Friedrich der Große


 着任して早々に第4戦隊はアルビオン作戦に参加することになる。当時東部戦線ではドイツ軍がリガ(現在ラトビア首都)に迫りつつあった。リガはバルト海の一部であるリガ湾の奥に位置しており、リガ湾入り口にはエーゼル島をはじめとする島々が連なって湾口をふさいでいる。この島々に陸軍を上陸させて占領しようというものだった。

アルビオン作戦


 リガ湾への攻撃は1915年にも試みられていたが機雷による防御が厳しく撤退を強いられた。当時の戦況では無理をする必要はないと考えられたのだが因縁の地であることはたしかだった。さらに1916年5〜6月のジュトランド海戦以降ドイツ海軍の重点は潜水艦戦へとシフトし、戦艦などの水上艦隊はイギリス艦隊に備えて基地で待機するという日々が続いた。水兵の士気低下は著しく、陸軍からは海軍不要論も飛び出し、海軍としては存在意義を示さなければいけない状況に追い込まれていたのである。
 アルビオン作戦は海軍の支援のもと陸軍部隊が敵地に上陸するというドイツ軍としては初めての陸海協同の両用作戦になる。この種の作戦の前例としては連合軍が実施して最終的に撤退に追い込まれたダーダネルス作戦がある。この作戦でスションは防御側として関わった。その経験が買われてアルビオン作戦のためにトルコから呼び戻されたという側面もあったかもしれない。
 海軍側の作戦指揮官は第1戦隊司令官シュミット中将 Erhard Schmidt (1863-1946) で独立旗艦である巡洋戦艦モルトケ SMS Moltke に乗り組む。陸軍司令部もモルトケに同乗する。主力はスションの第4戦隊とベーンケ Paul Behncke (1866-1937) が指揮する第3戦隊の戦艦10隻で38cm砲を搭載する最新戦艦バイエルン SMS Bayern も含まれた。付属する軽巡洋艦部隊も新型艦を中心に選ばれ駆逐艦や掃海艇も多数参加する。ドイツ海軍の全力というわけではないが相当の戦力を割いたことは間違いない。
 スションの第4戦隊を含む主力部隊は9月23日にキール軍港を離れ東プロイセン、ダンチヒ湾の前進基地に移動する。陸軍を乗せた輸送船やそれを護衛する駆逐艦、掃海部隊も周辺の港湾に集結した。しかし悪天候のため作戦の開始は延び延びになる。ようやく出港できたのは10月10日の夕方のことだった。夜を徹して北上した艦隊は翌11日からエーゼル島西部の機雷原に航路をひらく掃海作業にとりかかる。
 奇襲をめざしたシュミットは掃海作業の完了を待たず前進を命じた。イギリス潜水艦が出没しているという情報もその決断を後押しした。工兵を搭載した輸送船が機雷に触れ退避したが、戦艦を含む艦隊はエーゼル島北部の海域に侵入。艦砲射撃による支援のもと12日早朝から陸軍部隊はタッガ湾に上陸を始めた。一方でスションは麾下の戦艦のうち3隻を本隊に預け、戦艦2隻でエーゼル島南部のスウォルベ半島に向かった。スウォルベ半島はバルト海とリガ湾を結ぶ水路のひとつであるイルベ海峡に飛び出す要地だった。この行動は陽動の目的もあったが、半島先端の砲台に艦砲射撃を行なったものの反撃がなかったため打ち切って本隊に合流した。
 上陸した陸軍部隊は前進を続けロシア軍部隊は14日には島の東部と南部に押し込まれた。東部では手痛い反撃を受けることもあり、沿岸では水深が浅いため駆逐艦などの軽艦艇しか進入することができずロシア軍の駆逐艦と激しい戦闘になったが詳しくは割愛する。問題は南部スウォルベ半島に逃げ込んだロシア軍だった。イルベ海峡に敷設された機雷を掃海してリガ湾への航路を確保するためにはスウォルベ半島の無力化が絶対に必要だった。
 半島の根元は細くくびれており、先端のゼレル岬には砲台が健在だった。数千のロシア兵が籠っているとみこまれ、追撃していたドイツ軍は攻撃を躊躇した。実際にはゼレル岬の砲台は陸地に向けて砲撃することはできなかったのだがドイツ軍にはわからなかった。スションは第4戦隊のうち3隻の戦艦を率いて再びスウォルベ半島に向かった。14日夕方に到着したスションは半島に向かって砲撃を始める。
 半島のロシア軍は混乱していた。二月革命で帝政は崩壊しており彼らは臨時政府のもとで戦っていたのだ。兵士評議会と指揮官の二重権力状態にあり統一された意思決定は難しかった。兵士評議会では降伏を決議したが海軍からリガ湾にある2隻の戦艦のうちグラジダニン Grazhdanin を救援に送ると伝えられたのでひとまずそれを待つことにした。なおグラジダニアンは革命で改名される前はツェザーレヴィチ Tsesarevich という艦名で、黄海海戦のあと青島に逃げ込んで抑留されている。東アジア戦隊の参謀長だったスションはきっと目の当たりにしていたことだろう。
 ドイツ海軍は15日朝からイルベ海峡の掃海作業を始めた。戦艦部隊は支援砲撃の要請があった場合に備えて半島西側で待機する。半島内部ではパニックに陥った一部のロシア兵が砲台の破壊を開始する。その煙は海上のドイツ艦隊からも見てとれた。ロシア艦隊もそれをみてドイツ艦隊との交戦を断念し、夕方に半島東部に接近し一部のロシア兵を救出して翌朝までに避退した。残ったロシア軍は18時に降伏を申し出た。実際の降伏は翌朝となったためその間に砲台や武器は破壊される。

11月15日の戦況


 障害が取り除かれたイルベ海峡の掃海は順調に行なわれるようになり、16日には第3戦隊の戦艦2隻がイルベ海峡を通過してリガ湾に進入する。その第3戦隊は翌17日にはエーゼル島の反対側になるムーン海峡でロシア艦隊と交戦しロシア戦艦のうち1隻を大破自沈に追い込み残存部隊は北方に逃れた。リガ湾の制海権はドイツが確保した。
 海からの脅威がほぼ取り除かれたため第4戦隊の戦艦は交代で石炭補給のためダンチヒ湾に戻りながら支援を続けた。最終的に戦艦フリートリヒ・デア・グローセが帰国したのは10月27日のことである。
 これはドイツ帝国海軍水上部隊の最後の勝利となった。1918年4月23日に麾下戦隊の一部を率いてノルウェー方面に出撃したが会敵することなく2日後に帰還する。8月11日大将に昇進し第4戦隊司令官を退任する。

キール軍港司令官

 1918年10月30日、スションはバルト海管区司令官兼キール軍港司令官に任命される。これに先立つ10月3日、休戦を模索する皇帝ヴィルヘルム2世 Wilhelm II (1859-1941) は自由主義的な思想でしられるマックス・フォン・バーデン Max von Baden (1867–1929) を首相に任命した。新しい内閣には社会民主党 Sozialdemokratische Partei Deutschlands (SPD) 員も入閣しており挙国一致体制を作って休戦に持ち込もうという目論見だった。
 ドイツ海軍はイギリスの封鎖にあって戦艦などの大型艦艇が基地での待機を余儀なくされていた。作戦の主力は軽艦艇と潜水艦に移り、大型艦艇の乗組員の中にはこうした艦艇に異動を願い出るものも多かった。結果として戦艦の乗組員の士気は低下する一方だった。海軍中央では士気の回復をはかるねらいと、休戦前にイギリス艦隊に決戦を挑みたいという気持ちがあいまって高海艦隊の全力で北海に出撃するという計画を立案し、10月24日に準備命令を発出した。

10月24日の海軍命令


 実行期日は10月29日に予定されていたがそれを知る由もない一般水兵は不安にかられた。イギリス海軍の大艦隊 Grand Fleet はドイツ高海艦隊のほぼ二倍の戦力をもっていた。北海に面する高海艦隊の基地があるヴィルヘルムスハーフェンに停泊していた戦艦の水兵は勝ち目のない戦いに駆り出されるのを肯じえず、命令に服従することを拒否して街に繰り出しデモ行進した。この反乱は30日に鎮圧されたがその同じ日、24日に発出された命令は取り消された。
 反乱者を出してしまった第3戦隊司令官クラフト中将 Hugo Kraft (1866-1925) は戦隊をヴィルヘルムスハーフェンに留めておくことは危険だと判断してバルト海に面したキールに移ることにした。ところが戦隊がキール運河を経てキールに向かう途中、艦内では反乱に参加して拘束された兵士がキールの海軍監獄に送られ軍法会議に掛けられるという噂が広まった。
 11月1日には艦隊がふたたび出撃しないように250人の水兵が集会を行なった。3日には独立社会民主党 Unabhängige Sozialdemokratische Partei Deutschlamds (USPD) 員に組織されるさらに大規模な集会が催され「平和とパン」というスローガンを決議した。彼らは拘束されている水兵の釈放を要求する。集会を解散させようとした士官は部下に警告射撃を命じたが効果がなく、実弾による鎮圧を命じて死者が出た。士官自身も応射に遭い重傷を負った。ドイツ革命が始まった。
 知らせを聞いたスションは外部から部隊を導入しようとしたが参謀が「事態は制御できている」としたため見送った。わずか4日前に着任したばかりのスションは参謀の意見に従うしかなかったのだ。しかしスションは結局翌日になって陸軍の助けを借りることにした。6個中隊の歩兵がキールにやってきてキール市の中央広場と海軍司令部の警備にあたった。水兵は兵舎に集まって命令を拒否した。一部の水兵はデモ行進を行なった。最初の兵士評議会が組織された。兵士評議会はやがてドイツ全土で組織される。スションは導入された歩兵の撤退を約束し兵士評議会との交渉に乗り出さざるを得なくなった。拘束されていた水兵は釈放された。
 歩兵の一部も水兵に加わり、4日の夕方には4万人の水兵、兵士、労働者が市を事実上支配した。検閲の禁止や、あらゆる状況での艦隊出港禁止など14項目の要求を決議した。マックス内閣は交渉のためSPDの政治家であるノスケ Gustav Noske (1868-1946) をキールに派遣した。SPDを味方だと思っていた兵士評議会はノスケを熱烈に歓迎し、彼を評議会議長に選出した。ノスケは評議会をコントロールして秩序を回復しようと試みた。12月までかかってノスケはそれにある程度成功した。この間、11月7日に軍港司令官の地位を正式にスションから受け継いだ。

戦艦プリンツレゲント・ルイトポルト SMS Prinzregent Luitpold の水兵が組織した兵士評議会

戦後

 スションは翌1919年に正式に海軍から退役した。その後は表に出ることはなく、ナチによる再軍備後も新しい海軍にかかわることなく、1946年1月13日にブレーメンで死去する。
 彼の甥ヘルマン Hermann Souchon (1895-1982) はローザ・ルクセンブルク Rosa Luxembug (1871-1919) の殺害の実行者だとされている。

 トルコ軍艦ヤウズ・スルタン・セリムは二度の世界大戦もトルコの政体変更も生き延び1971年に売却され1973年に解体場に曳航される。解体作業が完了したのは1976年のことである。第一次大戦以前に就役した弩級艦としてもっとも長命だった。

戦後のトルコ戦艦ヤウズ TCG Yavuz

おわりに

 ChatGPTに「スション提督について教えて」と尋ねてみたところまるっきりのウソ出鱈目を教えてくれやがりましたので、これは教育せねばなるまいとウィキペディアを確認したところ知らなかったことが色々書かれていて「へー、こんなこともやってたのか」と思ったのがきっかけでした。ただしChatGPTはそれ以上役に立ちませんでした。
 アルビオン作戦に関する英語版ウィキペディアの記述があまりに参考にならない一方で、ドイツ語版の項目はどうも公刊戦史を大いに参照しているらしくやたらと詳細でポイントを掴むのに苦労しました。ドイツ語はいちいち自動翻訳を通さないと大意も読み取れないので英語に比べてはるかに読むのが大変でした。それでも昔ちょびっとだけかじったのが少しは役に立っていたような気がします。

 いつものように関連書籍を挙げておきます。

 画像類は基本的にウィキペディアから引用していますが、過去ネットから拾ってきた出所がわからなくなってしまったものも一枚混じっています(最後のやつ)。

 ではもし機会がありましたらまた次にお会いしましょう。

(カバー画像は巡洋戦艦ゲーベン SMS Goeben)

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