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米掃海艇ホイップオーウィル USS Whippoorwill

 第二次大戦にも従軍した旧式掃海艇です。日本ではマイナーですがその艦歴は意外に波乱に満ちていました。

真珠湾での日々

 第一次大戦中の1916年、まだ中立だったアメリカ海軍では掃海艇の量産を計画した。当時としては比較的大型の950トンというサイズで、機関には旧式のレシプロ機関を採用した。完成した艇には鳥の名前が与えられ、バード級と総称される。35番艇はアラバマ州モビールの造船所で建造されたが、就役したのは1919年春になる。艇名の由来となったホイップオーウィルは北米大陸東部に棲息する体長25cmほどの鳥である。鳴き声がそう聞こえることから名付けられたといわれる。

ホイップオーウィル

 ホイップオーウィル USS Whippoorwill は略して「ホイップ Whip」と呼ばれた。休戦直後のイギリスに派遣されスコットランドを基地として、北海北部に敷設された40万発におよぶ機雷の除去に従事した。指揮官は9月30日に作業の終了を宣言し、11月にいったん帰国したあと太平洋艦隊に配属された。海軍艦艇に番号が与えられることになりホイップには AM-35 と付番される。1921年春、新しく母港となったハワイ真珠湾に到着する。

 ホイップのハワイでの任務は機雷の敷設と掃海を訓練するかたわら、実弾射撃訓練の標的を曳航するとか、大型艦の着岸を補助するなど、掃海艇と曳船を兼ねたような地味なものだった。この日常は20年続く。1930年代に数年間、南太平洋の米領サモア、パゴパゴ港に派遣されていたことがあるが、そこでの仕事も変わり映えしない。

 そのホイップが太平洋の孤島ウェーク島の調査団を乗船させることになる。もともとハワイでの同僚艇であるタナガー USS Tanager (AM-5) が、農務省とハワイ大学による合同調査団を数次にわたってウェーク島まで運んでいたのだが、その第4次調査にホイップも参加することになる。1923年7月、先行隊と調査用の水上機を搭載したホイップは真珠湾とウェークを往復する。
 この実績が評価されたのか、1926年には今度はハワイの南方、ジョンストン島やパルミラ島、キングストン環礁などの無人島の調査にも参加することになる。

フィリピンへ

 1941年2月26日、真珠湾に新艇長フェリター少佐 Charles Arthur Ferriter (1901-1970) が着任したとき、ホイップは改装工事の最中だった。前甲板のマストとデリックを撤去し、艦橋後方に新たなマストを設置した。工事を終えた5月5日、ホイップは住み慣れた真珠湾を出港する。所属する掃海隊がフィリピン、マニラのアジア艦隊に配属されることになったのだ。途中、ハワイからフィリピンに向かう飛行機を誘導する任務を与えられた各艇は、それぞれ指定された誘導地点に間に合うように出港した結果、ばらばらに真珠湾を発つことになる。
 期日よりも早く誘導地点に到着することを厳しく禁じられたホイップは、時間を稼ぐため低速で単独航行する。暇をもてあました艇では、毎日行なわれた訓練の合間を魚釣りで過ごした。ときには乗員全員の食事をまかなえるくらい大漁だったこともあったという。ウェーク島の北方を通過して指定された誘導地点に到着したホイップは飛行機が接近中という連絡をうけてビーコンを発する。艇上からは目視できなかったが飛行機は無事通過して行った。
 誘導任務を果たしたホイップはグアムに向かう。ところがグアムでは本国からフィリピンに直ちに向かうよう指示されているとして補給を拒まれた。フェリターは、グアムの市場で新鮮な野菜をいくらか調達させただけでフィリピンに向かわざるを得なかった。
 グアムとフィリピンのあいだでもう一度誘導任務をこなしたあと、かつてメキシコとマニラを結んだスペインのマニラ・ガレオンも行き来したフィリピン中部サン・ベルナルジノ海峡を通過してマニラ湾に錨をおろしたのは5月30日のことだった。すでに先着していた同僚艇もあり、おくれて到着した艇もあったがやがて第9掃海隊はマニラに勢揃いする。
 第9掃海隊はマニラでは多忙だった。マニラ湾ばかりではなく北方のスビック湾に機雷を敷設したり、防潜網を設置したり、水中聴音器を設置したり、マニラ湾周辺をパトロールしたり、南部フィリピンに一時派遣されたりした。しかし射撃訓練の標的を曳航したり、駆逐艦や巡洋艦の接岸を補助させられるのにはフェリター少佐は不満だった。ホイップはあくまで掃海艇であり、曳船のようなことは戦闘艦艇がすることではない、プライドにかかわる問題だと考えていた。

開戦

 掃海艇ホイップは日米開戦をマニラで知る。フェリター艇長は全乗員を集合させてこのニュースを伝達し、日本軍の攻撃に備えた。ホイップを含む在マニラ掃海艇部隊は早速防御のための機雷敷設に出動する。マニラ湾口コレヒドール島南方に機雷を敷設して戻る。この日の昼に日本機がやってきてそれに向かって発砲したのがアジア艦隊で最初に実際に敵に向かって発射したものだ、とフェリターは主張する。
 フェリターは戦争準備を急がせた。燃料と補給品を満載した。機関員は市場に機関の予備部品を買いに行く。厨房員は買えるだけの食糧を買い込んだ。信号員は不足していたタバコを大量に買い込む。従兵は洗濯屋に艇長の洗濯物をうけとりにいった。

 12月10日、昼食後「日本機が接近中」という知らせをうけたフェリターは戦闘配置を下令してマニラに向かった。マニラ近郊のカビテ軍港は激しい攻撃を受けていた。軍港の埠頭には駆逐艦ピアリ USS Peary (DD-226) が係留されていたが、埠頭の建物は激しく炎上しておりその火がいつ駆逐艦に移ってもおかしくなかった。
 フェリターはホイップをピアリに近づけ、ロープをつないで埠頭から安全な海面に引き出そうとした。乗員をピアリに乗り移らせてロープをつなごうとするのだが作業は難航する。埠頭では爆発が何度も起こり、飛び散った破片がせっかくつないだロープを切断するということを二度繰り返し、ようやく三度目に引き出しに成功した。比較的安全な海面に移ったホイップはピアリに横付けして負傷者を救出し、陸上の病院に送った。フェリターはこのときの「危険を顧みない勇敢な行為」によりネイビー・クロス勲章 Navy Cross を受章する。

脱出

 艦隊司令部から艇の状態を尋ねられたフェリターは「まったく問題なし」と答える。その夜、砲艦タルサ USS Tulsa (PG-22) に集合を命じられたフェリターは、タルサ、砲艦アシュヴィル USS Asheville (PG-21)、掃海艇ラーク USS Lark (AM-21)、ホイップオーウィルの4隻でマカッサル海峡を経由してオランダ領東インドに向かえという命令をうける。
 夜のうちに出港し、翌日の昼間は島陰にかくれ、その後も開水面を行くのは夜間のみとし、昼間は沿岸をたどりながらジャワ島スラバヤをめざすという計画である。ホイップに戻ったフェリターは旗艦タルサが動き出すのを待ったが深夜をすぎてもうごく気配がない。待ち続けるのは不利だと考えたフェリターは、先に出港して港の外で合流すると伝えて出港する。港外で待機していたホイップは、たまたま入港するイギリスの巡洋艦に行き合う。湾口の照明が点灯されてホイップの姿を浮かび上がらせた。そのあとも商船が通るたびに照明が点灯されてホイップの姿があらわになる。フェリターは島陰に移って他艦の合流を待つことにした。
 マニラ南方の島陰にかくれたホイップだが翌日の午後、日本機に発見される。他艦の合流を待たずにフェリターは単独で南に向かった。北ボルネオに日本軍が上陸したという情報(誤情報)もあり、主に夜に距離を稼ぎ、昼間は島陰を伝うという航海だった。ある夜、イルカの群れがホイップに寄り添って泳ぐのが目撃され乗員は喜んでいたがフェリターは潜水艦に驚いて浮上してきたのかもしれないと考えていい気分ではいられなかった。途中「貴艇は単独で行動しているか」という無線を受信したが、無線封止をしていたため返信はしなかった。南ボルネオのバリクパパンに到着したのは12月15日だった。他の艦艇が追いついたのはその3日後で、さらにその翌日スラバヤに向けて出港する。到着したのは12月22日のことである。

オランダ領東インド

 スラバヤのアメリカ軍艦4隻はオランダ海軍の指揮下に入ることになり、ホイップにも連絡士官が派遣されてくる。ホイップとラークはスラバヤ港西口の警戒と掃海にあたった。敷設された機雷の中には日本語らしき文字が刻まれているものもあった。
 スラバヤが最初に空襲をうけたのは2月3日だった。ある日、ホイップがスラバヤ西口の機雷原の外で警戒にあたっていると国籍不明の掃海艇が15ノットの速度で接近してきた。日本軍が上陸作戦を始めるときにはまず掃海艇が海面を掃海することは知られている。いよいよ日本軍が来たと思ったフェリターは機雷原の内側に移動して司令部に日本軍の来襲を伝える。やがて判明したのはその掃海艇はオランダ海軍のものだということだった。もし本当に日本軍だったらホイップはひとたまりもなかっただろう。
 2月8日の空襲では港内に停泊していたホイップとラークはかろうじて命中を回避した。2月18日には旧式巡洋艦スラバヤ Hr.Ms. Soerabaja が撃沈された。22日、ホイップとラークはジャワ島南岸に位置するチラチャップに移るよう命じられた。オランダ海軍の連絡士官は退艦した。その日の午後、2隻はスラバヤを離れ、ジャワ島西端のスンダ海峡をめざす。ジャワ海にはすでに日本軍が侵入していた。日本軍がまさに上陸しようとしているジャワ島北岸から距離をあけて西へ進む。翌日炎上しているオランダ商船を発見したが生存者は見つけられなかった。バタビア(ジャカルタ)沖を通過するとき、イギリス巡洋艦エクセター HMS Exeter と通信を交わしたが、その2日後にエクセターは撃沈された。スンダ海峡を抜けてインド洋に出たら2隻は、26日にチラチャップに到着する。港内は公私の艦船でごった返していた。アメリカ軍とオーストラリア軍の兵士がオーストラリアに脱出するための船を待っていた。

 27日の午後、アメリカの水上機母艦ラングレー USS Langley (AV-3) がジャワ島南方で日本軍機によって撃沈されたという知らせをうけて救出のため出港した。沈没地点に到着したホイップは油やドラム缶、飛行機のタイヤが浮いているのは見つけたが生存者を発見することはできなかった。28日の午前中まで捜索を続けその後チラチャップに帰還するよう指示されていたホイップはその28日早朝、かすかな光を見つける。ラングレーの救命ボートの灯ではないかと考えて接近したホイップが発見したのは炎上する商船だった。乗組員を救助して商船が沈没するのを見届けたホイップはチラチャッブに戻った。
 3月1日、オランダ海軍司令部はホイップとラークに予想される日本軍の上陸に備えるよう指示した。しかしその午後、現地のアメリカ海軍最先任士官 Senior Officer Present Afloat はすべてのアメリカ艦船に対してジャワを脱出してオーストラリアに向かうように命ずる。命令としては後者が優先される。その日の午後ホイップはチラチャップを発つ。

オーストラリアからフィリピンへ

 ホイップがオーストラリア西部パース郊外のフリーマントルにたどり着いたのは3月9日のことだった。以後ホイップはフリーマントル、西オーストラリア南部のオルバニー、オーストラリア大陸西北端のエクスマスを基地としてオーストラリア西岸の航路保護に従事する。一年半あまり続いたこうした任務の末、1943年12月から改造工事が行なわれた。改造工事はは翌年3月に完成し、そのあいだに艦番号も AT-169 に変更されている。ホイップはオーストラリア北東部ブリスベンに移って第7艦隊に編入された。ブリスベンでは追加工事が行なわれ、掃海具が撤去されるとともにウィンチとそれを動かすための補助エンジンが搭載された。完全な曳船仕様になったわけだが、フェリター少佐はすでに1942年11月に交代している。

 ホイップは第7艦隊の支援部隊の一員として、ニューギニア東端のミルン湾やアドミラルティ諸島の後方泊地にとどまらず、西部ニューギニアへの上陸作戦では前線のすぐ後ろで損傷艦が出た場合の救援に備えた。最前線がニューギニアからフィリピンへと進むと、ホイップもそれにあわせて前進する。レイテ島にいたったのは1945年2月、いったんニューギニアに戻ったあと、マニラに入ったのは戦争が終わろうとする夏のことだった。3年半あまりが経っていた。年内いっぱいフィリピンにとどまり、懐かしい真珠湾に戻ったのは1946年1月15日である。サンフランシスコで解役されたのは4月17日、除籍されたのが6月10日、廃棄リストに登録されたのが11月6日であった。

おわりに

 アメリカ海軍にはときどき読みづらい名前の艦が登場しますが、ホイップオーウィル(この読みも自信がありません)はその中でも五本の指に入るのでないでしょうか。最初見た時はオランダ語かと思いました。
 別のネタに関連してジョンストン島について調べていたところ、そこからのリンクをたどっていてたどり着いたのがこのフネでした。この種のフネにしてはやけに記述が詳しいのでさては出典があるなと検索してみたら艦長の手記が残っていました。

 最初はこの手記を訳せばいいんじゃないかとも思ったのですが、自分の手に余るのと、それ以前の太平洋諸島の調査のくだりが抜け落ちてしまうので、組み合わせてまとめてみることにしました。もし気が向いたら手記を読んでみてください。

 画像はウィキペディアから引用しました。

 ではまた機会がありましたら次にお会いしましょう。

(カバー画像は掃海艇ホイップオーウィル)

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