海軍軍人伝 大将(3) 三須宗太郎
これまでの海軍軍人伝で取り上げられなかった大将について触れていきます。今回は三須宗太郎です。
前回の記事は以下になります。
海軍大臣官房人事課長
三須宗太郎は安政2(1855)年8月6日に近江彦根藩士の家に生まれた。藩主井伊家は大老として江戸幕府を支えてきたが戊辰戦争では新政府軍に与した。しかし安政の大獄の印象が強い彦根藩出身者は新政府では肩身の狭い思いを強いられた。三須は数え17歳で東京築地の海軍兵学寮に入寮した。生徒時代に台湾出兵と西南戦争に従軍したと伝記にあるが、台湾出兵については志願者に名前があるが実際に従軍したか定かではない。実習のためコルベット筑波に乗船しているあいだに西南戦争があり、生徒は退艦することになったが砲員が不足して一部が残留したその中に三須が含まれている。筑波は横須賀に配備されたが九州方面の警備にも従事している。
西南戦争後も筑波乗組は続き、翌年早々から遠洋航海をおこなった。横浜を出航し、日本の軍艦としてはじめて赤道を越えて南半球に入り、オーストラリアを訪問して6月に帰国した。8月16日には海軍少尉補を命じられる。第5期生43名のうち卒業成績は8位だった。砲艦孟春に配属され、明治14(1881)年1月26日に海軍少尉に任官する。練習船摂津、コルベット浅間乗組を経て明治16(1883)年11月5日に海軍中尉に進級した。のちも海兵団にあたる横須賀屯営勤務のあと、イギリスに派遣される。当時最新鋭の防護巡洋艦浪速を受領して日本に送り届ける回航委員を命じられた。帰国直前の明治19(1886)年6月17日に海軍大尉に進級する。その後も砲術長をつとめ、浅間に戻って副長を拝命した。装甲コルベット龍驤副長を短期間経験したあとに横須賀鎮守府参謀に補せられた。鎮守府が横浜から横須賀に移されて間もない頃で、当時の司令長官は仁礼景範だった。
明治24(1891)年1月19日に海軍少佐に進級して海軍大学校教官のあと、江田島に移転した海軍兵学校で生徒の生活指導に責任をもつ監事長をつとめた。巡洋艦高雄とコルベット金剛の副長を相次いでつとめる。金剛では海軍兵学校第19期生の生徒を乗せて北米方面を往復する遠洋航海をおこなった。帰路、ハワイで革命騒ぎに遭遇して居留民保護のためしばらく滞在した。当時のハワイは独立のハワイ王国である。本国から派遣された巡洋艦浪速と交代して帰国したのは明治26(1893)年4月である。帰国後は東京の海軍省で官房人事課長に補せられる。のちに人事局に拡大されるが当時はまだ官房附属の小所帯でそれだけ組織の規模が小さかったのだろう。人事権を握っていたのは海軍大臣の西郷従道、その下で官房を仕切っていたのは官房主事の山本権兵衛だった。二人のもとで三須は日清戦争を戦う日本海軍の人事をつかさどった。戦争中は天皇に直属する軍事内局員を兼ね、明治27(1894)年12月18日には海軍大佐に進級した(当時は海軍中佐の階級は廃止されていた)。
4年あまりにおよぶ人事課長勤務を終えて艦隊に復帰し新鋭巡洋艦須磨艦長をつとめたあと、かつて勤務した浪速の艦長に補せられた。日露戦争を控えて日本海軍は軍艦の整備につとめ、その多くをイギリスに発注していた。10年以上前に浪速を受けとるために渡ったイギリスに今度は責任者として派遣される。はじめ装甲巡洋艦出雲を担当する予定だったが、同じくイギリスに派遣されていた上村彦之丞が海軍少将に進級したため代わって戦艦朝日を日本まで送り届けることになった。
第一戦隊司令官
明治34(1901)年7月3日に海軍少将に進級して海軍省人事局長に就任した。かつての人事課長と役割は同じだが組織は大きくなっている。海軍大臣は山本権兵衛に代わっていた。日露戦争を目前にして拡大する組織や部隊に漏れなく人員を配置できたのは三須の功績である。人事を差配する三須であれば戦時も海軍省にとどまることも可能だったはずだが、戦時体制に移行するとあえて前線に身を置くことにした。まず第二艦隊の上村司令長官の下で装甲巡洋艦で編成される第二戦隊の司令官をつとめる。第二戦隊には上村長官も乗艦しており三須の立場は微妙だったが、蔚山沖海戦では長く苦しめられたロシア巡洋艦隊を撃破した。
旅順陥落後の明治38(1905)年1月12日に海軍中将に進級するのと同時に第一艦隊に移って第一戦隊を司令官として任される。第一戦隊の三笠には東郷平八郎聯合艦隊長官が乗っており、相手は変わったが微妙な立場であることは変わらなかった。三須は戦隊の殿艦の装甲巡洋艦日進に乗艦する。聯合艦隊の主力である第一戦隊は、日本海海戦では敵艦隊の動きに対応して一斉回頭することがあった。そのため、第一戦隊では両端にあたる三笠と日進の損傷が激しかった。三須も負傷し、右目を失った。乗組候補生の高野五十六も重傷を負い左手の指を二本切断している。
戦後は海軍教育本部長を短期間つとめたあと、旅順鎮守府司令長官に親補された。年末には東京に戻って海軍軍令部次長に補せられる。軍令部勲務はこれがはじめてになる。親補職から軍令部次長は格下げになるがこの頃はあまり気にされなかったようだ。明治40(1907)年には勲功により男爵を授けられて華族に列せられた。部長の東郷平八郎と同時に軍令部を退く。日本海に面した舞鶴軍港は日露戦争前に設置されたが、他の軍港と比べて設備は劣っていた。海軍省の下に置かれた臨時海軍建築部はその整備にあたるもので、三須は臨時建築部長をつとめたあと、舞鶴鎮守府司令長官に親補されることになる。臨時海軍建築部はのちに支部を朝鮮南岸の鎮海要港に置き、本体はやがて海軍省建築局に変わる。
大正2(1913)年9月25日に海軍大将に親任されるのと同時に舞鶴鎮守府司令長官を退任する。かわって海軍将官会議議員に補せられたのは予備役含みだったのだろう。年度末には早くも待命となり、1年後の大正3(1914)年12月1日に予備役に編入され59歳で現役を離れた。すでに第一次世界大戦が始まっていたが考慮された気配はない。大正9年に後備役に編入された。
三須宗太郎は大正10(1921)年12月24日に死去した。享年67、満66歳。海軍大将正三位勲一等功二級男爵。
おわりに
三須宗太郎も目立たない、と書くのもすでに飽きました。ひそかに勇将だったとも言われますが、薩摩全盛の海軍にあって彦根出身者としては必要以上に目立たないのが処世術だったのでしょうか。
ウィキペディアにはイギリスでの回航委員長交代について「出雲の完成が遅れたため」とありますが出雲は1898年5月起工、1899年9月19日進水、1900年9月25日竣工で建造期間は2年4月、これで「遅れた」とは造船所にしてみれば言いがかりにしか思えないでしょう。朝日の竣工は1900年7月31日で2カ月も変わりません。上村が進級したために順番に詰めたのが実態じゃないでしょうか。そのくらい想定できなかったのかという疑問はありますが。
ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は三須宗太郎が回航委員長をつとめた戦艦朝日)
附録(履歴)
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